竜守りに必要なひと
入院の意味が分からず眉を顰めたファミアに、硬くなっていた表情を慌てて緩めたシアルが説明してくれた。
「ここで寝泊まりして治療に専念するって意味だよ。」
「わたし、森へは帰れないんですか?」
「ああ、勘違いしないでファミアさん。重病とかじゃないんだから。」
空色の瞳に涙の幕を張ったファミアにシアルが慌てて補足する。
「君は貧血……血が足りないんだ。もともと貧血状態だったんだろうけど、食生活の改善もあって良くなっていたとは思うんだけどね。でも貧血がこれだけ急速に進んだのには訳がある。確定診断はまだできないけど、恐らく……きっと間違いなく君は妊娠しているよ。おめでとうファミアさん。」
シアルの宣告にファミアの寄せられていた眉が弛む。が、一瞬後に再び眉を寄せると小さく首を振った。
「え……でも。嘘―――だって兆候が……」
ファミアにあるのは極度の息切れで、妊娠特有の吐き気はおきていない。医者の言葉だが信じられずファミアは目を泳がせた。
「妊娠するとお腹の子にたくさん血が流れて、今の君は極度の貧血状態で息苦しくなっているんだ。薬と食べ物で改善されるけど、竜の森での治療はちょっと難しくてね。兄さんには僕から説明するよ。」
呼んでいいよねと確認するシアルにファミアは言葉を失ったままこくりと頷く。妊娠……本当に? と、信じられない思いで腹に両手を添えた。自分自身ではまだ何もわからない。けれどシアルに告げられた言葉を噛み締めるにつれ、だんだんと腹の底に自分ではない何かを感じるような感覚に陥る。
「おう、大丈夫か?」
入室を許されたナウザーがファミアの横たわる診察台に腰を下ろすと、ファミアは両腕をナウザーに伸ばす。求めに応じナウザーが引っ張るとそのまま抱き付かれた。大きな胸に縋り付き、ファミアは声もなくはらはらと涙を零す。それに気付いたナウザーは何があったんだと眉を寄せ、不安そうにシアルを見上げた。
「結論から言うとね、妊娠している確率がとても高い。確定診断はもう少し先だけど間違いないね。」
ファミアに告げたのと同じ言葉で次兄に告げれば、ナウザーはぽかんと口を開けてから考えるように視線を逸らし「本当かよ―――」と呟いた。
「妊娠ってのはゲロってから解るもんじゃなかったか?」
「ゲロって兄さん……月の物が止まって嘔吐するっていうのが一般的だけど、ファミアさんのような症状が出る妊婦も珍しくないんだ。お腹の子に必要な血液の成分がたくさん行って、もともと貧血気味だったファミアさんは急激に貧血の症状が進んだんだと思う。それでね、妊娠は病気じゃないともいうけど、これだけ酷くなっていると治療が必要だ。暫く入院してもらうからそのつもりで。」
「入院って―――はぁっ、俺にファミアを手放せってか?!」
辛い症状のある妻を腕に抱いたまま大声を上げたナウザーに「だから兄さん、声が大きいよ」とシアルが注意をする。ファミアはここで初めて気付いた。ナウザーは竜守りで、竜の住まう森を長くは開けられないという事に。入院するという事はその期間離れて生活することになる。急なことに不安になったファミアはナウザーの服をぎゅっと掴んだ。
「寂しいのはわかるけどお腹の子の為だよ。症状が改善されたら戻れるから。」
「森でも治療くらいできんだろ?」
「貧血には薬もだけど生肝が手っ取り早いんだ。」
「肝なら森に入ればいくらでもあるぞ!」
「でも兄さん、それって竜たちの物だよね。森で狩ができるのならいいけど、森の物は全て竜たちの物だって誰もが知っているよ。」
竜の住まう森ではいかなる物も持ち去ってはならない、誰もが知る常識だ。竜守りであるナウザーが忘れるはずがない。ファミアなら大丈夫だ、ハウルの血を受けているファミアの為ならきっと竜たちも許してくれると言いかけて、ナウザーはぐっと腹に力を入れて言葉を飲み込む。パウズは迷いなく、ハウルも許してくれるだろう。けれど竜には縄張りがある。他の竜たちは不快に感じるかもしれないとなれば、よほどの事がない限り無理は押し通せなかった。
「それにね、ただ薬を飲んで生肝を食べればいいって訳でもないんだ。摂取し過ぎるとお腹の子供にとっては逆に毒になる。でも入院すれば僕がきちんと管理できるから。それに僕の経験からするとファミアさんのお腹の子は恐らく多胎児だ。双子だと思う。母体の危険を減らすためにもここは堪えてよ。」
ただでさえ体の小さなファミアに双子が宿っているとなれば、これからもさらに貧血は進むだろうし、悪阻が出れば食事もままならなくなる。最後は兄嫁を案じる弟としての言葉でもあった。だからといってナウザーは納得できない。一日二日ならまだいいが、竜守りである限り長く森を開けるのは出来ない要求だ。ファミアを一人残して森に帰らなければならないなんて冗談じゃない、しかもファミアの腹には自分の子供がいて、そのせいで具合が悪くなっているのだ。
「ファミアなら大丈夫だ、森でちゃんとやれる。」
混乱したナウザーは自己都合の勝手で言い切る。病気知らずの竜騎士経験者であるが故の過信でもあった。先天的に竜の血を受け継ぐのと後天的に血を飲んでしまったファミアの違いを忘れ、大丈夫だと決めつける。口にはできない事実に確信を持っていたのだ。だがシアルは医者として、たとえその事実を知っていてもファミアを森へ帰す判断はしないだろう。悲しいかな、急な出来事にファミアを失う恐怖に脅えるが故の戯言と受け取った。まさかあの兄がこんな風になるなんてと、ファミアを抱きしめて離さない様に苦笑いが漏れる。
「お腹の子にとっての一番は、シアル様に治療をお願いすることですよね?」
取り乱す夫と違いファミアは立ち直りが早かった。従うべきだという視線を向けられたナウザーは、とても大きな衝撃を受け固まってしまう。
「血が余っている兄さんと同じに考えないで。ファミアさんの大きさで三人分の血を必要としているんだ。貧血を馬鹿にすると酷い目にあうよ?」
情けないのは初めて父親になろうとする男ばかりである。生まれて実物を抱き始めて実感する男と異なり、宿したと気付いた時点で女は母親になる。シアルは頑丈で病知らずなナウザーに色々諭す必要があると、次兄に対して生まれて初めての説教を試みた。
「あのさぁ兄さん。狼狽えるのも解るけど、ファミアさんを森に連れて帰ることばかり考えるんじゃなくて、その前に言うべきことがあるんじゃないの?」
「言う……言うべきこと?」
「まったく―――誰の子供を妊娠して辛い目にあってると思っているんだろうね。」
シアルがため息交じりに零せば、ようやく気付いたナウザーは額に手を当て「うわぁぁぁぁ!」と雄叫びを上げた。
「なんてこった、子供だと? 俺に子供ができたっていうのかよ!?」
「反応が遅すぎるよ―――」
今まで何の話をしていると思っていたのか。まったくと、溜息を吐きながらもシアルは柔らかな笑みを浮かべて診察室を出る。後に残されたナウザーはファミアを射殺さんばかりに凝視していた。
「喜んでくれますか?」
「勿論だ。ああ、でも嘘だろう? 嘘じゃないんだよな。子供かよ……二人って言ったよな。産めんのかよこの体で―――」
一本だけの腕でファミアに触れる。指で髪をとかし輪郭をなぞってから、恐る恐る平らな腹部に触れた。恐ろしいままの表情は未知の生物に触れる怯えた熊のようだ。
「産めますよ。村の女たちもちゃんと出産していましたから。」
未経験のファミアよりもさらに不安を覚えているのだと思うと、なんだかおかしくなって泣き笑いが浮かんだ。
「けど俺の子だぞ。馬鹿でかかったらどうすんだよ?」
「きっと普通です。それとも竜守りの赤ちゃんは特別大きいものなんでしょうか?」
「知らねぇ。後でソウドに聞いてみるか。」
うんと頷けば、感嘆の息を吐きながらナウザーがファミアを抱き寄せた。
「ありがとな。」
親しんだ匂いに包まれファミアは深く頷く。
「シアル様の教えをちゃんと聞いて、無事に産んであげましょうね。」
「泣きそうだ。」
勿論、子供を授かり感動してだ。けしてファミアと離れる我儘ではないと、我が子を宿した妻にナウザーは感謝しながら隠れて涙を零した。
その後、シアルの指示通り入院生活を送ることになったファミアだが、治療を始めると驚くほど驚異的な回復を見せた。ナウザーが煩いので予定している治療期間は教えなかったが、それをはるかに短縮させる治癒力にシアルは別の意味でファミアに深い興味を抱く。小さくて折れそうな頼りない体をしているが、培われた食生活や遺伝的な要素に何か秘密があるのではないかと疑い出したのだ。いらぬ詮索をされたくないナウザーは一日おきにファミアの元を訪れ、良くなったのならもういいだろうと退院を急かした。
「妊婦を竜に乗せて運ぶなんて危険な行為、頻繁に行う必要ないよ。このまま出産まで入院していた方が安心だし、どうかなファミアさん?」
「馬や馬車の方が揺れが酷いんだ。竜に乗るのが駄目な理由が全く見当たらん。」
「万一落ちたりしたらどうなるのさ。それに飛行は体を冷やす。お腹の子の為にもファミアさん、このまま出産までいてはどうかな?」
「はっ、竜は衝撃の一つもなく着地してくれるし冷え対策は万全だ。つうかお前、いい加減にしろよ。腹の子の為とか言いながらファミアを調べたくってたまらんって顔だ。お前が俄然やる気になるのは医療の研究のときだって解ってんだぞ。」
「でも兄さんは彼女を連れて帰った途端に襲いそうだから怖いんだよ。」
「はぁっ、何言ってんだシアルてめぇ。俺は十年禁欲生活に耐えた男だぞ。生まれるまでの我慢なんか屁でもねぇよ!」
「生まれてからも当分できないよ。それに双子が生まれるんだ。森で育てるなら人の手を借りれないから大変だよ。ファミアさんは子供の世話で手いっぱいだ。その位想像しなよ、父親になるんだから。」
「はぁ?! ……っておい、本当か?」
「最低だね兄さん。やっぱりファミアさん、生まれてからもここに居たほうがよくない?」
襲われそうで心配だと、いやらしさなしで本気で心配してくれるシアルにファミアは恥ずかしさで頬を染める。目の前で明らかにナウザーが落ち込んでいるからだ。これでは駄目だ。自分の為というよりも生まれてくる子供の為にも森へ帰って一緒に生活し、ナウザーに父親としての自覚をしっかりと持ってもらわなければならない。生まれた子供をただ抱かせて父親になってもらうよりも、一緒に生活しながら大きくなる腹をみて実感してもらう方が手っ取り早く何より重要だと考えた。
シアルの許可を得て十日振りに森へ帰る。度々空を飛ばなくてもいいようにと数種類の薬も大量に処方してもらったが、妊娠特有の症状以外の物が出たり、貧血が悪化したりその他の症状が出た場合は自己判断せずに診察を受けに来るようにと注意を受ける。時期をみて往診もしてくれるらしく、身内に頼りになる医者がいるという贅沢と幸運にファミアは深く感謝した。
久し振りの我が家を空から眺める。竜が着地すると様子を窺っていたのかすごい勢いでパウズが突進してきた。思わず身構えたナウザーだったが、ファミアの数歩手前でぴたりと止まったパウズは長い首を伸ばして喉を地面につけた。
「ただいまパウズ。」
かがんだファミアが腕を伸ばして硬い鱗に覆われた額を撫でてやると、パウズは大した感覚もないくせに気持ちよさそうに目を細める。
『心配した、すごく。人間にいじめられなかったか』
「大丈夫よ。みんなとても優しくしてくれたから。」
パウズは低姿勢のままのそりとにじり寄ると、ファミアの腹に鼻を寄せ匂いを嗅ぐ。竜と違って人の脆さを教え込んだおかげか、腫れ物にでも触るようにパウズはファミアにほんのちょっとだけ触れていた。
『弟と妹。俺嬉しい』
「パウズの弟か妹が……どっちも出来るのかもね。可愛がってくれる?」
『まかせろ。ナウザーより役に立つ』
パウズの出迎えで上機嫌になったファミアであったが、久し振りに戻った小屋の扉を開けるや否や唖然とした。立ち止まったファミアの後ろでナウザーが「どうしたんだ」と呼びかけ、ファミアは振り返って苦笑いを浮かべた。
「やっぱりあなたにはわたしが必要みたいです。」
ファミアが小屋を空けたのはたったの十日。その十日で綺麗に整頓されていた筈の小屋は泥棒にでもあったかに物が散乱し、洗い物やらなんやらがあちらこちらに散らばっていた。




