義理の母
短く刈られた芝生が茶色に染まる大地に、巨大な箱型の屋敷が聳える。上空からでも立派でお城のようだと息を呑んだファミアを、後ろから支える義父が更に力を籠め引き寄せた。
「降りるよ、舌を噛まないように。」
「はい、え? ひっ!」
返事をすると同時に飛行を続ける竜の背で立ち上がられ義父に抱き付いた。羞恥はなくあるのは驚きと恐怖だけ。降りると声をかけられまさかと思った瞬間、義父はファミアを抱えたまま低空を飛行する竜から飛び降りた。恐怖で声をなくし、硬く目を瞑って義父の胸にしがみ付く。すぐに衝撃が襲うが痛みはない。しばらく動けずにいたファミアだが、顔に受ける冷たい風が収まったのを感じて意識を外に向けた。足が地に着いていないので体は揺れている気がしたが、義父の胸から少しだけ顔をずらして恐る恐る様子を窺う。目に映ったのは馴染んだ高さだ。
「驚かせたかな?」
死ぬかと思ったとは口にできないし答える気力もなかった。飛行中はとても安定しているのに上り下りは滅茶苦茶だ。竜騎士仕様で来られても素人のファミアではついていけない。ゆっくりと地面に下ろしてもらえたが足が小刻みに震える。ナウザーの時にはなかった恐怖が今になって全力で押し寄せているようだ。竜騎士を束ねる頂点に立つ人と騎竜しておいてこれでは失礼にあたると、ファミアは必死に足の震えを収めようとするが上手くいかない。だが義父は気分を害するどころか上機嫌になって再度ファミアを抱えた。
「申し訳ありません。」
「私のせいだ、遠慮なく運ばれなさい。」
何だかもうびっくりし過ぎて泣きそうになる。どうしてこうなったのかと訳が分からなくなってしまった。
腰が抜けた状態で抱えられ向かうのは空から見えた邸宅。森の小屋が二十軒は軽く入る幅に縦は四階建てで、屋上から突き出た部分はさらに二階ほどある。いくつものガラスが張られた窓に外壁には蔦を這わせた薔薇の装飾もあり、まるで天上の城に辿り着いてしまったような眩暈を覚えた。邸宅に続く道は舗装され、どこに続くのか分からない道が四本伸びている。首を巡らせば遠くに門らしきものが見えたが定かではない。行商の婆が竜守りはファミアが想像できないほどのお金持ちだと言っていたが、まさにその通りだ。ファミアは国に聳える城も他の地に点在するお屋敷も見たことなどないが、想像できる限りのものを総動員し加えても、目の前にある風景は最も優れまさに圧巻だった。行き過ぎていて訳が分からない。
屋敷の扉が開かれると執事が慌てて姿を現す。馬車なら余裕を持っての迎えができるのだが、今回の様に竜で帰って来られると迎えが追い付かないことが度々あるのだ。義父と執事が話をしていたがファミアの耳には何も入ってこなかった。深い色の壁紙に真っ白な大理石に敷かれた絨毯。重厚な額に入れられた巨大な肖像画が壁に飾られている。人らしい姿の全身像もあった。義父からふかふかの絨毯に下ろされファミアは気合で立ったが、見渡す限りが未知の世界だ。
「わたくし見ておりましたわよ、あんな降り方をしてまったく乱暴な。腹に子がいたらどうするつもりなのかしら。」
正面にある大きな階段から声が響く。見あげると胸元が大きくあいた深紅のドレスに身を包んだ貴婦人が一人、ランサムを叱咤しながら足元を見ることなく優雅な足取りで降りてきていた。すらりと背が高く胸が大きい貴婦人は年齢こそ五十代とみられるが、纏うドレスの色や大きな胸といった体つきからマデリーンを彷彿とさせる。髪も同じ茶色で唯一瞳の色が違い黒かった。
「子がいたならナウザーが注意しただろう。いないよね?」
優しく義父に確認され、ファミアは胸にちくりと痛みを覚えながらも正直に頷く。産めるのかという不安はいつも持っているのだ。
「いないからよいという訳ではありませんよ。」
綺麗に化粧をした貴婦人が階段を下りてランサムを見上げる。叱咤する瞳は厳しかったがそれがファミアに向くと優しく解された。
「妻のテレジアだよ。テレジア、彼女がファミアだ。美しい娘だろう?」
「ええ本当に、嫉妬するくらい。ごきげんようファミア。」
凛とした輝きを放つテレジアに圧されファミアは腰を折る。ナウザーの実家だが彼が側にいないのがとても不安で怖かった。
「初めましてお義母様。不束者ですが、どうぞよろしくお願いします。」
「不束者だなんて、自分を卑下する言葉は使ってはいけませんよ。こういう時は優雅に微笑んで“ごきげんよう”だけでよいのです。」
「はい、お義母様。」
「大変良いお返事ね。」
薄い空色の瞳に企みなどない素直さを見つけ、テレジアは機嫌よく頷いた。
「さあ挨拶はこれでおしまい。明後日が披露宴だというのはランサムから聞いているわね。時間がないわ、間に合わせでも礼儀作法を覚えてもらって恥ずかしくないように仕上げないと。ああ、それより前に衣装合わせをしなくては。ランサム、あなたはもういいわ、連れてきてくださってありがとう。さあファミアさん、わたくしについていらして。」
テレジアはご機嫌に踵を返すと降りてきた階段を同じように上がっていく。ファミアは義父に頭を下げ、頑張ってと義父が口だけで言って手を振るので再度頭を下げてから、叱咤されないよう慌てて義母の後を追った。
前を歩きながらテレジアは目を細める。竜騎士の妻となるために全身全霊をかけるようなマデリーンを嫌いではなかったが、ナウザーが役目を解かれた途端に見捨てたのは今思い出しても腸が煮えくり返って仕方がない。あの家は末端貴族のくせに分不相応にもしつこく付き纏い、その情熱に負け婚約者として迎えたが、最終的に得をしたのは彼女の出世した父親だけではないか。ファルムント家は竜騎士を一人失い、竜守りという栄誉ある役目を担ったというのに嫁の来手もない。マデリーンさえ逃げ出さなければ今頃ナウザーには何人かの子供が生まれ、竜騎士としての将来に花を咲かせていただろうに。最終的には仕方なく何処とも知れない村の娘を嫁に迎える羽目になったが、なかなかどうして。あの婆もいい仕事をしてくれるものだと満足そうに頷く。
竜騎士となる孫が欲しいのは当たり前だが、それを差し置いて良いほど、ナウザーの嫁となったファミアはそれはそれは想像以上に可憐で美しかった。嫋やかそうで、一見子供のように小さく細いが、守ってやりたいと思わせるそれこそが最大の魅力でもある。しかもあの白さ。陽に当たらずに得た病弱なものではなく正真正銘の透き通る肌だ。育ちからして手入れをしていないだろうに、それであの肌理の細かさなのだから本気で嫉妬するほど羨ましい。それに薄い金色の髪に空色の瞳など初めて見た。黒髪や茶色の髪ばかりが目立つここいらで色素の薄さは憧れだ。素直そうな所も気に入った。これはしっかり見張っていなければ拐かされてしまうやも知れない。
妥協を許さないあまり嫁の貰い手を失い、何処の誰とも知れない男の子を宿して行き場を失ったマデリーン。最近ではナウザーに復縁を迫って呆気なく追い返されたという。当たり前だ、この娘を前に作られた見た目だけのマデリーン如きが敵う訳がない。これは再度泡を吹かせる良い機会だと、テレジアは穏やかな笑顔の下で策を講じる。十年だ、あの屈辱の日よりようやく今日という日を迎えた。目には目を、歯には歯を。テレジアは恩を受けたらけして忘れないが、砂をかけられ黙っているような女ではない。
大満足である様子が背中からも発せられるテレジアに、ファミアは様々な装飾が並ぶ廊下を恐る恐るついて歩く。初対面で嫌われていない感じは受けたが、実際に心の中でどう思われているかなんてわからない。ただもうナウザーとの生まれの違いをまざまざと見せつけられ、あまりの違いに身分がどうのとか考える瞬間もやってこなかった。そうしてつれて行かれた部屋で使用人たちに裸に剥かれ体を洗われると、触れたこともない柔らかでつるんとした感触の布を使った衣装を着せられる。急なことに驚いたがけして抵抗しない。テレジアには逆らってはいけないという本能が働いた。
「ソウドのいう事だから信じてはいましたけれど、まぁ本当に。驚くほど細いのね。締め付けるお肉もないなんて素晴らしいわ。」
細すぎる腰に感嘆の声をあげながらも、胸もないとは口にしない義母の気遣いにファミアは気付いていた。
ファミアは今現在、衣装合わせだからと、瞳の色に合わせた水色のドレスを着せられ義母の検分を受けていた。テレジアは披露宴に合わせ衣装を用意したのだが、サイズが分からないのでファミアと会ったことのあるソウドを呼び出し確認して予め準備しておいたのだ。余りの小ささにソウドの特技を疑わしく感じたものの、一応信じてよかったとテレジアは胸を撫で下ろす。実の所あまりにも胸がないようなので子供を嫁にしたのではないかと息子の性癖を疑ってもいたのだ。あらゆる事態に備えなければやっていけないので覚悟はしていたが、良い意味で裏切られテレジアはほっとし、義母の安堵の意味が分からずファミアは所在無さ気に俯いた。
「ファミアさん、下を向いてはいけませんよ。感情に反して微笑むのは難しいでしょうけど慣れです。さぁ優雅に微笑んでちょうだい。」
にこりとお手本を見せられ、ファミアはぎこちない笑みを見せる。テレジア自らが付き合い何度も試したが、表情に乏しいファミアがそう簡単に意に反する微笑みを取得できるわけもなく。
「こうなったら神秘性を押し出していきましょうか……」
最終的にはテレジアの方が折れた。胸の膨らみが乏しいのを隠す為に可愛らしく飾られた大ぶりのリボンは取り払われ、繊細なレースに付け替えられる。労働で荒れてしまった指は長めの袖で隠すが、肌の美しさは前面に押し出したいがためにぎりぎりまで肩を剥き出すデザインに変更だ。髪は複雑に編み込み結い上げ幾多もの真珠で飾り付ける。化粧は薄い紅と目の周りに少しだけ。睫も驚くほど長く、白粉の必要は全くなかった。
「なんだか竜の森へ帰したくなくなってしまうわね。」
更に美しく可憐に変身したファミアを、嫁だと言いふらしながら冬の社交界を満喫したい。そんな風に思うテレジアは実際にそうなった様を思い描く。こんな美しい娘は都中探したってここにいるただ一人だけだ。これがナウザーの嫁なのだと自慢したくてたまらなかった。生まれが何だと、そんなものを凌駕させるものがファミアにはある。
その時である。至福の空想にふけるテレジアを邪魔する輩が現れたのは。その不届き物は前触れもなく盗賊か何かの様に勢いよく扉を蹴り開け、女人だけが許される衣装合わせの空間に土足で入り込んできたのだ。
「ファミア無事かっ?!」
と、叫びながら。
無遠慮に扉を蹴り開け現れたナウザーの姿に、ファミアは安堵の息を吐き瞳を潤ませる。そんなファミアを前にナウザーは、目を点にして驚きのあまりに硬直してしまった。嫁が、父親によって攫われた嫁が目の前にいるのだが、別れた瞬間と違って美しく着飾り化粧までして、いつもの何倍も美しく佇んでいたのだ。竜の力を借り飛んだが、土地に慣れない竜をそのまま実家に着陸させるわけにはいかなかった。森の竜を安心して預けられる、竜騎士の竜たちが集まる場所である基地まで連れて行き、そこから馬を走らせやって来たのだ。遅くなってしまい不安にさせたと急ぎ駆けつけたが、探し求めたもののあまりの美しさにナウザーは言葉も動きも奪われ見惚れる。
「あらまぁ、淑女の着替えの場に押し入る輩がファルムント家にいるなんて。一体どこの誰かしら。生まれた瞬間より厳しく躾けた筈なのに、我が家の息子はいったいどうしてしまったというの。ねぇ、ナウザーさん?」
柔らかく微笑むテレジアの言葉にナウザーは瞬時に巨体を翻し、十年振りとなる母親に向き直った。
「随分お久しぶりなこと。だけど、貴方のおつむは空っぽなの? 三十も過ぎて身嗜みもまともに出来ないなんて、わたくしの教育が間違っていたのかしらねぇ。」
ほほほ、と笑うテレジアを前に、ナウザーは冷や汗をかきながら慌てて跪き手を取ると指先に唇を寄せる。
「ご無沙汰致しております母上、見苦しい姿をさらして大変申し訳ありません。」
「謝罪は結構。イーゼ。」
「はい奥様。」
部屋の隅に控えていた中年の使用人が呼ばれて前へ出る。
「この無精者を身綺麗にして頂戴。」
「母上これはっ!」
「お黙りなさいナウザー、山賊のような形のお前をファミアさんの隣に立たせる訳にはまいりません。最悪シアルに身代わりをさせますよ。イーゼ、頼みましたよ。」
「はい奥様、お任せくださいませ。」
託されたイーゼが廊下に向かって声をかけると、男の使用人が二人入ってきてナウザーを拘束する。
「あ、ちょっと待て。分かったから、歩くから離せ!」
「さぁファミアさん、続きをいたしましょうか。」
次は人付き合いの心得ですよと、悲鳴を上げるナウザーを遮断するかにテレジア自ら扉を閉めてにっこりと微笑んだ。