夫になる人
床に散乱した衣服を拾い集めていると風呂場を見つけたファミアは、いつ何処からやってくるやもしれない獣を恐れ、洗濯はここでやってしまおうと決める。脱衣所に衣服を山積みにするとまずは風呂場の掃除から始めた。
日頃から使っているのだろう、他の部屋に比べると綺麗に見えたが、それでも他に比べるとましといった程度でかなり汚れていた。小さな貧しい村で生まれ育ったファミアが風呂に入った経験は一度しかない。村長の家にある風呂を結婚式の前の晩に借りたのが最初で最後だ。森に囲まれた辺鄙な場所にまで風呂があると知り、ファミアは自分の村がいかに貧しいのかを実感した。
手早く掃除を済ませ風呂桶に水をためる。掃除中に洗濯用の石鹸も見つけたので遠慮なく汚れた衣服に擦り込んで漬けおいた。漬けおいて汚れを浮かせている間に台所の掃除をすませたが、洗い場に山積みにされている汚れた食器をすべて床にどかしてからの作業となった。
洗った食器はとりあえず盥に入れて天日干しだ。小屋の中を掃除する必要があるので邪魔になるし、せっかく綺麗にしたのに再び埃をかぶって汚してしまう可能性もある。かまども灰がたまり放題で、この時になると扉も窓もすべて開け放ったまま獣を恐れる余裕もなく掃除に明け暮れた。洗った洗濯物はやはり掃除中に発見したとても長いロープを使って外に干し切る。子供の頃から労働に慣れているファミアもさすがに疲れた。それでも束子で床を磨き終えると達成感から心地よい疲労に感じる。日が陰り冷たい風が窓から入り込む時間になっていたので、洗濯物を取り込んでしまおうと振り返った時、開け放った扉の前に大きな黒い影を見つけてファミアは飛び上がった。
「ひぃっ!」
手にしていた束子が空を舞い、それが床に落ちる前に扉に立ちふさがるのが熊ではなく、人であるのを悟ることができ慌てて悲鳴を飲み込んだ。
「誰だ、ここで何をしている?」
低く警戒する男の声。目の前の男が誰かすぐに思い至ったファミアは乱れた髪を整えながら身を正す。
「あのっ、シグ婆さんに連れてこられっ……連れてきてもらって。今日からお世話になります、ファミアです。パシェド村から来ました。よろしくお願いします。」
叱咤され追い出される前に自己紹介を済ませると、扉の前に立ち塞がっていた男は荒々しい音を立てながら小屋に入り、中を見渡しながら「パシェド村」と繰り返した。
「余程逃がしたくないのか、今度はずいぶん遠くから連れてきたもんだな。あんたもよく了承したもんだ。」
「いえ、あの……よい縁談だと感謝しています。」
一生を村で過ごす人間がほとんどだ。だからまさかこれほど遠くへ嫁ぐ日がくるとは思っていなかったが、ファミアにも様々な理由がある。仕方がないと納得しているファミアの言葉を前に男―――ナウザーはわざとらしく失笑してみせた。
「よい縁談だって? 冗談言うな。まぁあの村の現状からして、娼婦になるよりはと金で丸め込まれたんだろう?」
確かにその通りだが、大きな男の威圧感に押されたファミアは失礼にも頷かずに済んだ。娼婦になる予定だった女を妻にするのは気分のいい話しではない。生まれ育った村にはこんなに大きな人間がいなかったので怒らせるのが怖かったし、目の前に立たれて初めて男に左腕がないのに気が付き身が竦む。だがナウザーは言葉を無くしたファミアに答えを求めるかに眉を動かして促した。
「パシェド村に来たことがあるんですか?」
山間の小さな村をこんな遠くに住む人が知っているのが不思議だった。目の前に立つ男は埃にまみれたぼさぼさの黒髪に、顔中が黒い髭で覆われていてわかり難いが、恐らく年齢は四十前といった所だろう。それだけ生きていればファミアが知らないだけで村に来たことがあるのかもしれないと思ったが、ナウザーの返事は否で、漆黒の目が鋭く観察するかにファミアを見下ろしていた。
「行ったことはないが知っている。地図にも載らないような小さな村だがな。で、あんた、本当に俺の嫁になるつもりか?」
大きな体と隻腕に怯えるのを隠しつつファミアが頷くと、ナウザーは太い右腕をのばしファミアの頤を捉え目を細めた。
「貧しい村とはいえ、その顔で嫁の貰い手がなかったとは思えんが?」
「あの……十四で一度、結婚を―――」
式の直後に逃げられたとは、価値のない女として放り出されるのを恐れて言えなかった。
「今はいくつだ?」
「二十です。」
「二十―――若いな。」
若くはないと思うが、確かにナウザーからすると若い娘になるのだろう。もしかしたら親子ほど年が離れているかもしれない。
「ちゃんと離婚の書類は教会に提出していますし、先日ナウザーさんとの婚姻の書類も出してきました。」
「―――あの婆ぁ、用意周到だな。」
書類を提出していなかったら追い出されたのだろうか。ファミアは婆に感謝しつつ相手の出方を待つ。
「まぁいいか。家を綺麗にしてもらったし、あんた飯作れんだろ?」
「勿論です!」
どうやら追い出されるなんてことにはならなさそうだ。ほっとしたファミアが顔を上げると、食料庫に案内するとナウザーが背を向けたので慌てて後を追った。ナウザーが歩くのに合わせ腕のない左の袖が揺れている。見た目は怖いが左腕がないせいで不便をし人を必要としているのかもしれない。片腕では難儀だったろうと、散らかり汚れ放題だった室内の原因を垣間見たような気持ちになる。
人一人がやっと通れる程度の獣道しかないのにどうやって運んだのか。小屋の中にある食料庫には大量の食材がそろっていた。長期保存できるものはうなずけるが、新鮮な葉物野菜まであるのには驚きだ。婆以外に物を運んでくれる人が毎日来るのかもしれないが、毎日来るのなら保存庫いっぱいの食料など必要ないのではと疑問にも思っていると、十日に一度運ばれてくると説明を受けた。
葉物が新鮮なところからして昨日今日補充されたようだが、十日分にしてはものすごい量で驚かされる。大きな体を維持するのに必要なのかもしれないが、これだけあればファミアの一家五人がひと月は空腹を感じずに済むのではないかという量だ。新しい夫はよく食べるのだろうと想像しつつ、側に転げていた籠に必要な食材を集めていると、ナウザーは下がっていた干し肉丸ごと抱えて行ってしまった。どうやら肉も食べるらしい。豊作で祭りが開かられたとき以上のご馳走が出来上がりそうで、想像しただけでファミアは眩暈を覚えた。
洗いたての大鍋に野菜を煮込み、焦げを落としたフライパンでナウザーが切り落としてくれた肉を焼く。脂の焦げる匂いが食欲をそそるが、こんなに分厚く切られた肉なら一口でお腹がいっぱいになりそうだ。それが三切れもある。葉物は新鮮なうちにとさっと湯がいて、村では高価な塩を使って薄く味をつけた。パンは焼く時間がないので今夜のうちに支度し、明日の朝には食べられるようにしておこうと段取りをたてる。
ファミアが食事の支度をしているとナウザーが洗濯物を取り込んでくれたのだが、それを何の迷いもなく床に放り投げられたのには驚かされた。無頓着にもほどがある。慌てて床に散らばった乾いた洗濯物を拾い集めた。ナウザーは少々ばつが悪そうにしていたが、食事の支度に忙しいので気付かないふりをする。
「美味いな。」
並べられた料理を真っ黒な髭に囲まれた大きな口に放り込んで感想を漏らす。その言葉にファミアはほっとしてスープに手を伸ばした。
「もう喰わないのか?」
お椀一杯の野菜スープを食べただけで匙を置いたファミアに、大きな肉を頬張りながらナウザーが訊ねる。
「もうお腹いっぱいです。」
村にいた時より多くの量を食べたが、ナウザーからはたったそれだけかと訝しげに眉を顰められた。
「遠慮はするなよ、村では食えなかったろ?」
「確かにそうですが、具のたくさん入ったスープをいただいたので、本当にお腹いっぱいなんです。」
「―――パシェド村はずいぶんと深刻な状況のようだな。」
ナウザーが食す量から考えるとファミアの食事量では餓死してもおかしくないと考えるだろう。けれどそれでもファミア達は何とか生き延びてきた。しかも今度の冬はファミアがここに嫁ぐことで多くの金銭や食料やらを頂いているのだ。不作で悩んだがいつも以上に豊かな冬を越せるだろう。兄夫婦は得たものを一人占めするような人間ではないので、今回の縁談は村人にとっても救いになったはずだ。
食事を終え片付けをしている間にナウザーは盥に湯を入れ体を拭く。風呂桶に水をためて湯を沸かす時間はなかった。いつもは水浴びだけだというナウザーに、さすがに冷えるからと湯を入れた盥を準備したのはファミアだ。
「風邪をひかれては大変ですから。」
そういうファミアにナウザーは目を瞬かせ、すぐにファミアが驚くべき事実を教えてくれた。
「俺は怪我はしても病気にはならない。」
驚くファミアに、竜守りや竜騎士といった竜と対話をできる人間は、どういうわけか病にはかからないのだと教えてくれる。ファミアも子供の頃以来病気知らずだが、ナウザーの病気にならないという現象はまるでおとぎ話の中の出来事のようだと驚くファミアに、知らない人間がいたとはなと逆に驚かれた。
そもそも竜守りというものが何かもファミアはよく知らない。ナウザーは見た目ほど怖くはないようだし、気さくな様なので聞けば教えてくれるのだろうが、ただでさえ何もないというのに更に無知で価値のない女と思われるのが怖くて口を噤んだ。追い出されるのを恐れているのだ。
夜の帳も引かれナウザーは寝室にこもった。ファミアは懸命に小麦をこね翌朝焼くパンの仕込みをしていたが、初対面でよく知りもしない大男のナウザーの側に行くのが怖くて、必要以上に時間をかけて生地をこね続ける。
ナウザーの外見はまるで熊のようだ。見あげるほど大きくて、体にもしっかりと筋肉がついていた。鍬や鋤を持ち畑を耕したり、罠や弓で獣を狩るでもない強靭な肉体をしている。人を背に乗せて空を飛ぶ竜を相手にしているのだ、かなりの肉体労働なのかもしれない。意外に思われるかもしれないが左腕がないのは全く気にならなかった。あれだけの体があれば腕の一本なくてもさほど不自由しないのではないだろうか。片腕で芋の皮を剥くのは難しいだろうが、芋の皮が剥かれていようがいまいが気にするような人でもなさそうだ。
今ファミアが恐れるのは妻として扱われることだ。嫁に来たのだから当然そうなるべきだが、ナウザーは縦だけでなく横もファミアより倍は大きい。夫婦となった男女が夜の寝台で何をするのか、ファミアは十四の時に母親から教えられていたので知ってはいるが、あの大きなナウザーに体をへし折られてしまうのではないかと不安でたまらなかった。パンを捏ねる腕は棒のように細くて、胸も薄く肋骨だって浮き出ている。体つきは肉欲的ではないが、ファミアは自分の顔が男を誘うというのをよく理解していた。頤を取られ『その顔で』と言われたのはナウザーの目にも醜いという意味ではないと十分解っている。
いつまでもパンを捏ねているわけにはいかない。ファミアは意を決し、冷たい水で体を拭ってからそっと寝室の扉を開いた。この部屋は手つかずのままだったので散らかり放題だろうと予想したが、小さな蝋燭の灯に照らされた室内は大して散らかっておらず、きちんと整理されていた。と言ってもナウザーが横たわるに相応しい大きな寝台と、脇に小さめのテーブルと椅子が一脚ある程度だ。本当に眠るだけの部屋といった感じで、大きな寝台が占拠する部屋はわりと広めだが狭く感じる。
音をたてないように寝台に寄れば、ナウザーは壁際に体を寄せ、こちらに背を向けて眠っていた。ちゃんとファミアが眠る場所は空けてくれているが、初対面の人間が知らないうちに隣に眠っていても平気なのだろうかと眉を寄せた。ファミア程度の女などナウザーなら片腕で十分に殺せそうだ。首など一ひねりで折られてしまう。警戒する必要も感じていないのか、ファミアは目を覚ます様子のないナウザーを前にほっと息を吐いて蝋燭をテーブルに置いた。
めくれないよう寝間着の裾を抑え寝台に上がると、背を向けていたナウザーが寝返りを打つ。眠っていたと思っていたのにナウザーの黒い目はしっかりと開いていて、ファミアは声にならない悲鳴を上げた。
「そんなに怯えるな。無理やり取って喰う趣味はない。」
「あ、あのっ……」
夫婦が夜の寝台ですることはちゃんと知っている。拒否するつもりはないと身を震わせながら頭を大きく振れば、ナウザーが小さく溜息をとしながら右腕を伸ばしてファミアを寝台に倒した。
「七日やる。嫌なら出て行って構わない。だが居続けるならお前を抱く。いいな?」
「はっ、はいっ!」
「よし、もう寝ろ。」
ゴロンと横になったナウザーは再びファミアに背を向けた。ファミアの鼓動がものすごい速さで胸を打つ。緊張で一気に汗が噴き出したが、固まってしまった体をどうにか動かしてナウザーに背を向けた。
七日―――前の妻たちがここで過ごせた最長の期間。少なくともその間ナウザーはファミアを抱くつもりはないらしい。時間をもらっても行く当てのないファミアにとって結果は同じであったが、くれるというなら無理に契りを交わす必要もないと、跳ねる鼓動をどうにか収めようと心を落ち着けた。
これからの七日の間にいったい何を見るのだろうとファミアは不安を募らせる。熊のような男で片腕がなく整理整頓に無頓着だが、けして凶暴というわけでもないようだし、時間をくれるあたりからしても気遣いのできる人物のようだ。前の妻たちはどうしてここを逃げ出したのだろう。行商の婆は貧しいファミアに目を付けたといったが、ここは食料も豊富で贅沢な暮らしだ。孤独が辛くて耐えられなくなるにしても七日で出ていくには些か早すぎるような気がした。
「おやすみなさい。」
背を向けたまま小さく呟いてみると、「ああ」と低い声が返される。
一人で暮らすには寂しいだろうが、ナウザーは一人をどう感じていたのだろうか。本当にファミアが側にいても構わないのだろうか。憐れんで出て行けと言えないだけではないのだろうかと考えもしたが、ファミアが作った食事は喜んでくれたように思う。
返事を幾度か頭の中で繰り返し、ファミアは目を閉じた。初めて会ったばかりの大きな男の横で緊張して眠れないと思ったが、わりと早い段階で睡魔が訪れる。ファミアの寝息を感じたナウザーが体を起こしてファミアの寝顔を覗き見たのも気付かなかった。