出産
貧血による息切れやだるさが嘘のように、治療を受けてからの体調は悪阻の一つもなく万全だった。世の中の妊婦は嘔吐や食欲不振、食欲過多や眠れなかったり精神的に不安定になったりするのだが、ファミアは自分が何の苦労もなく妊娠生活を送れる状況に、きっとこれは竜の血のお蔭だと、どこかでいつの間にか摂取していたハウルから分けられたであろう血に感謝していた。順調なのが竜の血のお蔭か体質なのか分からないが、初めの貧血が嘘のようだとシアルにも驚かれている。初めは往診をしてくれるという話だったのだが、やはり竜の声が聴こえない人間が森に降りたつのを竜が嫌うらしく、定期的にナウザーがファミアを竜に乗せシアルに診察を仰ぐようになっていた。ぷっくりと膨らんだお腹にはやはり双子が宿っていて標準よりも大きい。出産は産婆が取り上げてくれるらしくファルムントの屋敷でと決められていた。それはしょうがないとファミアとナウザーも受け入れている。
臨月を前に立つことになったファミアだが、それに反抗したのがパウズだった。
『あと二十五日は生まれないぞ。なんでいなくなる。俺寂しい』
騒ぐのではなくしゅんと項垂れる様に、ファミアは自分を母親と慕ってくれるパウズとの別れを惜しんだ。
「ごめんなさいパウズ……やっぱりもう少し遅らせるわけにはいかないでしょうか。」
パウズの言葉に折れそうになるファミアだったが、すっかり大きくなった腹を見てナウザーの方が消極的になり首を振った。
「今にもはち切れそうじゃないか。パウズ、俺だって寂しいんだ。ファミアと腹の子の為にも快く送り出してくれ。」
『なんで我慢する必要ある。まだ生まれない。生まれる時に行けばいい』
「それじゃあ間に合わないんだよ。竜の背で産ませるわけにはいかないんだからな。」
パウズは時々腹の子の事を色々言ってくるが、竜に予言や腹の中の様子を見る力はない。だがファミアはなついてくれるパウズの言葉を信じようとして森を離れるのを遅らせようとするのだ。はち切れんばかりの腹に恐れをなしたナウザーが説得し、ようやく二人は納得して別れを告げる。出産後しばらくは動けなくなるのでファミアは長く森を開けることになる。二人の子供を連れて帰って来る時には小屋を掃除しておくと、ナウザーはファミアに固く約束をしていた。
時がたつのは早いもので、春の初めに妊娠が判明し出産は冬の初めだ。見慣れた茶色に染まる大地を臨みながら頬に冷たい風を受ける。竜の背から見下ろす景色にもすっかり慣れ、飛ぶのを楽しめるようになった。大きな腹を抱えているが、いつの間にか竜の背から落ちる心配もしなくなっていた。
基地に降りて竜から馬車に乗り換える。ファルムントの屋敷に到着すると義理の両親がそろって迎えてくれた。
「まぁまぁ本当に大きなお腹だこと。二人も生まれるなんて本当に楽しみね。」
「長旅で疲れただろう。ゆっくり休むといい。ナウザー、ご苦労だったな。お前は竜守りという重要な役目がある。嫁は私に任せて帰っていいよ。」
「ふざけんなよ糞親―――父上、面白い冗談ですね。」
テレジアにひと睨みされたナウザーはすぐに言葉を改めると、早々に両親から引き離してファミアを部屋に案内する。上流階級の生活に馴染めないファミアを気遣ってだが、ファミア自身の実家であるパシェド村での出産は考えられないので仕方がない。ファミアも納得してくれていたが、パウズが心配するのも頷けるなと、ここに来てナウザーに迷いが生じ始めていた。
「長いお休みを頂いたと思ってゆっくりします。産んだら寝る間もなくなるでしょうから、今のうちにたくさん贅沢させてもらいます。」
ファミアの言う贅沢は労働を怠るという意味だ、けして散財に走るわけではない。竜守りとしての役目があり長く森を開けられないナウザーでは一日おきにやって来るので精一杯だ。街に家を借りて手伝いを雇い出産させることも考えたが、そこはテレジアの強引さで押し切られた。実家が側にあるのに頼らなくてどうするのか。嫁の立場としても頷かなくてはならないし、そういうものだとファミアも納得してしまっていた。実際義理の両親はファミアに貴族の教養だとか無理難題を押し付けはしないが、嫁いだ限り努力はすべきとファミアが意気込んでしまうのだ。生まれだけはどうにも変えられない。出来た妻にナウザーは頭が上がらなかった。
ランサムは竜騎士団での役目があるので、ファルムント家での日常は義母とのかかわりが主だ。それも特に面倒事は起きず、普段はできない手習いを一つの経験だとやってみたり、生まれる子供たちの為に産着を縫ったりそれに刺繍を施したりと、わりと充実した生活を送っていた。心配事と言えば一人残したナウザーの事だ。出産と子育てに関しては兄嫁の手伝いをしていた経験のお蔭か、初産婦にしては落ち着いていた方だろう。しかしいざ出産となると見る聞くとはまったく異なり、体を内側から引き裂かれる痛みにもう無理だと、ファミアは生まれて初めて泣き言を漏らした。
結局ファミアは三日三晩陣痛に苦しみ、産婆とシアルもほとんど眠らずにそれに付き合った。そしてパウズの予言通り、ファミアが森を出てから二十五日目に男の子と女の子の赤子が生まれたのである。
ファミアが陣痛に苦しむ間、ナウザーは産室に入るのを許されなかった。産婆とシアルはファミアの体力消耗を気にし、精神面での支えになればと提案したが、ファミアがそれを望まなかったのだ。痛みに耐えても耐えても生まれてこない我が子にくじけそうになり、もう無理だと泣き言を漏らした。ここでナウザーの顔を見たらもう本当に駄目だ、産む気力を失ってしまうと拳を握る。短く切っていた爪ですら掌に食い込んで血が滲んでいた。ナウザーは生まれた子供を一人づつ片腕に抱いて泣きそうになるが、頑張ってくれたファミアが心配で早々に両親に託す。皺だらけで赤黒い生まれたばかりの子供たちは、一人は漆黒の髪の男の子でもう一人はファミアと同じ金色の髪の女の子だった。目を開かないので瞳の色は解らないが、きっとナウザーとファミアそれぞれの色を受け継いでいると感じる。ハウルの血を飲んだファミアから生まれた、ファミアと同じ色をした―――きっとこの女の子もそうなのだと、竜の声を聴く者の原点を見たような、そんな感覚にナウザーは襲われたのだ。
だが生まれたというのに子供は見せてもらえても産室へ入るのは許されなかった。今度はファミアではなく医者であるシアルの指示によって。双子を湯で清めた産婆の手を再び見た時には血に濡れていた。「絶対に覗くな」と注意した産婆は内から鍵までかけてしまう。横に立つテレジアが金色の髪の赤子を抱いてナウザーの隣に立ち、とても固く深刻な顔つきになっていた。三人の子供を産んだ経験から何を感じ取ったのか、自由にならない腕の代わりに足でナウザーを扉の前から引き離した。躾けに厳しいテレジアがこんな行動に出たのは後にも先にもこの時だけとなる。出産を終えた筈の産室からはファミアの唸り声が響いた。
「まさか三人入ってたとか言うんじゃないよな?」
「だとよいのですけれど……」
いつまでたっても苦痛に歪むファミアの声が治まらず、我慢の限界が来て扉を蹴破りそうになったナウザーにランサムは男の赤子を抱かせて座らせた。小さいが慣れない腕で抱いているとすぐに腕が痺れてくる。
「これが命の重みだ。お前が手を離せば儚くなってしまう。今は父親であるお前が子の命を握っているのだよ。」
子供を使ってナウザーを拘束したランサムの言葉はとても重かった。女はこれほどの奇跡を起こせるというのに、出産に関して男の出る幕はない。
「どうなっているのか―――父上、貴方にならわかりますか?」
「後産に苦労しているのよ。大丈夫、あなた達のお母さまはちゃんと笑顔で抱っこしてくれますからね。」
ランサムに変わりテレジアが答えた。ナウザーには後産が何なのかすら解らなかったが訊ねるのはやめてしまう。
産後の処理がすみようやくファミアと引き合わされたのは、双子が生まれて小一時間程してからだ。この三日、すぐ側にいるというのに何の力にもなれず、ナウザーの耳には扉の向こうから聞こえる妻の苦痛に歪む声だけが届いていた。竜騎士となり様々な経験をしたがこれほど恐ろしかったことは終ぞない。三日ぶりにようやく目にした妻は蒼白で意識がなかった。片付けは済まされているが強い血の匂いが充満しており、経験上どれ程の血が流れたのかをナウザーは瞬時に理解する。
「何が―――」
疲れ果てているのはシアルも同じで、目の周りは疲労で落ち窪んでしまっていた。そうでなければ胸ぐらを掴んで問いただしていただろう。産婆と手伝いは部屋を辞し、意識のないファミアを挟んで兄弟が向き合う。
「すごいよ彼女は―――いったい何なんだ?」
引き寄せた椅子に腰を下ろしながらシアルは頭を抱え項垂れた。
「胎盤が癒着して後産が上手くいかなかった。胎児を包んでいた膜が子宮に張り付いて出て来なかったんだ。自然に出ない場合は無理やり出すしかないんだけど、出血も酷くて兄さんに判断を仰ごうとした。けど―――ファミアさんは大丈夫だからって一人で頑張ったよ。」
シアルの説明を耳にしながら恐怖が込み上げ、ナウザーはファミアの肌に触れ脈を確認する。とても冷たい肌だったが、頸動脈は確かに打っていた。
「死にそうだったってことか?」
無言でうなずいたシアルをナウザーは「なんで呼ばねぇんだ!」と怒鳴りつけた。
「生きてるがよ、生かしてくれて感謝するけどよっ……お前―――」
もしもがあったらどうしてくれるんだと、一人で耐え頑張ったファミアの傍らに膝をつき首筋に顔を埋めた。どうして呼んでくれなかったと、意識のない妻に無言で問う。
「ちゃんと彼女に説明した。この状態の妊婦が命を落とす確率が高いってことも、手技によって大きな血管が傷ついて大量出血になる危険があることも。処置が間に合わなければ失血死する。だから兄さんを呼ぼうとしたら―――ファミアさんが言ったんだ。」
何をとは口にしない。だが顔を上げたナウザーは、何かを恐れながらも疑問に満ちたシアルの視線に射抜かれる。
「あれは本当の事なの?」
何の事だと、とぼける間を持てなかった。それよりも今まで忠実にナウザーの言葉を守ってくれていたファミアがどうしてと、意識のない妻に視線が向く。竜の事もあるが知られて辛いのはファミア自身だ。村の人々に危害が及ぶとそれを恐れていたのにどうしてと、同時にはっとしてナウザーはシアルを見た。生まれた瞬間から竜騎士になれない事実で周りを、両親を失望させたと思い続けてきた弟は、それが原因で一般家庭に生まれていたならしなくてもいい苦労をしてきてしまっている。けしてなれないと解っているのに、彼が竜騎士というものに強い憧れを抱いているという事も。
「この年になってまで馬鹿な真似はしないよ。」
何もかもが顔に出てしまっていたのだろう。自虐的に吐き出すように笑ったシアルがそんな事じゃないと首をふる。
「僕は医師として大きな過ちを犯した。」
「過ち?」
「ファミアさんが死ぬと思って兄さんを呼ぼうとしたこと。」
「それの何処が過ちだ、呼んで正解なんだよ!」
声を上げたナウザーにそれを上回る怒声を上げたのはシアルの方だった。
「生きる可能性があるのに?!」
立ち上がった勢いで座っていた椅子が後ろにひっくり返る。だがシアルは構わずナウザーを見下ろしたまま声を荒げ続けた。
「僕は確率の問題からもう駄目かもしれないと思った。せめて最後に兄さんや子供たちを抱かせてやりたいと決断して処置を放棄しようとしたんだ。それをファミアさんは怒って―――医者なら命をあきらめるな、家族から自分を取り上げるなって。自分なら大丈夫だから助けてくれって、秘密を……教えてくれた。」
最後は尻すぼみになり床に膝を付く。竜騎士になれない定めを負ったシアルにとって、医者としての職業が唯一誇れる自分自身だった。ファミアに関しては特に妊娠の初めから最後まで関わりを許され、シアル自身も双子の誕生を楽しみにしていたのだ。次兄一家が竜の森に帰り、一家団欒の生活を送る出発点に関われることをとても嬉しく思っていたのに。ファミアが秘密を明かさずにいて、それをシアルが知らずとも助けられたかもしれない。だがあの時のシアルは優先順位を確率だけで決めつけ、知らぬ間にファミアの命をあきらめてしまっていたのだ。ファミアは死の恐怖に、家族と永遠に引き離される恐怖に脅えたのだろう。だから大きな秘密をシアルに打ち明け自信をつけさせようとしたに違いない。
「そんなに危険だったのかよ。」
「普通なら間違いなく亡くなっている。兄さんたち竜騎士に置き換えたとしても酷い状態だった。実際に今こうして息をしているのは奇跡だよ。」
シアルは体が冷えているのに大量の汗を流し、蒼白になったファミアの状態を鮮明に思い出す。脈と呼吸は早く、意識を失ったときは全てが嘘だと思いたかった。脈もほとんど触れず、けれどファミアの言葉を信じて処置を続けた。医者なら命をあきらめるなとの言葉が脳裏に渦巻き、せまい産道から見える破れた血管と子宮の縫合だけに神経を集中した。最後に血塗れた手で首筋に触れると、弱くはあるが脈打つ感覚に世界が真っ白になる。これがファミアの持つ特異体質なのだと、ようやく謎が解けたのに唖然として少しも嬉しさなんて込み上げてはこなかった。
冷たい床に蹲ったシアルに、ナウザーが回り込んで肩に手を置く。病にはかからないし怪我をしてもすぐによくなる。竜の血を飲んだファミアはナウザー達よりもその気が強いのだろう。だが人だ。大怪我を負えば確実に死ぬのだ。
「お前のお蔭だ、ありがとうな。」
それにしても―――お前は強い。
初めて見た時は怯えてどうしようもなかった小さな娘が妻となり、そして命がけで母となった。だというのに自分は何もできていないと、ナウザーはもう一度シアルを労い妻の側に身を寄せる。竜守りであるが故に時間は限られていた。