後日談 その2 気弱な彼2
父との結婚披露宴の際に母が袖を通した水色のドレス。最高級の薄い布を使って設えられたそれは十年以上の時を経過しても古びることはない。デザインに少しばかり手を加えたものの、ほとんど当時のままの形をしたドレスは、初めて見た時からずっとリオの憧れだった。雄々しいナウザーの隣に繊細な姿形のファミアが並ぶ。母と自分を重ね、祖母よりようやく袖を通す許可を貰えた時は淑女としての教育などすっかりどこかへ行ってしまい、飛び跳ねて喜んだものだ。
「あなたには少しばかり早いような気もするけれど、大人びてとても綺麗だわ。」
リオを連れて社交界に出るのを楽しみにしていた祖母も、歳のせいか歩くのが辛くて座っている時間が多くなっていた。眩しそうな視線を向けるテレジアの前でリオはくるりと一回転すると、膝を付いて皺の増えたテレジアの手を取る。
「お婆さま、ありがとうございます。お母さんと同じドレスを着るのはずっと憧れだったの。」
「とても綺麗よリオ。ファミアさんに負けずとも劣らない、とても綺麗。さぁ、ランサムにも見せておやりなさいな。」
祖母の視線につられると、父の次に理想とする祖父が目を細めいとおしそうにリオを見ていた。
「お爺さま。」
「本当に美しく成長したね。私が五十年若ければ、血の繋がりも忘れ恋をしたに違いない。」
ランサムは片膝を付くとリオの手を取り、社交場で淑女にするようにその指先に口をつけた。
「お婆さまの次に、でしょ?」
「申し訳ないが、その通りだ。私の一番はテレジアだからね。」
いくつになっても女性への興味が薄れない祖父だが、彼が何よりも大切にし愛するのは伴侶であるテレジアだと誰もが知っている。ナウザーも妻であるファミアにべた惚れだ。そんな母と祖母が羨ましく、父と祖父はリオの理想となっていた。
「ところで本日のエスコートはファルスじゃないのかい?」
公の場に出る時にリオは着替えや髪結いの為に必ずファルムント家を訪れ、ファルスが同行するのが常となっていたのだが、今日は何処にもファルスの姿がない。テレジアもそういえば姿を見せないわねと周囲を見渡しながら呟いた。
「ファルスもよ。でも今日は別の男の子も一緒にエスコートしてくれるの。迎えにはその子が来てくれるわ。」
「ほお、可愛い孫娘の心を射止めたのはどちらの殿方かな?」
「いやだわお爺さま、わたしの心を射止められるのはお父さんやお爺さまの様な方だけよ。ちょっと事情があってね。イサークっていうファルスと同じ組の子よ。」
「イサーク……イサーク=カメリアか?」
穏やかな表情を崩さぬまま問うランサムの言葉に、テレジアが「まぁ」と静かに息を呑んだ。
「お爺さま、彼を知ってるの?」
「彼自身とは面識がないが、ご両親とは昔にちょっとね。」
「まぁ。彼って父無し子って虐められていたけど、ちゃんとお父さんがいるんじゃない。何よあいつら、とんだ言いがかりじゃないの。」
ぷっくりと頬を膨らまし小声で悪態をつくリオの頤をランサムが指でそっと撫でた。
「父親の方は強く結婚を望んだようだが、母親がとても気の強い女性でね。相手の身分が気に入らなかったらしくて彼女は未婚で彼を産んだんだよ。だけどこれは子供のせいじゃないし、彼にはどうしようもない問題だ。それを取り上げて父無し子と罵るのは確かによくない。」
「そうよね、お爺さまのいうとおりだわ。だからわたし、あいつらの鼻を明かしてやろうと思って。」 「なんだか面白そうだね。私も同行したいが、テレジアと離れたくないから仕方がないね。」
「お婆さまを一人にしてはいけないわ。あ、きっと迎えに来てもイサークの事だから扉を叩けないと思うのよね。だからわたし外で待ってるわ。それじゃあごきげんよう、お爺さま、お婆さま!」
元気にドレスの裾をたくし上げ駆け足で部屋を出て行くリオを二人は笑顔で見送った。その後で心配そうにテレジアの表情が曇りを帯びる。
「同じ歳ですもの、こんなこともあるわね。でもこれが発端となって二人の生活が―――あの子たちが嫌な思いをしなければよいのだけれど。」
「大丈夫じゃないか。彼女にも自らの手で築いた今の暮らしがある。それにリオの言葉通りなら悪い少年ではないようだよ?」
案じるテレジアの肩をランサムが抱き寄せる。窓から外を見やると遠くに馬車の影が見えていた。
*****
新入生歓迎会。女生徒らは美しく着飾り、男子生徒は社交界にでる訓練として女性を伴う者も多い。けれどあくまでも歓迎会、主役は新入生なのだが、この歓迎会で入学以来注目を集め続けるものが存在する。この辺りでは珍しく他には類を見ない色を持ったリオだ。薄い金色の髪と高い空を連想させる濡れた瞳は殿上人を連想させ人の目を引き付けた。真っ白な肌もしなやかな肢体もさることながら、うっすらと湛えられた微笑みに男性のみならず女性陣も虜にさせられる。噂を聞いて想像してはいても、実物を目にした幼い新入生までもがぽかんと口を開いて言葉を失っていた。しかしながら今年は感嘆の溜息に驚きの声が混じる。今までは必ず双子の弟であるファルスだけを伴っていたリオが、ファルスに絡めるとは反対の腕に一人の少年を伴っていたからだ。いつも下を向いているせいでぱっと見誰だか分らなかったが、やがてそれが大人しくいつも虐めにあっている少年だと誰もが気付く。先日の出来事を覚えている人間も多く、リオがイサークに興味を持ったのは本当だったのかと誰もが驚いていたが、特に自信満々にリオに告白して振られた少年らは驚きの他に嫉妬の炎をも渦巻かせていた。まったく余計なことをしやがってと、イサークを囃したてた元凶らに上級生たちまでもが詰め寄っていく。そんな光景を目にしながら満足気にリオは頬を緩ませつつ、イサークが下を向きそうになるとドレスに隠して彼の足を踏みつけていた。
「ぼっ、僕……何か飲み物でも取って来るよ。」
憧れのリオと話せ腕まで組めて幸せだったが、あまりの眩さに直視不可能だ。生まれのせいで劣等感の塊として育ったイサークは逃げ出そうとしたが、リオにぎゅっと腕を掴まれ離れられない。
「駄目よ、逃げる気でしょう?」
「逃げる気なんかっ―――」
「何だがシアル叔父様を見ているみたいだわ。ファルス、悪いんだけど三人分の飲み物って持って来れる?」
「いいよ、ちょっと待ってて。」
「あ、僕が―――」
「あなたは手を離したすきに逃げそうだし、逃げた先で吊し上げにあいそうなんでここに居なさい。」
リオは自分の容姿が周囲の人々にどのような印象を与えるか十分に理解している。女ながらに竜の奇跡を起こした、ちょっと毛色が違うだけでは済まされないものだ。入学した当初は竜の声が聴こえるよりも、見た目で男女問わず多くの人間が度肝を抜かれている。仕向けたのはリオだが、そのリオをイサークは手に入れているのだ。虐めっ子らを懲らしめる目的でやっているなんて誰も知らない状況で放り出すほどリオは馬鹿ではない。
「そうだわ、あの噴水の所で親密そうに話をしましょう。あなたがわたしの特別だって周囲に知らしめるいい機会だわ。」
会場の中で居心地を悪くしているイサークに提案したが、当のイサークは首を振って怯えていた。その様を哀れに感じたファルスが助け舟を出す。
「ふりにしてもそれはちょっとやり過ぎだよ。反感を買いかねない。」
「そうだけど、周囲には勝手に勘違いしてほしいんだよね。それでイサークを虐めた奴らに悔しい思いをさせてやる。ファルスも教室で気を付けてあげるつもりでしょ?」
一般人に手を上げたりしないが、竜騎士となる運命を背負っただけあって、ファルスが同じ歳の少年らに後れを取るなんてことにはならない。安心しろと自信を持つリオにファルスは仕方のない奴だと溜息を落とした。
「リオが地を出せばみんな引いて行くと思うけど?」
「それじゃあお婆さまに叱られちゃうじゃない。一人にして悪いけど、ちょっと行ってくるわ。後で感想聞かせてね。」
「えっ、本気な―――っ?!」
口答えした瞬間、誰かに聞かれるとリオから脇腹に肘を入れられたイサークは息を止めた。仲良く二人で寄り添い庭に出て行く様を多くの人間が見守る。実際にはイサークがリオに腕を組まれた状態でずるずると引きずられていたのだが。目的の噴水に到着した途端、腹の痛みも忘れイサークはリオから飛び退いた。その態度にリオはむっと頬を膨らませ腰に手を当てる。
「ちょっと、どうして逃げ腰なのよ。これじゃあ単に話している男女で終わっちゃうじゃない。」
「だって近すぎるよ。本当に勘違いされてもいいの?!」
「いいのよ。別にわたし達が恋人だとかって誰にも宣言していないんだから。もしかしてイサーク、あなた本当はわたしが好きじゃんじゃなくて、他の誰かが好きだった? それなら勘違いさせちゃ悪いんで中止するわよ?」
「そっ、そんなことないよ。僕が好きなのは君だからっ!」
勘違いしないで気持ちだけは信じてほしいと、イサークは意を決し勢いよくリオの腕を取る。
「えっ、ちょ……きゃあっ!」
「うわぁっ!」
取ったまでは良かったのだが、その取り方が良くなかった。意気込んだイサークは一歩踏み出した途端に足元の小石に躓き、リオに己の全体重をかけて二の腕を掴んでしまったのである。運動神経のよいリオであったが、普段なよなよしているイサークの急襲について行けず、そのまま後ろに倒れ込んでしまう。そして二人が倒れ込んだ先で待っていたのは冷たい水を吐く噴水だ。ざばんと勢いよく落ちた二人、特に下になったリオは頭から足の先までずぶ濡れだった。
「ごっ、ごめんっ。大丈夫?!」
「いやぁぁっ、お母さんのドレスがっ!!!」
悲鳴を聞きつけ人が集まって来るが、ドレスがずぶ濡れになってしまったせいで動転したリオは事態に気付けず、自分のせいでリオをずぶ濡れにしてしまったイサークも、悲鳴を上げるリオを前にどうしていいのか分からず動転していた。そんな二人の腕を引いたのは真っ先に駆けつけたファルスだ。
「イサークがリオを無理矢理押し倒したで合ってる?」
「ちっ、違う!!」
「お婆さまに叱られるっ!!」
イサークは蒼白になって首を振り、リオも同じく蒼白になって怯えている。噴水に落ちてずぶ濡れなんてリオの常識ではよくある話だが、テレジアの常識にはない話だ。しかもドレスは乾いた場所など一切なくぐっしょりと濡れている。高価な生地を使ったドレスだ、火熨斗を当ててもばれてしまうだろう。淑女としての生活を疑わない祖母にばれたら屋敷に幽閉され再教育の道まっしぐらだ。それだけは避けたい。
「取りあえず二人とも着替えようか?」
ずぶ濡れになったことでイサークを怒鳴りつける訳でもなく、ただひたすらテレジアに露見することだけを恐れるリオに、ファルスは苦笑いを漏らしながら二人を噴水から引きあげた。