愁いを帯びた王太子さま
腰が抜けたファミアは軽々と抱えられ粗末な木製の椅子へと座らされる。ソウドの申し訳なさそうな視線にファミアは泣きそうな顔で答えた。
王太子というものが何なのか、学のないファミアには予想がつかなかった。王や王子といった言葉は知ってはいても、次に国を統べる役割を担う王子を呼ぶときの言葉なんて生きるために必要ではなかったから。ファミアの人生において必要になろうとは、ましてこんな場所に現れるなんて想像もしていなかったのだ。けれど注意深くしていれば片鱗に気付くことはできた筈だった。ファルムント家で義母と争ったマデリーンがテレジアを何と言ったのか。先王の血を引く御身と、それはテレジアが前の国王の血を引く王女であったという事実である。それをファミアは右から左に流してしまっていた。あまりに自分とかけ離れた存在に頭が反応しなかったに違いない。
マデリーンの罵りに答えたテレジアの言葉が蘇る。義母は先王の妾の子。愛人を嫌う様子からすると周囲はテレジアに優しくなかったのだろう。辛い過去と現在の様々な状況が重なり合ったからこそ、テレジアは貧しい生まれのファミアをナウザーの妻として認めてくれたのだ。
「俺が言うのも何だが、大丈夫か?」
溜息を吐いて頭を抱えたファミアをソウドが案じる。心を落ち着けてくれる安心できる夫は不在でファミアは不安に押し潰されそうだった。
「会わないと殺されるんでしょうか。」
「そんな事にはならねぇが、会ってくれるよな?」
王太子なんて冗談だと言ってくれるのを期待するが、ソウドからいつもの遠慮のない笑いは上がらない。ナウザーの為にも妻として、立派に振る舞わなければと思うのに両脚は恐れで震えが治まらなかった。
「彼はいったい何者なんですか!」
きっとナウザーもこんな場所に王太子が訪問してくるなんて夢にも考えていなかったのだろう。そもそも母親が先王の娘ってのは何だ? 世間では説明する必要もない常識なのか。だからってナウザーから窺える育ちの良さは背筋がいい事くらいしかないと、落ち込んでいたファミアに怒りの感情が芽生える。許容範囲を超えると思考はおかしくなるものらしい。
「聞いていないわ、王太子様なんて。え、もしかしていとこ同士になるの? 何なのよもう、こんな時に森にいないなんてどうかしているわ。」
「えっ、ちょっファミア?!」
感極まったかに突然しくしくと泣き出したファミアにソウドは狼狽える。子供の扱いは得意だが、無骨ゆえに女性に関しては奥手だった。
「奥方にまで泣かれるほど嫌われているとは、自業自得とはいえやはり落ち込む。」
急に現れた第三者の声に二人は同時に顔をあげ、ソウドは素早くファミアから一歩下がると背筋を正した。
「私の話はナウザーから聞いているか?」
「いいえ、まったく……」
突然現れた二十代半ばの青年に、ファミアは唖然としたまま首を振った。ナウザーや義父、ソウドを見慣れているせいで小さく見えるが、ファミアより頭一つ分は背が高い。がっちりとした体をしているが竜騎士たちの様に明らかな筋肉質でもなく、全体的に均衡がとれ美しい立ち姿をしていた。柔らかそうな淡い茶色の髪に初めて目にする灰色の瞳。顔つきは整っているだろうがそこまで考える余裕はなく。
「聞いていないのか?」
「はい……」
「……そうか。それはそれで落ち込むな。」
ふっと力なく笑った拍子に影が差し、愁いを帯びた姿にファミアは何と答えるのが正解だったのか、今すぐにでも義母に教えを請いたい気分だった。
外見からすると竜騎士でない目の前の人物が恐らくソウドの言う王太子なのだろう。確かエヴァルフィという名であったか。間違えて処罰されてはたまらないので名を呼ぶのはやめておこうと考え、座ったままなのを思い出して慌てて立ち上がった。驚きで脚の震えはすっかりなくなっていたが、震えていたとしても意地で立ち上がっていただろう。
「あのっ、主人は不在で。」
「知っているよ。合わせる顔がなくてね、不在を狙って来たのだ。」
ぐるりと小屋の中を見渡しながら返す声は沈んでいた。灰色の瞳は何故か常に愁いているようで、最後にファミアで止まって思案し、暫く見つめた後にまるで今初めてファミアを見たかに目を見開く。
「そう言えば誰かが噂していたが、驚いたな。」
溜息を落とす様に言葉が吐き出される。見られていることに恐れと恥ずかしさを感じてファミアは視線を床に落とした。
「私の話を聞いていないなら、私が何故忍んできたのかも想像がつかないだろうね。驚かせて申し訳なく思うよ。けれどこの機会を逃せば二度と関わりを持てない気がしてソウドに頼んだ。個人的な願いで周囲を振り回しているのは解っているのだが、どうか許して欲しい。」
眉を寄せ許しを請う青年を前にファミアは唖然とする。生まれ育った小さな村では村長の言葉は誰もが従う大切な言葉だった。だから将来的に国を統べる地位にある王太子の言葉には誰も逆らえないだろうと、その位はファミアにも想像がついた。だからもっとこう、そういう地位にある人は傍若無人であってもいいというか、そうなのだろうと感じるのだが、目の前で許しを待つエヴァルフィからは有無を言わさぬ高圧的な態度を微塵も感じない。どちらかと言えばマデリーンの態度の方が何倍も何十倍も大きかった。竜守りは国にとっても大切で特別な仕事だ。けれど王太子がその妻如きにこれほど下手に出る意味が分からない。
「竜騎士って、王様よりも偉いのかしら?」
「んな訳あるか。」
つい心の声が表に出てしまう。それに素早く突っ込んだのはソウドだ。小声だが目の前のエヴァルフィには聞こえてしまったようで、おもむろに前髪をかき上げ、愁いを帯びた溜息を落としていた。
「私はナウザーに対してけして返せない借りがあるのだが、向き合うのが恐ろしくて今日までここに来れずにいた。しかし今日とて恐ろしく、結局ナウザーの不在を狙い、伴侶となった其方に結婚の祝いを述べて様子を見ようと姑息な手段に出たのだ。」
再び溜息を落として斜め下を向いたエヴァルフィの、灰色の瞳に涙の幕が張ったのを確認したファミアはぎょっとしてソウドを振り返る。ソウドはまるで謝罪するように肩をあげたが無言のままだ。ファミアはどうするべきなのかとエヴァルフィの様子を窺う。話が読めない。エヴァルフィにはナウザーに対して何か後ろ暗いことがあり、それをずっと悔いて悩んでいるのか。それを本人に聞いてもいいのだろうか。そもそもファミアから話しかけても不敬にならないのかと心配になる。けれど先ほどファミアが漏らした呟きに怒った様子はまるでなく、エヴァルフィ自身は一人陰鬱な雰囲気に入り込んでいる様子だ。ファミアは今にも落涙しそうな王太子を前に眉を寄せ考え込んだ。
借りとは何だろう。今日までここに来れなかったのだから十年は会っていないという事か。王太子自身はナウザーと向き合いたいが、結局はナウザーが怖くて出来なかった。今日は結婚祝いにかこつけて森を訪れたが、結局ナウザーと顔を合わせる勇気がなく不在を狙い、ファミアに祝いをして様子を見ようとしている。
どうしてだろうと、ファミアには王太子が悲嘆に暮れる理由が全く分からなかった。ソウドに助けを求めるも口を噤んで申し訳なさそうな視線を向けるだけ。ソウドからは後日詳しい話を聞かせてもうしかないと諦め、今にも泣き出しそうなエヴァルフィに勇気をもって問いかけた。
「あのぅ……王太子様は。主人にいったい何の借りがあるのでしょうか?」
恐る恐る問えば、エヴァルフィは衝撃を受けたように顔をあげ目を見開いた。やがて開いた瞳を元の大きさに戻し、ふらりと倒れるような仕草で粗末だが丈夫なテーブルに手を置く。
ものすごく、本当に物凄く打ちひしがれているのは解る。こんな人が将来の王様でいいのかとファミアが心配になる程、初対面の娘を前にこんな態度を取ってしまう王太子という身分ある人を心の底から心配した。
「私は―――」
エヴァルフィは言いかけてきつく唇を噛む。黙って待っていると意を決したように顔をあげ、背筋を伸ばし、エヴァルフィはファミアと真っ直ぐに向き合った。
「私はナウザーから左腕を奪い、竜騎士という将来までもを奪い去った。」
ファミアは虚を突かれる。ナウザーが腕を失ったのは彼の意思ではなかったのか。ハウルという大切な竜の命を救うために自分の腕を食わせたのだと聞いているが―――嘘ではないはずだ。
ファミアは確認するかに自ずとソウドを振り返る。するとソウドはまた始まったよとでもいうかに、あきらめに似た溜息を落としていた。
「あの……彼の腕を食べたのは竜です。」
「だが原因を作ったのは私だ。私がいなければナウザーは腕を失わず、今も竜騎士という誉ある任務に付いていた筈であった。」
「そう……なんですか。」
どんな原因を作ったのか興味はあるが、それはナウザーやソウドに問えばすぐに判明するだろう。なんとなく今を突破しようという投げやりなソウドの態度も気になる。ファミアは取りあえず今をしのぐ事だけを考えた。二十代半ばの青年に、王太子に、目の前で泣かれてはたまらない。
「あの……王太子様が原因を作ったというのは初耳ですけど、彼は恨んでなんていないと思います。」
「皆がそう言う。だがそれは私が王太子だからで、本当の所は違うはずだ。」
王太子という身分を気遣い恨んでなどいないと誰も彼も言うが、腕を失い竜騎士でいられなくなったという状況はそう簡単に許せるものではないと、エヴァルフィは悲痛に顔を歪めた。
「でも―――ただ腕を失ったのではなく、今は竜の一部としてちゃんと生き続けていますから。竜が好きで大切でたまらない人間からすると、自分の一部が竜の中にあるのはそう悪い気分でもないのではないでしょうか。」
ナウザーが腕を失った状況からすると軽々しい考え方になってしまうが、ただ腕を落とされ土に返すより、消えようとした竜の命となって生き続けていると思えば心が軽くなるのではないだろうか。ハウルに生きてもらうことを望んだのはナウザーで、ハウルもナウザーの生を望み腕を食らった。二人にとっての大きな絆の証明だ。
なんとなく繕うように発した言葉だが、ファミアの言葉にエヴァルフィははっとしたように表情を変え、よろめくように一歩後ろへ下がって瞳を揺らした。
「しかし―――以来ナウザーも一度として私に顔を見せない。」
「竜守りとして森を空けられないだけではないのでしょうか。」
「確かに皆もそう言うが―――謝罪も受け入れてもらえていないのだ。恨んでいるに違いないし、それだけの事を私は仕出かしてしまった。」
後ろから『めんどくせぇ』という溜息が落ちた気がしたがファミアは振り返らなかった。どうやら王太子は思い込みの激しい人らしい。皆が言うならそれを信じればいいものを、何でも疑ってかかる性格なのだろうか。大雑把なナウザーとはあまり合わない気がする。きっと王太子が悩んでいると耳にしても「気にするな」と返して忘れてしまっているに違いない。
ファミアはエヴァルフィをじっと見据え考えた。きっと彼はナウザーから真実を聞いても疑ってかかるのだろう。本当にそうなのかと疑い、身分のせいで素直に受け取れないのではないだろうか。だからいけない事だと解っていたが、取り合えずお引き取り願うために一つだけ、エヴァルフィの不安を解消することとする。
「では―――わたしは王太子様に感謝しなければいけませんね。」
「感謝? 私に? 何故?」
一言一言、疑問を深めながら訝しげに灰色の瞳がファミアを捉えた。
「彼が腕を失ったのは王太子様のせいなのですよね。それが本当なら、わたしがナウザーに出会えたのは王太子様のお蔭ですから。」
ナウザーが竜騎士のままでいたなら、竜守りとなることもなく婚約者であるマデリーンと結婚して家庭を築いていた筈だ。けれどそうならずに竜騎士を辞して竜守りとなった。それは全てナウザーの腕を奪ったエヴァルフィのお蔭だ。
「ご存知かもしれませんが、わたしは貧しい村の生まれです。秋の収穫が思ったよりも少なく、冬は越せないと身売りするしかない状況でした。」
「其方が身売りだと!」
思わず声を上げてしまったのか、エヴァルフィは慌てて口元を覆うと「いや、続けてくれ」と指示を出す。
「身売りとは娼婦になるという事です。でも竜守りとの結婚を世話してくれる人がいて、幸いにもその必要はなくなりました。それだけではなく、結納金としていただいた品物やお金が村の冬を救ってくれました。村の人もわたしも彼には深い感謝をしています。それが全部、王太子様がして下さったことの成り行きなのだとすれば、わたし達は王太子様に深い感謝を申し上げます。」
ありがとうございますと深く頭を下げるファミアに、頭を下げられたエヴァルフィは驚きのあまり言葉を失ってしまう。恨まれる立場が一転、感謝される側に回ってしまったのだ。
「其方は、幸せなのか。これは身売りと同じだと言われはしないのか?」
「そういう人もいますし、わたし自身も初めはその覚悟でした。でも、王太子様はナウザーという人をご存じありませんか。あの人はいつも側にいてわたしを守ってくれます。愛しんでくれます。それなのに幸せでない筈がありません。だからわたしは王太子様に感謝するんです。」
あえて微笑みを湛えて幸せだと表現すれば、エヴァルフィは思案したのち「そうか」と小さな声を落とした。
「本日は急であったため祝いの品は準備してきていないのだ、主の不在を狙い申し訳ない。先触も出さず私は不届き者だな。」
王太子が来ると先触を出されても準備のしようがない。迎える作法も知らないのだから突撃訪問で良かったのかもしれないとファミアは首を振った。
「遠いところをありがとうございます。」
「次は祝いの品を持って、ナウザーのいる時間に訪問しよう。おめでとう。」
ありがとうございますと、ファミアは頭を下げる。ファミアと話をしてもエヴァルフィの憂いは取れないだろう。どうなるか分からないが、ナウザーと直接話してもらうのが一番だ。
小屋を出て帰っていく王太子ご一行を見送る。ソウドがエヴァルフィと騎竜し、他は護衛という所か。一人で自由に出歩けない高すぎる身分の人だが、竜が飛び立つ前にエヴァルフィが手を振ったのでファミアも振り返した。五体の竜が飛び立ち、あっという間に見えなくなると一気に疲れが出て地面に座り込む。それから一時程して、血相を変えたナウザーが森から飛び出してくるまでファミアはそのまま地面に座り込んでいた。