乱入者
険しい表情のファミアに向け、赤く塗られた唇が美しく弧を描く。襟ぐりが開いたドレスからは大きな胸の谷間が覗き、胸の下からすとんと落ちた下部分は胸を強調しつつ、膨らみ始めた腹をふんわりと覆い隠していた。けれどその腹に子がいるのは確かなのだ。
「あなたは母親になるのに、どうして生まれてくる子供の事を考えないんですか。それがあなた達の常識という訳ではないでしょうに、あなたはナウザーに固執して、お腹にいる小さな命を目的の道具の様にしている。命って大切なものですよね、産む側も命がけです。それなのに、あなたが命を懸けて竜騎士という地位に固執するのはどうしてですか。」
互いに想い合っていたわけでなくとも結婚の約束までして、何の情も湧かない筈がない。ファミアがいなければナウザーはマデリーンの為に何らかの手を差し伸べた筈だ。でも現実にナウザーの隣にはファミアがいて、竜守りとなり森を出る選択肢はない。それなら何故他の竜騎士たちに目を向けないのだろう。向けたとしても相手にされなかったのかもしれないが、遠い森の奥に住むナウザーよりもよっぽど近い存在のはず。ナウザーに妻がいて手遅れと知った時点で次の手を考えてもいいようなものなのに、どうしてマデリーンはナウザーの母であるテレジアと罵り合っても己を主張し続けようとするのだろう。
「あなたは―――本当はナウザーを好きだったの?」
こんな場所には住めないと逃げ出して、十年してようやくそれに気付いた?それとも―――
「貧しくてみすぼらしい女に盗られたのが悔しいだけ?」
かっと茶色の瞳が見開かれ、白魚のようなマデリーンの手がファミアの頬を打った。乾いた音が響き、一瞬で周囲が静まり返る。マデリーンの美しく作られた顔が醜く歪んだ。
「お金に目が眩んだだけのくせに!」
静まり返った広間に金切り声が響き渡った。
「おまえのような狡猾な女に現を抜かす男なんて、こっちから願い下げよ!」
どちらの言葉が激高の引き金となったのか、マデリーンは赤く塗られた長い爪を牙に変えファミアに襲いかかる。だがマデリーンの両手がファミアへと届く間にナウザーの腕が制止をかけた。それと同時に大きな硝子窓が音を立てて破られ、巨大な首が飛び出し周囲からは一斉に悲鳴が上がる。
誰もが驚いたその光景に、ファミアはゆっくりと薄い青の瞳を向けた。幼い竜と重なる光景だが、破れた硝子窓から室内に向かって顔をつき出しているのはパウズではなく巨大な成竜の頭だ。誰かが竜の名を呼ぶ。顔を出しているのはランサムの竜で、ナウザーが拘束するマデリーンをじっと睨んだ後、鼻先をゆっくりとファミアへ向けた。
『助けが必要か』
いいえと、ファミアは小さく微笑んで首を振る。こういう時でもナウザーの言いつけを忘れなかった。
「りゅっ……竜が、怒っているわっ!!」
この女は竜に認められないと、静まり返った空間にマデリーンの叫びが轟く。だが竜騎士が多く集うこの場所で、竜が案じるのはファミアだと、彼らには正確に理解できていた。だが竜騎士たちは人に関心を示さない竜が何故と、経験したことのない事態に眉を寄せる。
「彼女は竜守りの妻、唯一竜に認められた女だぞ。」
竜の怒気はマデリーンに向けられているのだと、同時に竜守りの妻だからこそ竜がファミアを心配したのだとナウザーが取り繕う。窓を割り頭を突っ込んで周囲を驚かせる竜に、ランサムがファミアを気にしながら歩み寄って行った。巨大な頭をなでながら機嫌を取っているのが分かるが、何を話しているかまでは誰にも届かない。暴挙を犯したのはランサムの竜で、二人は周囲を遮断していた。
命じられる前に使用人達が割れたガラスを片付ける。壊された窓を塞ぐために板が準備され、瞬く間に外の冷気が遮断された。竜を外に追いやったランサムも広間を出ている。基地にいるはずの竜が勝手に出歩くのは稀だがない話でもない。ただナウザーは、竜が向けた言葉をファミアが受け取ったと気付かれていないかと心配しながら、ナウザーに縋り付き竜が怒っている、ナウザーに相応しいのは自分だと喚き散らすマデリーンにも辟易していた。
元は婚約し結婚する予定だった女性だ。彼女自身は竜騎士の妻となることに誇りを持ち、そうなるのだと信じて疑わずに成長したのに、このような形になってしまったのには申し訳ない気持ちはある。けれどファミアに出会ったナウザーにマデリーンを受け入れる隙間は微塵も残っていなかった。可哀想だし誠実でなかった後ろめたさもあるが、下手に相手をして希望を持たせるのもよくない。ナウザーはマデリーンを連れてきた男に乱暴ともとれる態度で押し付ける。
「文句があるなら俺自身に言え。」
妻を愚弄するなと大きな背に庇われたファミアは、ナウザーの体温を感じて我に返った。狡猾な女……自分は狡賢いのだろうかと過去を振り返る。悔しいことは沢山あったけれど、ファミアには守ってくれる誰かがいつも側にいた。両親であったり、兄であったり、そして夫であったり。腕がなくても大きな背はそれだけで頼りがいがあって安心を植え付けてくれる。堂々と相手をしてくれた義母は凛とした姿で優雅という盾を持ちマデリーンに挑んでいた。
守られてばかりでいいのか。狡猾だというマデリーンの叫びがファミアの脳裏に木霊し、その木霊に後押しされる様にナウザーの隣に立ってその太い指に細く小さな指を絡めた。
「あなたが左腕のない彼を見捨てたあの日より、彼の右腕があなたを抱く日は一生失われたんです。」
二人の間にある過去のやり取りは知らないが未来ならわかる。ナウザーは望まないし、ファミアもナウザーを離す気はない。竜守りの妻として上流階級の女らがけして暮らせない世界で夫と二人、互いに心を深め合いながら年を取るのだ。
「竜守りの子供もわたしが産みます。たとえあなたが彼を愛しているのだとしても、それだけは絶対に譲らない。一度なくしたものを得るのはとても困難なのだと気付いても今更です。竜守りの妻となった理由が何であれ、わたしは彼自身への愛を一生貫き通しますから。」
娼婦になるよりはと選んだ道だったが、夫になったのはこんな自分を愛してくれる手放せない相手だった。
「あなたは母親になる自覚をしっかりと持つべきだわ。」
ナウザーにその気がないと解っていても、過去に婚約した女性となると嫉妬心は湧きあがる。けれど今は目の前のマデリーンが少しだけ哀れに感じ、生まれる子供の将来がとても心配になっていた。お金持ちで母親が育てなくても誰かが代わりになるのだろう。でもそれでいいのかと、罪のないはずの子供に与えられるであろう傷みを感じてしまう。愛されても孤独になる子供だっているのに、生まれる前から手段の一つとして道具扱いされる子供なんて悲し過ぎるではないか。
余裕をなくしたマデリーンの顔が醜悪に歪む。怒りだけが込められた視線は確実にファミアを見下し、けれど見下す相手から向けられた言葉によって恨みすら感じられた。彼女にとっては身分こそが全てなのだろう。
「平民風情が調子に乗らないで。どうせ飽きられて捨てられるに決まっているのだから。」
マデリーンは捨て台詞を吐き、同行した男から引きずられるようにして姿を消す。公衆の面前で竜守りの妻を、ファルムント家の嫁を罵ることがどういうことかを連れの男はよく理解していたのだ。ナウザーが窓の外を見やると竜が中を覗き込んでいて、縦長の瞳孔が不気味に光って見えた。実際にはファミアを心配して覗いているのだが、そうと知らない招待客らは身を小さくしてびくびくと竜の動向を見守っている。しばらくして割られていない硝子窓の向こうから大きな黒影が消えるとランサムが戻ってきた。
「竜に愛されるとは、まさに竜守りの妻に相応しい。」
宴の再開とばかりにグラスを掲げ場を盛り上げる。優しい微笑みを湛える漆黒の瞳が鋭くファミアを観察し始めたのにナウザーは気付き、父親の視線から大きな巨体を使ってファミアを遮断した。
宴が終わり屋敷の人間らが寝静まったころ、ナウザーはそっと部屋を抜け出し書斎へ向かう。小さな明かり一つだけが灯されたそこには難しい顔つきのランサムが腕を組み、中央に設えられた長椅子に深く腰を下ろしていた。合図もなく扉を開いたナウザーを視線だけで促し、ナウザーはそれに従って父の前に腰を下ろす。それからしばらく二人は無言だったが、ランサムがやがて大きく長い息を吐くと口を開いた。
「あの娘、竜の声が聴こえるな。」
答えを求めない問いは、ランサムの中では確定されているという事だ。恐らくナウザーが否定しても受け取らないだろう。否定すればするほど確たる証拠を求めるのがランサムの性格だ。他の竜騎士たちは竜守りの妻だから庇われたのだと納得していたが、ランサムはあの瞬間全てを見抜いたのだろう。だからこそあえて竜守りの妻だからと発言もした。けれどそれはランサムの考えではなく周囲を誤魔化すためにだ。
「他に知っている者はいるのか。婆はどうだ?」
「シグ婆は何も知りませんし、予想もしていないでしょう。ソウドは気付いている可能性がありますが、追及するつもりはないようです。」
「パシェド村の人間は誰もがああなのか?」
一人一人を観察したわけではないが、恐らくそれはないとナウザーは首を振った。
「ガグルは知っているようだが口を開かん。何故あの娘は聴ける?」
ガグルはランサムの竜だ。先日竜の森へ入った際に他の竜たちと接触は持たなかった竜が口を噤んだという事は、ソウドの竜から聞いて知っていたのかもしれない。ランサムはそれを訝しむ。長年連れ添う竜騎士よりも見知ったばかりの娘を案じる姿は、あまりにも竜に似つかわしくなかった。
「竜が話さぬのなら俺からは口外できません。」
「便利な言い訳だな。」
父親ではなく上官としての鋭い視線がナウザーを襲い、ナウザーはそれを真正面から受け止めた。ハウルから得た情報をランサムに教えても彼の胸の内に留めるだろう。けれど多くの危険を伴う事実をナウザーの口から話すわけにはいかない。ファミアの秘密を父親であるランサムと共有するのも憚られた。できるなら一生、憶測も含めナウザーだけの胸の内に留め墓場まで持って行きたいと願っているのだ。
「公表して悪い話とは思えんが。マデリーンを黙らせる材料にもなり得たし、祝いの場で不快な思いをさせずにすんだ。しかもあの体では竜騎士にと望む声は上がるまい。何を恐れている?」
髪と瞳は黒ではなく男でもない。そもそも過去において女性が竜の声を聴いた例は一つとしてないのだ。公表して地位を得るのは悪い話ではないし、マデリーンを黙らせるには何よりも勝る材料となる。ナウザーの子を産むと披露宴の場で愛人宣言されては、ナウザーにその気がなくても妻としては不快になって当たり前だ。女性の間にはさまれ悦に入るような男でもないくせに、惚れた娘に苦境を強いる意味が分からなかった。それにファミアは貧しい村の出身。隣国との国境付近にあるが山に囲まれた辺境で、外界と隔離された地域でもある。その彼らに竜の声を聴く能力が受け継がれているなら、国にとってもだが何よりも貧しい村を救う材料に成り得るだろう。それを詳しい調査もせずないと言い切る様子に、ランサムはナウザーが確実な理由を知っているのだと確信した。
「竜を守る為にも心に留め置いてくれというのは贅沢な願いでしょうか。」
「個人的にどうしても知りたいのだがな。竜を持ち出されては公に調べる訳にもいかぬか。まぁいい。竜の得になることでお前が偽りを述べるとは思っておらんからな。」
意外にもあっさり引き下がったランサムに、ナウザーは訝しげな視線を送る。公には調べないが、頻繁にファミアを訪ねて暴こうとしているのではないだろうか。
「ちゃんと仕事しろよ?」
「勿論、責任ある立場だと弁えているよ。だが嫁に会いに行くのは義父としておかしな話じゃない。類い稀な娘だ。私が追い回しても怪しく思う人間は少なかろうよ。」
「嫁に懸想する義父と汚名を着せられてもいいのかよ。」
「私の一番は何があろうとテレジアだからね。彼女さえ信じてくれているなら他所に何を言われようとどうだっていいのだよ。」
長い年月、無暗矢鱈に女性を賛美し続けたわけではない。この日の為だったのだとでもいうかに胸を張る父親に、ナウザーは呆れて眉を寄せ目を細めた。