幼竜に悪気はない
里帰りの際に義姉から知りたくもなかった告白と謝罪を受けてから、時折ファミアは心を乱す時がある。離婚をしないまま出戻り、教会にお布施が払えないからという理由で再婚も出来ず実家に居付いた。居場所を確保するのに必死だったのは確かだが、その行動を好ましく思っていなかった人があんなにも近くに居たというのがショックだった。近いからこそ疎ましいと感じたのかもしれない。同じ年の義姉と上手くやっていきたい、邪魔にされたくないという思いが強かったのはファミアの事情だ。けれど小姑として兄嫁と上手くいっていたと感じていただけに、あの告白はとても衝撃だった。しかも義姉もファミアの前の夫であるグルニスを好ましく思っていたなんて。当時は娘の誰もがグルニスに恋をしていたが、今はどうなのだろうと、ファミアは自分の結婚と兄夫婦の結婚をつい比べてしまっていた。
あの村でどれだけの夫婦が想い合い結婚したのだろうか。娘らは結婚できる状態になった時、受け入れる準備のできた男に嫁ぐ。それがファミアの場合はグルニスだった。初恋の人で、グルニスもファミアに優しく同じ気持ちでいてくれるのだと疑いもしなかった十四の頃。グルニスはファミアにだけ特別なのではなく誰にでも優しかったのに、それを特別と錯覚していたのかもしれない。何も分かっていなかったのは自分が子供だったからなのか、それともグルニスがファミアの思うような人ではなかったからなのか。信じたグルニスの裏切りと、隠され続けた義姉の気持ち。愛する人を疑いたくはないが、立て続けだと流石に見る目がないのだろうかと不安に感じて夫に視線を向けてしまった。
「どうした?」
ナウザーが視線を感じて問い返すのは一度や二度ではない。けれどその度にファミアは何でもないと首を振った。何でもないわけがあるかとナウザーはついに腰を上げる。
「戻ってからなんか変だぞ。村で嫌なことでもあったか?」
優しく鈍感でもない彼はファミアの言葉を待っていたが、黙って何時までも待てるような繊細さを持ち合わせているわけでもない。いい加減話せという口調にファミアは俯きかけ、これではいけないとしっかり顔を上げた。
「わたし達は愛し合って結婚したわけじゃありません。」
「おい、急に何を言い出すんだ?」
慌てたのはナウザーである。思ってもいない妻からの言葉に何か仕出かしたかと記憶をたどるが全く思い出せない。終わったと思っていたマデリーンの事が尾を引いているのだろうか。女は繊細だ、きっと自分が何かしたのだと、けれど分からなくてナウザーは説明を求めた。
「わたしは人の気持ちを間違って受け止めてしまう時があるみたいで。あなたはいつもわたしを案じて優しくしてくれます。大切にしてくれます。だから愛されているのだと思っていたけど、本当にそれで正しいのかと不安になってしまって。」
愛されるためにここに来たのではない。けれど一緒に生活を始め夫婦になったことで心に起きた変化は大きい。愛してほしいと願い、独占したい心が芽生えた。
「んなの決まってんだろ、お前が大事でたまんねぇからだ。愛してるって言わなきゃ伝わらんか。この俺が女に愛してるっていうのか? 冗談だろ?」
「冗談―――」
途中自問自答になったナウザーに対し、ファミアはその言葉が自分に向けられたものだと勘違いして蒼白になる。
「ああ、いや、そうじゃなくてな。愛してるとか言わなくても伝わるだろ? 伝わるよな? 嫁なら感じ取ってくれ。頼むから!」
「わたしは竜じゃないから言葉にしないと分かりません。」
「愛してるよ、愛してる。これでいいか?!」
「どうして怒るの?」
「照れてるからに決まってんだろが。愛してるなんて言葉、こんな俺に似合う訳があるか!」
朝っぱらから何を言わされているのか。無精髭が大分生え揃ってきた大男は顔を真っ赤にし、それを見上げる妻は半泣きだ。大声で怒鳴られ、けれどその言葉は『愛している』なものだから、覗く者がおれば間違いなく砂糖を吐かれる。
何だ、俺の妻にいったい何が起こったんだと、ソウドから入れ知恵でもされたのかと物凄く疑う。遊びならいくらでも軽口が叩けるくせに、本気の相手だとこれ程いいにくいものだと思わなかったナウザーは、不安げに見上げてくるファミアに背中を丸めて真意を問うた。
「いったいどうしたってんだ?」
「あなたを失いたくないんです。」
「お前なぁ……俺はお前に逃げられたら地の果てまで追うぞ。」
「復讐のために?」
「そんな訳があるかっ!!」
怒声と共に外へと通じる扉が大きな音を立て開かれる。とんでもない質問を受け言い合いをしていたせいで、心を乱したナウザーはその気配を感じることができなかった。驚いた二人が同時に扉へと顔を向けると、大きな鱗だらけの頭が鎮座し、爬虫類を思わせる縦長の瞳孔の目がぎろりと二人に向いていた。胴体は入りきれず、代わりに隙間からは冷たい風が入り込んできている。
『ファミアをいじめるな』
「この場合いじめられてんのは俺だ!」
いったい何の悪戯だ。過去の行いが悪かった罰なのか。ファミアに出会えると分かっていたらやらなかったぞ、多分。
「大丈夫よパウズ、悪いのはわたしなの。」
『ファミア悪いのか』
「良くわからんが、お前だけが悪いんじゃないと思うぞ?」
『ナウザー、ファミア大事にしろ』
「分かってるし大事にしてるさ。」
『ならどうして怒鳴る』
「俺に愛してるなんてこっぱずかしい言葉をいえってのか?!」
冗談だろと、すっかり気心が知れてしまったパウズをナウザーは怒鳴りつけたが、ナウザーに慣れてしまったパウズも逃げださず、首をくるりと回すような仕草をしながらファミアに鼻先を向けた。
『俺愛してる。俺の巣にこい』
何故か愛の告白をしたパウズが首を伸ばしてファミアの袖を噛み引き寄せようとする。それをナウザーが反射的に腕を伸ばすと慌てて回避した。
「パウズ、お前にとってファミアは母親だろうが。巣に引き込むとは何事だ?」
ませ餓鬼めと、人の年齢で例えるなら十三歳程度の幼竜からファミアを引き離す。大きな体のせいで顔しか小屋に入れないパウズは、無理して侵入し小屋を破壊するようなことはしない。けれど不快そうに鼻を鳴らしてナウザーを睨んでいた。
『お前が大事にしないから怒ってる。交尾してるだろ。交尾した雌は命よりも大事にする。それしないお前にファミア任せない』
「パウズ、お前っ!」
ナウザーは声を詰まらせ、その後ろではファミアが絶句した。
『お前いつもいってた。手放せない。大事。まぐわいたい。ハウル、ナウザーファミアに溺れてるいうが、ファミア人間の雌だ。水ちがう。俺ファミア水に落とさない。ハウルと同じ大事にする。熟した無花果より大事に扱う。抱くと柔らかくて細くて壊してしまいそうなんだろ。俺優しく抱く』
ナウザーとパウズの抱くの意味は全く違う。人間に疎い幼い竜では人の心はきちんと理解できないが、日ごろナウザーが心に抱く隠せない事実は側にいるハウルに筒抜けだ。それは理解している。理解しているが、何故パウズにまで漏れているのかと羞恥で震えた。これ以上はだめだ、この幼い竜の口を封じねばと踏み出そうとしたナウザーの前に小さな体が滑り込む。
「パウズになんてっ……なんてことを教えてるんですか!」
「教えてねぇよ!」
口にはしていない、心で思ってしまうだけだ。真っ赤になって怒り心頭のファミアにナウザーも羞恥で顔を赤くし反論した。
『いってるぞ、白くて柔らかい肌が美味いって。俺ファミア喰わない、大丈夫』
表情などないはずの竜の顔が自信満々に、褒めてくれと言わんばかりに堂々と言い放つ。パウズの心情を受け取ったファミアは、幼い純粋な竜になんてことを言うんだと、ついに怒りが沸点に達した。
「もうしませんからっ!」
「えっ、おいファミアっ!?」
慌てて後を追ったが、寝室に飛び込んだファミアがナウザーの鼻先で扉を閉めてしまう。
「おいファミア、誤解だ。いや、誤解ってか、確かに思ってるが口にはしてないぞ!」
もうしませんって何だ? 本気かよと、常に心に思っている感情をパウズに暴露され、ナウザーは情けなく肩を落とした。
『怒られたな。なくなるから食うのはだめだ』
「パウズ……お前、俺に恨みでもあるのか?」
『恨み、ないぞ』
何を言っているんだと、きょとんとした目で見られてはもう項垂れる他ない。パウズに悪気はないのだ、ただナウザーの思いを拾ってしまっただけで。そして何故か良い具合にやって来たパウズに怒鳴り声を拾われ、ファミアを守ろうと意見してくれただけなのだ。分かっている、分かってはいるが―――男の情けない部分を曝け出されてちょっと立ち直れそうにない。もうしないって、勿論それだけが目的ではないがかなり落ち込んだ。
愛していると柄にもなく告白すればいいのだろうか。だが今ここでそんなことを言っても白々しいだけで少しも心がこもっていないと思われるのが関の山だ。こういう時はそうだな、相手の怒りが治まるのをまってから贈り物をするのが常なのだが―――かつてパウズが毬栗を持ってきたのを思い出し躊躇する。
ずいぶんとナウザーを警戒していたくせに、最近のパウズはファミアのお蔭ですっかり恐れを抱かなくなっていた。他の竜は滅多に小屋には近づかないのに、パウズはこうやってちょくちょく顔を見せるようになっている。謝罪し贈り物をする瞬間を目撃され過去を暴露されたらどうなるか。嫉妬してくれるのは嬉しいが、過去の女と同じに思っているとまたまた勘違いされるだろう。そうなれば帰る実家がないだけにパウズの巣に逃げられでもしたらそれこそ厄介だ。
『すごく怒ったな。俺に教えてはいけないこと、ナウザー教えたのか』
「だから教えてないだろ、お前が盗み聞いたんだろうが!」
『俺なにも盗んでない』
心外だと言いたげなパウズにナウザーは頭を抱えた。竜騎士の竜としての教育で人間の言葉を正しく理解させるのもナウザーの仕事だが、今はファミアに誤解を与えない為にも人の言葉と真意と真相を、軽々しく口にしてはならない秘密を、一刻も早く理解させたい。
「まぁいい。とにかくお前は森へ戻れ。」
『ファミアいじめない』
「ああ、いじめないから安心しろ。」
分かったと了承しかけたパウズだったが、急に驚いて頭を扉の枠へぶつけてしまい、その反動で頑丈な小屋が大きく揺れた。
「あ、おいパウズ?!」
ぎゃあぎゃあと悲鳴をあげながら一目散に退散していく。何事かと揺れる尻尾を追ったナウザーの視界に黒い影が映り込んだ。
飛行する竜がこちらを目指してやって来ている。物資配達でもないし、ソウドの竜とも違うようだ。迫る影がハウルよりも一回り小さな雄だと解ると、ナウザーは騎竜する人物の予想がついて一度小屋を振り返った。
「このタイミングでやって来るのかよ……」
ナウザーが見守る中、小屋の上空を旋回した竜は音もなく華麗に着地した。その背に鞍を付けずに乗るのは一人の竜騎士。中年期に差し掛かる彼は漆黒の外套も一般の竜騎士と異なる装飾を受け、高い地位にあることが一目瞭然だ。十年振りに目にするその人物は年を取ったものの覇気があり、一度竜騎士を引退したのだが、ナウザーが竜守りとなる際に現役復帰した彼の父親ランサムだ。今年で五十七になるのだがとてもそうは見えず若々しい。親子だが、ナウザーが顔中を覆い尽くす髭をたずさえていたなら兄弟に見えただろう。
高い位置から周囲を見回した男は最後にナウザーで視線を止める。睨みつけるような漆黒の目がしばらく向けられ、ナウザーも動かず真正面から受け止めていた。やがて男はナウザーに劣らぬ巨体を竜から落下させ、両足で地面へと着地するなり口を開く。
「嫁は何処だ?」