心で受ける価値
幻覚を見た。閉め出した夫の帰りを寝ずに待っていたのがいけなかったのか。王太子と話をつけて戻ってきたと喜び勇んで扉を開けると、愛する夫の背後には昼間見た薄い茶色の髪の青年。何かがおかしいと扉を閉じ閂をかける。少し眠った方がよさそうだと寝台に潜ったが、外の様子がとても気になって眠りは訪れなかった。色々悩んだ末に閂を外しもう一度扉を開く。すると玄関先で焚火を取り囲んだ大男二人と、それよりも線の細い青年が同時にファミアを振り返った。
「あの……ごめんなさい。わたし、なんだか夢を見ているみたいで。」
頭痛もする気がしてこめかみを押さえる。
「夢だったらよかったんだがなぁ。正気に戻ったか?」
「いいえ。まだみたいですけど、取りあえず中へ。お茶を入れます。」
何が正解で不正解なのか分からないが、夜も明けやらぬ闇の中、焚火で暖を取る三人をこのままにしておくより中へ引き入れてしまった方がいいに決まっていた。恐る恐る薄茶色の髪をした青年に視線を向けると、昼間のような愁いは消え、微笑みには喜びが満ちている。誤解は解けたのだろうか。この青年がナウザーを底なしに敬愛しているなどとは露知らず、ファミアは冷えた体を温めるために熱いお茶を用意した。昼間と違いソウドも椅子に腰を下ろし、エヴァルフィが座るのも上座ではない。ここにいるのは王太子でないという事を示しているのだろうかと、ファミアはお茶を振る舞いながらテレジアから得た知識に自己解釈を加え現状を把握していた。
「昼間は大変失礼をした。早速本題なのだが、ナウザーの進言により祝いの品は奥方に選んでもらう事になったのだ。この中から一つと言わずどれでも好きな宝石を選んでくれて構わない。選んだ原石が採れる鉱山を有する領地を祝いとして差し上げよう。」
「―――鉱山?」
ぽかんと口を開くファミアを前にナウザーは頭を抱えた。領地はいらないとあれほど言ったのにこの王子様はなんで聞く耳持たないんだと。
「遠慮しないで好きなだけ選んだらどうだ?」
「ソウドの言う通りだ、遠慮はいらぬ。」
ナウザーはエヴァルフィを援護するソウドを睨みつけるが何処吹く風だ。ソウドは面白そうに見本を広げファミアを急き立てる。ファミアは目の前に広げられた光り輝く宝石を前に唖然としていたが、やがてそれらを食い入るように一つ一つよく見て観察していた。これにはナウザーも驚かされる。宝石になど興味がなさそうだったがやはりファミアも女なのか。美しいものに興味が惹かれるなら最初の宝石は何が何でも自分が贈るのだと、ナウザーも一緒になってファミアの一挙手一投足を見逃さぬよう、宝石に惹きつけられるファミアの視線を凝視して追い求める。
「本当に綺麗―――」
感嘆の声が漏れ、エヴァルフィが満足そうに微笑んだ。ナウザーはファミアがどの宝石に最も興味を示したか分からず見落としたと焦る。
「でも、折角なのですが……どれもわたしには必要のないものばかりです。」
「現品ではなく鉱山をつけて領地を与えたいのだ。」
「領地なんて……そんなものを貰ってもどうしようもない、ですよね?」
同意を求められたナウザーは慌ててその通りだと大きく頷いた。ようやく話を理解したのか、ナウザーでない人間の言葉だからこそ聞こえたのか。エヴァルフィは信じられないという悲壮な表情を浮かべ、ファミアへと体ごと身を寄せる。
「何故だ、何が気に入らぬ。其方らは一体何を与えれば喜んでくれるのだ?」
灰色の瞳が一瞬で愁いを帯び涙に濡れる。ファミアは「そうですね」と、指を顎にあて少しばかり思案すると、良いものを思い付いたとばかりに表情を輝かせた。
「では黒豆の種を。あれなら栽培に場所を取らないし、植えても大丈夫ですよね?」
竜が飛来するため小屋の周りは畑に変えることができない。だが豆なら痩せた土地でも育つしそれほど場所も取らないので、小屋のすぐ側に植えることだってできる。シアルのすすめもあるし、栄養価も高く、何よりも自ら食べるものを栽培する生活だったファミアの欲求が満たされる品物だ。
「植えても構いませんか?」
「豆か……豆くらい植えても構わんが―――」
「では黒豆がいいです!」
許可が下りた所でエヴァルフィに満面の笑顔で遠慮の一つもなく黒豆の種を要求する。発芽しないだろう分も含め楽しそうに適量をお願いするファミアに、不服そうだったエヴァルフィの表情もだんだんと緩んできた。
「流石はナウザーが選んだ奥方だけの事はある。価値とは人それぞれ。其方にとって輝く宝石や鉱山を有する領地よりも、己が手をかけて得られる有り触れた日常に見出せる価値の方が大切なのだな。また一つ学ばせてもらった。其方らには本当に感服するばかりだ。」
どれだけお金をかけても喜ばれない。だから常に上を目指したが、そもそもの考えがおかしかったのだ。ようやくそれに気付いたエヴァルフィはファミアの要求を素直に飲み、黒豆について一から学びファミアの指示通りの最高の品を自ら買い付けに行こうと心に決める。ナウザーは意外に呆気なく引いたエヴァルフィを訝しげに観察するが、領地など貰ってもどうしようもなく迷惑なだけなので、それが黒豆の種に化けるなら万々歳と余計な口は挟まない。
「勿体ねぇなぁ。折角だからなんか一つくらい貰ったらどうだ?」
だというのに、ソウドが見本を手にファミアに似合いそうな宝石を吟味し始めた。慌てたナウザーは余計な事はするなと見本を閉じエヴァルフィに押し付ける。最初の装飾品は自分が贈るのだと決めたばかりだ。先を越されてはたまらない。見本を押し付けられたエヴァルフィは両手でそれを受け取り、じっと視線を落として考え込んでいた。その傍らではケチだのなんだのとソウドとナウザーが言い争っている。その言い争いが一段落した所で、エヴァルフィがぽつりと零した。
「私は、本当に許されてよいのだろうか。」
視線が失われたナウザーの腕へと移動する。かつてそこにあった逞しい腕は、長く垂れた袖の下に存在していなかった。
「こうしていると其方はとても幸せそうだ。友人と語らう様はあの頃のままだが、妻を得て女性に対する独占欲を見せつけられると、竜騎士時代には得られなかったのもを得られたのだと私まで嬉しい気持ちになる。」
腕を失い竜騎士でいられなくなったナウザーは不幸なのだと思い込んでいた。己の未熟さで恩人であるナウザーから竜騎士の未来を奪ってしまったのだと。若い身空でたった一人竜の住まう森に引き籠るしかなかったナウザーに、エヴァルフィは頭が上がらない所か悔いても悔やみきれない思いしかない。腕を奪った元凶である自分になど会いたくないだろう、恨まれているだろうと想像すると足が竦んで動けなくなってしまう。ようやくここまで来れたと竜の背から降りた時も、妻である女性から罵られるとばかり想像していたのに。王太子という身分にあるせいで責め苦を受けないことは苦痛でしかなかった。ずっと先に生まれた異母兄たちに疎まれていると解っていただけに、エヴァルフィは竜騎士団長として任務を遂行しきれなかった己が憎くてたまらない。国益の為に切り捨てられる存在があるのは立場上理解してはいるが、それがナウザーであった事実がどうしても受け入れられなかった。
けれど苦しんでいるとばかり思っていたナウザーは、十年の月日を経て再会してみるととても元気であった。それが王太子を気遣い無理やり作っているのではないと実感したのはようやく今になって。竜が何よりも一番であったナウザーが、同じように慈愛に満ちた視線を妻であるファミアに向けているのを目の当たりにし、ようやく彼の言う『気にするな』が事実であったのだと知るに至る。女性に限定するなら竜騎士時代のナウザーは常に多くの女性に囲まれていたが、彼女らを追う視線はけして温かいものではなかった。けれど夜の闇に家から閉め出されても今夜のナウザーはとても幸せそうで、エヴァルフィはこれまで自分を責め続けた思いはただの自己防衛だったのではと感じる。そう思い続けなければナウザーを失ってぽっかりと空いてしまった大きな穴を埋められなかったのだ。
「ナウザー、其方は私を本当に恨んでなどいなかったのか?」
とても真剣な眼差しに、ナウザーにとってはどうでもいい事でもエヴァルフィにとっては何よりも重要であったのだと実感する。
「恨んでなどいない。貴方が王太子だろうがただのエヴァルフィという男であろうが関係なく、腕を失ったのは俺自身の判断だ。竜騎士は竜の為なら命を捨てるってのは普通の人間には理解できないのかも知れんが、俺からすればこんなことで十年も悩み通した殿下に感服しますよ。俺は悩んでもほんの一時だ。寝食を共にして解ってるでしょうが、陰鬱であり続けるのが苦手なんですよ。」
「そうだな。其方は嫌なことがあってもすぐに忘れてしまえる良い性格をしていた。」
それにあっけらかんとしていて、良くも悪くもすぐに忘れてしまう。大雑把で同室にされたエヴァルフィはお蔭で掃除が得意になった。
「まぁそれがきっかけで竜守りとなりファミアを嫁にできたんだ。俺が腕を失くしたのは殿下のせいじゃないが、どうしても自分のせいだって思いたいなら、この出会いを作ってくれて感謝しますよ。」
腕を失ったのは己の未熟さが原因だ、けしてエヴァルフィのせいではない。けれど十年そう自分を責め続けた感情はすぐにはなくならないだろう。ならばその感情は他へと向ければいいだけだ。ナウザーにとって竜と同じどちらも選べない大切な存在をもたらしてくれたのだと告げれば、今にも泣き出しそうにエヴァルフィの顔が歪んだ。
「其方らは、夫婦で同じことを言ってくれるな―――」
灰色の瞳が決壊を起こし涙が溢れ出す。苦しみではなくそれとは別の感涙だ。
「折角いい男に成長したのに泣いたら台無しですよ?」
ソウドが笑いながらくしゃくしゃになったハンカチを取り出してエヴァルフィに渡すと、エヴァルフィは一瞬迷ったものの、受け取ったハンカチで涙を拭い鼻をかんだ。
どういう訳か、夜明けを前に宴会が始まる。ナウザーが止めるのも聞かず持ち込んでおいた酒瓶の蓋を開けたソウドには、王太子を守る役目があるのだという自覚があるのかないのか。ナウザーと二人言い争う様を懐かしそうにしているエヴァルフィを、ファミアは横目でそっと窺っていた。誰も彼もが心に何らかの闇を抱えている。楽しいこともだが、同時に嫌な思いも誰もが平等に経験するのだなと、ファミアは愁いを秘めるエヴァルフィを思いやる。色々推察するにナウザーはエヴァルフィに復讐されかねない所業の数々をやっているようだが、昼間も今もエヴァルフィからナウザーに対する恨みなど微塵も感じられず、見つめる瞳には熱がこもっている。飲酒が進むにつれ徹夜のナウザーとソウドは瞼を重くし、二人同時にテーブルに突っ伏してしまった。盃を受けたエヴァルフィは二人よりも大人な態度で少ない量を上手く操り酔った気配はない。ナウザーとソウドの二人が眠ってしまったので、気まずくなったファミアは席を立ち、酔い覚ましになるだろうかと温かいスープを作って振る舞った。普段は毒見をされていないものには口をつけないエヴァルフィだが、ファミアに出されたスープを怪しむことなく飲み干す。
「ここは寂しくはないか?」
スープを飲み終えたエヴァルフィが不意にファミアに向かって口を開いた。大男二人の鼾に聞き入っていたファミアはびくりと肩を揺らす。二人になった途端緊張が増していたが、忙しなく目を泳がせてから鼾をかく二人に視線を留めた。
「来たばかりの頃は確かに……でも聞いていたほどに寂しくはありませんでした。それに今はとても賑やかになる日が多くて。」
ソウドが訪ねた日は生まれ育った村の日常よりも賑やかかも知れない。けして触れ合う事などないと、考えすらしなかった竜との交流も持てるし、何よりもナウザーがいた。守られるだけではいけないが、安心できる存在である夫が毎日ちゃんと家に帰ってきてくれるのはとても心強いものだ。この幸せが永遠に続けばいいと欲張りになる。
「そうか。ナウザーは失うばかりではなかったようだな。」
安心したように吐き出すエヴァルフィに、王太子のくせに心配性なのだなとファミアはなんだかおかしくなってくすりと笑った。
「彼の腕なら竜の中にあります。確かに竜騎士ではいられなくなりましたし、不自由はあるかもしれませんけど、それについて悩んでいるのは王太子様だけの様に思えます。」
「そうだな。私はナウザーに去られて悲しかった。その悲しみを己の至らなさにかこつけ、ナウザーを繋ぎ留めたかったのかもしれない。」
エヴァルフィは寂しそうに微笑んで席を立ち、ファミアもつられて立ち上がった。
「長々と邪魔をしたが迎えが来たようだ。ソウドは置いて行くが頼めるか?」
酔っぱらっていても竜には乗れるが少々羽目を外させ過ぎた。次からはお互い役目を弁えるとソウドの非礼もエヴァルフィがともに詫びる。
外へ出ると夜が明け霜柱がきらきらと輝いていた。そこに三体の竜が漆黒に輝く鱗で光を受けている。竜から降りた竜騎士らが礼を取り、エヴァルフィは王太子の顔に戻る。ファミアは彼らに腰を折って頭を下げると無言で飛び立つ竜らを見送った。




