竜守りの過去
身を寄せても目覚める気配がないのを良いことに、ナウザーは隣に眠るファミアをじっくり観察していた。
閉ざされた瞼を長い睫が縁取り、後ろで一つに束ねられていたくすんだ金髪は解かれ寝台に流れていた。触れてみると柔らかくて手触りがいい。くすんでいるが石鹸で綺麗に洗えば金色に輝くのは容易く想像できる。初めてファミアを見たときナウザーはあまりにも整った容姿に驚いたし、同時に哀れにも感じた。
十年前まで竜騎士として国に仕えていたナウザーは、腕を失ったのを機に竜守りの役目を賜った。隣国との戦が終結したのもこの時期だ。腕を無くしはしたが悔いてはいないし、長年連れ添った相棒の竜を森に帰してやれたのも満足している。竜守りとしてその竜と同じ森に住まえるのにも異論はない。ただ当時二十代前半だったナウザーにとって、人との交わりを禁じられた森での生活は酷く殺風景で孤独に感じられたものだ。
腕を失い竜騎士としてやっていけなくなったナウザーを追って、当時婚約者であった娘が森へやってきた。親同士の決めた結婚であったせいか娘に恋愛感情を抱いてはいなかったが、こんな辺境の森まで自分を追ってきてくれたことに感謝し過去を悔いたのも束の間、娘は森を前に『こんな場所に住めるわけがない』と悪態をついて引き返し婚約は破棄された。娘が愛したのはナウザーではなく、竜騎士としての職業を持つナウザーであった。竜騎士でなくなり竜守りとなりはしたがそれも立派な肩書と誉に思っていたらしいが、まさかこんな場所に二人きりで生活しなければならないとは想像していなかったのだろう。良家のお嬢様が下女もいない場所でやっていけるわけがないとナウザーも気付くべきだった。
竜騎士は竜の血を引くといわれる家系の男子だけがなれる職業だ。竜の血を引いているかどうか真偽のほどは定かではないが、その家系の男子にのみ竜の声を聴く力が宿る。ナウザーの家には三人の男子が生まれたが、兄も弟も竜の声は聞けずナウザーだけが竜騎士となる役目を担った。そのナウザーは竜騎士を引退しても子をなし、次なる竜の血を引く男子を生み出す義務がある。そのため時折こうして花嫁が送られてくるのだが―――竜たちと別れ帰宅した小屋で見た光景にナウザーは一瞬の眩暈をおこした。
これまで連れてこられたのは一般的に良家の子女と呼ばれる娘だった。ナウザーの生まれからして釣り合う身分と教育を受けた娘だったが、そんな娘がこの森でやっていけるはずもない。竜は人を極端に嫌う。竜騎士の竜となってもらうべく対話し交流を深めているというのに、多くの人間が出入りするようになって機嫌を損ねられては仕事にならないのだ。だから小屋に置けるのは伴侶となる女性のみという厳しい決まりがあった。けれどそれを覚悟してきたはずの娘らは、数日たてば逃げるようにして森を去る。それはナウザーのせいもあるのだろうが、これが自分なので慣れてもらわなければ困るのだ。一見粗暴なナウザーとて良家の子息として生まれ育った。掃除や洗濯が得意なはずがない。野営ならできるが普通の料理などできようはずもなく、片付けも苦手だ。
けれどこの日、小屋に戻ってみれば外には大量の洗濯物が干してあり、焦げだらけだった鍋やフライパンまで天日干しされていたのだ。窓や扉は開け放たれ、何が起こったのかと中をのぞいてみると、細くて小さな娘が束子を手に床を磨いていた。
綺麗に掃除され整頓された部屋、慣れた手つきで生み出される料理。今にも折れてしまいそなほど痩せた体を忙しそうに動す娘に気を利かせ、洗濯物を取り込んでその辺におけば娘が慌てて床から拾い上げたので、余計なことをしたと申し訳なく感じた。
化粧っ気はないが、ファミアはとても容姿の整った美しい娘だった。臭い香水もつけていない。こんな娘が何故と勘繰ったが、こらえ性のない良家の娘たちにシグ婆も匙を投げたのだろう。もしくはナウザーもいい年だし、いい加減子供をと国からせっつかれたのかも知れない。
婆が連れてきた娘だが、ナウザー自身はファミアを大歓迎だった。生まれは全く気にしない。今までの娘たちと違って掃除洗濯はできるし本職ほどではないが料理も上手い。余計に出しゃばり森を荒らすようなこともしなさそうだ。ただ気になることといえばやはりファミアの置かれた状況だった。
「パシェド―――閉鎖的な村だ。」
地図に載らないような村でも人の住まう場所はしっかりと頭に入り込んでいる。山々に囲まれた小さな村で閉鎖的な、村で生まれた者は村から一生出ることなく死んで行く者も多々いる貧しい村だったはずだ。十年前まで戦をしていた隣国と国境を交えているが、山々に囲まれていたおかげでパシェド村は戦火から免れた。だが厳しい環境で今を生きるのにも困難な状況だったのだろう。
「身売り同然か。」
冬を越すために身売りをするか、竜守りの妻となるかと迫られたに違いない。離婚をした夫は村の為にファミアを差し出したのだろうか。そこまで切羽詰まった村に金銭を援助しても何の解決にもならない。もっと他の方法が必要だとナウザーは眠るファミアを見つめながら考える。
七日の猶予を与えたがファミアが逃げ出さないとナウザーには解っていた。なのに猶予を与えたのはファミアにナウザーを受け入れる時間を与えたかったのだ。ナウザー自身は妻としての役目を果たしてくれるなら問題はないが、ファミアは仕方なく夫と別れ遠く離れたこの森へやってきている。ナウザーの姿に怯える様にも配慮したつもりだ。ナウザーは自分の見た目が若い娘にどういった印象を与えるかくらいよくわかっていた。髭くらい剃っておくべきだったが、今更だろうと今夜も剃るのをやめた。どうせ剃っても無精ですぐに伸ばしてしまうのだ。
ただ猶予を与えたせいでナウザー自身が身に負担を感じていた。若くて綺麗な娘が同じ寝台に寝ているのだ、当然である。貧しい者たちは親兄弟みなが寄り添って寝るのも当たり前なのでファミアも慣れているのかもしれないが、さすがにナウザーにはその経験がなかった。女が横に寝るときは抱く時だけだ。これまで妻としてやってきた娘たちは何やかんやと理由をつけて別々に寝たがったので、ファミアもそうなのだろうと思っていただけに、同じ寝台にのぼられたのには流石に驚かされた。
兎にも角にもしょうがない、自分がたった今宣言したのだ。猶予期間が過ぎるまでは抱かないと。
「明日からは別々に寝るか。」
埃だらけで物が散乱した部屋にもうひとつ寝台があるのだ。ファミアもその部屋を掃除していたらきっとそこで眠ったに違いない。だがしかし、翌日以降も二人は肩を並べて同じ寝台に眠ることになる。ナウザーは情報を与えなかったし、その部屋を掃除したファミアも別々に寝たいと宣言しなかったからだ。
翌朝ナウザーはパンの焼けるいい匂いで目を覚ました。
窓を開けると空は白み始めているが起きるにはまだ早い。しかしファミアはどんなに疲れていてもいつもの習慣で夜明け前に起き出し仕事を始めていた。昨日はあれだけ働いたのに寝坊もしないとは。規則正しいファミアに感嘆しつつも寝台から抜け出すのはいつもの時間にすることにした。ナウザーの習慣を知れば明日からはもう少し長く寝ていてくれるかもしれないとファミアを気遣ったのだ。
朝日が露を照らす頃、いつもの時間通りナウザーは起床する。洗いたての服に着替え居間へ向かうと気付いたファミアが小走りに駆け寄ってきて頭を下げた。
「おはようございます。」
「ああ、おはよう。いい匂いだ。」
まだぬくもりの残る焼き立てのパンに温かな食事。干し肉にかぶりつくだけの日常と異なり一気に心が彩られる。願うのも忘れていたがこれがナウザーの望む生活だ。昨日知ったばかりだが放したくない、どうしてもこの娘が欲しいという欲求がナウザーの内に沸き起こる。それが決定づけられたのが朝食を終え、竜守りの仕事へ向かおうとした時だった。
「あのっ、必要でしたらお持ちください。」
そう言って差し出された風呂敷に首を傾げつつ中を覗けば、パンに干し肉と野菜が挟まれたものがみえた。間違いなく弁当だ。押しつけがましくならないようにか、必要ないとなっても夜に回せばいいように時間がたっても腐らない干し肉が挟まれていた。
正直嬉しくてナウザーは言葉を失う。いつもは昼抜きか、干し肉や保存食を丸ごと抱えて行くか、川で魚を取って焼いたりしていたのだ。まさかここで弁当が出てくるとは想像もしていなかった。
「あの……勝手をしてすみません。」
反応のないナウザーを前に怒られると感じたのか。風呂敷を引き戻したファミアからナウザーはさっと包みを奪う。
「美味そうだな、助かるよ。それじゃあ俺は行ってくるが、あんたは好きに過ごしてくれて構わないからな。」
「はい、行ってらっしゃい。」
好きに過ごせと言っても掃除や洗濯をして過ごすに決まっている。怯えを含んだ薄い青の瞳に映る自分を確かめてからナウザーは小屋を出て森へと入って行った。
怯えられているのは解っているが、なんだろうこの感覚は。世話を焼かれるのが嬉しいなんて初めての経験で驚く。竜守りになるまでは世話を焼かれて当然だったというのに。ナウザー自身感じていなかったが、実際には人恋しさに飢えていたのかもしれない。
竜守りの仕事は竜と対話し信用を得て、国の為に力を貸してくれる竜を探し出すのが仕事だ。竜と対話をするといっても竜が人と同じように口を動かすわけではなく、心を使って思念を送ってくれるのだ。竜は人の言葉をきちんと理解はできないが、思念をつなげることにより会話を成立させる。だがそれは竜の血を引くといわれる者限定であり、心を直接つなげられてしまうので偽りは通じない。だからまずは友人となることから始めるのだが、竜守りとなって十年たつが、竜騎士が騎乗する竜として契約してくれた竜の数は片方の指で数えられる程度である。けして少ない訳ではないが多い訳でもなかった。
『どうした、今日は機嫌がいいな』
竜騎士時代からの片腕であり友人でもある竜のまつ場所へと到着すると、身を丸くして目を閉じていた漆黒の竜が思念を送ってくる。ナウザーが竜騎士を引退すると同時に森へ帰された竜だ。
「そうか。これのせいかな?」
わざとらしく包みを掲げて見せると、ハウルと名付けた竜は首をもたげて包みに鼻を寄せた。
『牛と―――麦と草の匂いだ』
「弁当だよ、味気ない言い回しをするな。パンに肉と野菜が挟んである。」
『―――雌ができたか』
「ハウル……読めるくせにわざわざ確認するなよ。」
竜は返事をせずにぐるぐると喉を鳴らして上げていた首を地面に戻した。
こうやって特別何かをするわけではなく時間を潰す。むやみに歩き回り竜に付きまとっても嫌がられるだけなのだ。仲の良い竜も何頭かいるが、ハウル以外の竜にナウザー自ら近寄っていくのは稀である。たいていは相手に興味を持ってもらい近づいてくれるのを待つのだ。
鱗に覆われた瞼を閉じたまま、ハウルが無意識にナウザーの左腕に鼻を寄せる。本来ならあるはずの腕はハウルが奪った。自らの腕をハウルに与えたのはナウザー自身だ。
十年前の戦いでナウザーは仲間の裏切りにあった。そのせいでハウルは敵国内で瀕死の重傷を負い、ナウザーを乗せたまま深い森に落下したのだ。ナウザーに怪我はなかったが、止めを刺そうと迫りくる敵を前にハウルを見捨てて行くわけにはいかない。そこでナウザーがとった行動は己を犠牲にすることだった。
竜の血肉を人が食らわば猛毒となるが、人の肉は竜にとって万能の薬となる。人を食らえばいかなる傷や病も癒えるが、頭のいい竜たちは争いを招くとして人を食らおうとはしなかった。だがあの時のナウザー達はそんなことを言ってられない状況にあったのだ。ナウザーにとってのハウルはただの竜ではなく半身の様な存在で、ナウザーではなく他の竜騎士であっても共に飛ぶ竜の命が尽きようとしていたなら我が身を差し出すだろう。
しかしハウルはけしてナウザーを食らおうとせず弱る一方だった。竜たちは竜守りに絆され森を出た時点で竜としての生涯は捨てたようなもの。思わぬ場面で死が訪れても黙って受け入れる。だがナウザーからすればそんなことは許せず、ならばせめて片腕だけでもとナウザーは己の左腕を差し出し、迷いながらもハウルは恩を受けた。
片腕だけでは全ての傷は完全に回復はしなかったがハウルは生き延びた。腕を失ったナウザーを背に乗せなんとか仲間の竜騎士らと合流できたが、失ったナウザーの腕が戻るわけでもない。ナウザーは失血死を免れ竜騎士の資格を失い、ハウルも人肉を食したという理由からともに引退して森へと戻った。
竜は心を通わせた人間に絶対服従だ。本来ならハウルも我が身を助けるためにナウザーの腕を食らったりはしたくはなかったが、そうしなければ多くの敵に囲まれたナウザーも命を失っていただろう。十年たった今もハウルはあの時を一日と忘れず、こうしてナウザーの失われた腕に縋り付く。ナウザーは少年期より二十年近く共にいる竜を愛しく思い、ハウルの冷たい鱗を撫でつけてやった。