里帰り
瞼を閉じて眠る夫の頬にそっと触れると、のびかけの硬い髭がちくりと指先に刺激を与える。昨日までとはまるで違う触り心地は初めての経験だ。顔を覆い尽くす程に伸びきっていた髭は、ごわついているが痛くなどなかった。昨夜は綺麗さっぱり剃られつるりとした肌をさらしていたのに、一晩明けるとわずかに伸びた髭が硬さを増して肌を刺す。不思議だなと、泣きはらした目でファミアは眠る夫の顔に見惚れていた。
髭を剃ると確かに三十二歳の青年だ。四十くらいだと思い込んでいて悪かったなと思う一方、ファミアにとって夫の年齢など大して気にすることでもなかった。村でも初潮を迎えた娘はすぐに男に嫁ぐが、結婚相手の男は誰も彼も嫁ぐ娘よりも年上なので、夫婦間の年齢差に違和感を感じていないというのもある。前の夫はファミアよりも五歳年上で、兄と義姉の差は六歳。それからすれば十二歳の差は大きいが、髭を剃った昨夜のナウザーはもう少し若くも見えた。竜騎士時代はさぞかしもてたに違いないと考えると複雑な心境だ。ここは竜の住まう森でやって来る人間はごく限られた少数だが、何故かナウザーの本当の顔を女性……特に若い女性に見せたくないと思ってしまう。またマデリーンのような女性が現れないとも限らないのだし、彼女本人がもう一度やって来るかも知れない。
「元に戻るのにどのくらいかかるのかしら?」
ファミアはナウザーの見た目などどうでもよかった。端正な顔立ちのせいで女が寄ってきてやきもきするくらいなら、熊の様な髭に覆われて威圧感を振りまいている方がよほどいい。見慣れぬ夫の顔に指先で触れてひとしきり感触を楽しんだ後で、そっと頬に唇を押し当ててみる。
「痛い……」
ちくりと刺激を与えられるが、この刺激が癖になりそうだ。ファミアはナウザーが起きてしまう前に寝台を抜け出した。一時程して起き出したナウザーは鏡の前で硬い髭に触れ、剃るか伸ばすかとしばらく悩む。
それから数日、毎朝のようにファミアはナウザーの髭に触れた。ちくちくした感覚が更に凶器と化しファミアの肌を刺してもその頬に唇を落とす。やがて伸びた髭が触り心地が良くなるとファミアは顔をほころばせ、ふふっと小さく笑った。そしていつものように陽が昇る前には寝台を抜け、夫の為に暖かな部屋と朝食の準備にかかる。寝室の扉が閉まるとナウザーは閉じていた瞼を持ち上げた。
毎朝繰り返される妻の行動にナウザーが気付かないはずがない。だが黙って知らぬふりを貫いたのは妻からの『ほっぺにキス』だけが目的ではなかった。
この朝ナウザーはようやく確信を得る。ファミアは髭が好きなのだと。村の男たちは髭だらけのむさい男ばかりだったのだろうか。もしかしたら初恋の前の夫が髭を生やしていたのかもしれないと考えれば複雑な心境になるが、きっとそれだけではないと思いたかった。マデリーンの事で髭を剃ったのではないのはちゃんと理解してもらっている筈なので、そこは心配する必要はないだろう。それに今朝は伸びた髭に触れ満足そうに笑っていたのだ。髭好きだとしたらそれこそずぼらな自分にはもってこいの嫁だ。痛いと口にされたことであの朝は悩んだが、刃を当てずにいてよかったとほっと胸を撫で下ろす。あの日以後、毎日綺麗に髭を剃っていたらきっとファミアはいらぬ誤解をし続けて落ち込んだだろう。
「器量良しで飯は美味い。片付けも得意でよく働くし、気が利くうえに竜にも好かれる。無精に文句を言うどころか好ましく思ってくれるなんざ―――でき過ぎじゃねぇか?」
竜守りという立場も踏まえるナウザーにとってこれほど好都合な嫁が他にいるだろうか。ファミアが婆に連れて来られたのは偶然ではなく運命だ。そう思わずにいられなかった。
穏やかに流れる時間の中で、ファミアはひとつの心配を抱えていた。優しい夫から与えられる豊かな生活に甘んじるせいで村への心配が余計に募る。行商をやめる婆の言い分にファミアはとやかく言える立場にないが、次の秋には婆が村へ来ない事だけでも伝えておきたい。そう考えたファミアは筆を執った。心配してくれる兄への報告も兼ね手紙をしたためたのだ。貧しい村の冬は雪に閉ざされ労働が制限される。だから村の子供らは冬の間親に字を習う習慣がありファミアも真面目に勉強したおかげで字が書けた。貧困層では珍しいことで、手紙を出したいと相談を受けたナウザーも正直驚いていた。
「まぁいいが、届くのかよ?」
手紙を出すこと自体に反対はしないが、パシェド村の置かれた位置を考えるとナウザーの心配も最もだ。
「届かないとも言い切れませんので。」
村に伝えが届くのは行商をしてくれる婆がいたからだ。手紙の配達人もパシェド村へはやってこない。特に雪に閉ざされた冬に辺鄙な地にある村を目指すのは命の危険も伴った。それでも春になり夏になりとすれば、旅の人間がいるかもしれないし行商ももしかしたらあるかもしれない。現にグルニスと逃げた未亡人ももとは村の外からやって来たのだ。わずかな望みをかけるファミアを前にナウザーはゆっくりと息を吐き出す。
「実はな、もともとパシェド村へは行くつもりなんだ。ソウドから言われたからじゃないが、義兄上への挨拶もしとかないとだしな。」
「あにうえ……」
兄を示す改まった物言いにファミアは瞳を瞬かせた。
「義兄さんか? まぁ義兄上でもいいだろ。そんな訳だからせっかく書いたがお前が直接話せばいいんじゃないか。」
「わたしも一緒に連れて行ってくれるんですか?」
「お前の故郷に俺一人で行ってどうする。」
「でも、とても遠くて旅費もかかりますよ?」
時間と金銭の心配をするファミアをナウザーは軽く笑い飛ばした。
「俺は竜守りだぞ、竜で行くに決まってんだろ。」
「竜に―――」
ファミアは手が届きそうなほど近くを低空飛行した竜の姿を思い出した。巨体を空に浮かせるだけあって大きな翼だが、鳥のような羽毛はない。だがあれだけの大きさが空を舞うのに、声を出されなければ存在を感じなかった。あの神聖な竜の背に乗るのかと一瞬固まる。
「片腕がなくてもお前を支えて飛ぶのに問題はない。」
「あ、ええ、そうですよね。さすがに一人で背中に乗るのは不安です。」
腕がないからとか思いも至らぬ未知の世界だ。そして現実にその日が来るとファミアは緊張で体を固くする。前もってナウザーがソウドに頼んでくれていた飛行用の外套は竜の色に合わせてか黒で分厚く、内側には毛皮がしっかりと縫い付けられていた。本来は竜騎士が使用するそれは男用しかないが、ソウドの機転でファミアの体に合わせて小さめに作られ、女性らしい造形にしつらえられていた。外套なので小さくなければ大きさなどどうでもいいと考えているナウザーに反し、ファミアの体にぴったりの外套を持参したソウドはご満悦だ。同じ素材の帽子と膝下までのブーツもある。
「よくここまでぴったりに作れたな。」
細身なファミアに対してまるで採寸したようにぴったりな外套に、ソウドは楽しそうに口角を上げた。
「初めて会った時に賊と勘違いして色々触ったからな。」
自慢げに答えるソウドにナウザーは殴り掛かるが拳は空を舞う。執拗に追うナウザーに逃げるソウド。ファミアは緊張しながらも二人は仲がいいと生ぬるい視線を送りながら、じゃれ合いが終わるのを黙って待った。ソウドの竜が縦長の瞳孔を向けじっとファミアを見ていたが、ソウドに見つからないようにそっと視線を重ねて『ごめんなさい』と口だけを動かして非礼を詫びる。すると竜はファミアから興味を失ったかに顔を森へと向けた。
外套が届いたら出発するというナウザーの言葉通り、ソウドが配達してくれたその足で村に向かってくれることになる。ファミアはソウドに礼を言い、ナウザーは竜を呼ぶために笛を使った。金属製のそれは人では拾えない音を出しているらしく、どのような音色かはファミアにはわからない。
さほど待つことなく森から顔をのぞかせたのは巨大な雌の竜だ。ハウルではない。この竜は近いうちに竜騎士の竜として力を貸してくれる予定になっているらしく、今は人をのせる訓練中なのだという。その訓練を兼ねての飛行にもなるのだが、その竜の後ろからひょこひょこと不器用に歩いてくる小ぶりの竜にファミアの目が輝いた。
パウズと、思わず声をあげそうになって口元を隠す。周囲を見渡せばソウドには気付かれていないようだったが、彼の竜からは一瞥され睨まれたような気がした。もしかしたら森へ里帰りした際にファミアの事情を他の竜から聞いているのかもしれない。きっとそうだと感じてファミアは身を小さくする。
ファミアはソウドに気付かれていないと思っているが、ナウザーは違った。竜に対して反応が薄く、不審ともとられかねないファミアをソウドはまるで気に留めない。恐らくソウドは何かを感じているのだろうが、ナウザーがあえて口にしない事柄をなんとなく察しているのだろう。きっと逆の立場ならナウザーもそうする。何時かソウドには話す時が来ると覚悟を決めながら騎竜用の鞍を取り付ける。鞍がなくとも竜には乗れるが、今回はファミアを同乗させての飛行となるため、流石に片腕では心許なかった。
竜が首を下げるとナウザーはファミアを抱き寄せ、片足を竜の首にかける。すると竜は首を起こし、ナウザーは片足だけで均衡を保ちながらするりと竜の背に滑り降りた。鞍にファミアを座らせ固定する。ファミアは視界が小屋の屋根の高さであることに驚き身を竦ませ皮のベルトにつかまった。
「落ちる心配はないが念のためにも持っておけ。」
「絶対に離しません。」
こくこくと首振り人形の様に頷くファミアに、ナウザーは安心させるように斜め後ろに座ると腕を伸ばして同じベルトを持つ。
「怖いなら俺と騎竜するか?」
下から笑顔のソウドが飛び込んで来いとでも言うかに両腕を開いてファミアを呼んだ。片腕で人を乗せて飛ぶのは負担になるだろうかとナウザーを案じ、ファミアはどうしようかと思案する。
「人の嫁に手を出すならクレアに言いつけるぞ!」
「おお、それは勘弁!」
わざとらしく己を抱きしめ震えて見せるソウドにファミアは小さな笑いを漏らす。少しばかり緊張がゆるんだ。
クレアというのはソウドの妻だ。続けざまに四人の娘を産んだが、昨年ようやく念願の男の子を出産し安堵しているのだという。竜騎士の妻として男の子を羨望されるだけではなく義務の様になっており、それを聞いたファミアはちゃんと子を産めるだろうかと不安になった。
栄養不足で育ったせいか、無事に初潮は迎えたが月の物は来ないときの方が多い。結婚してからは栄養のあるものを沢山食べさせてもらっているので、女性としての機能もそのうち正常になるだろうが、やはり子を産めるだろうかという不安は持っていた。ナウザーは気付いていても詮索しないでそっとしてくれている。竜の住まう森には急き立てる人間もおらず有難い環境だが、甘えてばかりはいられないと感じていた。
二人の騎竜を見届けたソウドが自分の竜に乗る。先にナウザーが「行け」と声をかけると竜が答えるように羽を広げ、数度羽ばたかせるだけで巨体が宙に浮いた。地上ではぎゃあぎゃあとパウズが吠えている。
「すごい……!」
ファミアの呟きを拾ったナウザーは満足そうに一つ頷く。自分も初めて騎竜したときは感動したものだ。竜は上空まで一気に上がってしまうと後は羽を広げたまま飛行し、ほとんど羽ばたかせることはない。まるで鷹のような飛び方だと思いながらファミアは皮のベルトごと竜にしがみ付いていた。
飛び立ってしばらくは恐怖でしがみ付いているばかりだったが、余裕が出てくるとまず最初に肌を刺す寒さを顔に感じ、分厚い外套と帽子の意味を理解した。斜め後方を飛ぶ竜に目をやればソウドが手を振ったので、ファミアも恐々と片方の腕を外して振り返す。安定した速度と揺れのない飛行を続ける竜は想像以上に乗り心地が良く、眼下に目を落とせば冬色の大地と密集した集落が目に入った。
「パシェド村なら一時もかからんぞ。景色を楽しんでおけ!」
ごうごうと鼓膜を突く風の音に負けぬよう、耳元でナウザーが叫ぶ。徒歩で一月かかったのに竜が飛べば本当に短い時間でついてしまうのだ。ファミアは声に出さずに深く頷いたが、あまり下ばかり見ていると吸い込まれそうな感覚に陥るので正面の黒い頭を見続けた。あまり凝視し過ぎたのか、視線を感じて竜が一度だけ振り向いたが、ごめんと謝るとすぐに頭を元に戻す。やはりこの竜もファミアに語り掛けてくることはなかった。
順調に飛行を続ける竜にしがみ付いていると、やがて景色が変わり始める。山に積もる白い雪。冬を迎えた村は雪に閉ざされるが、すべての世界がそうではないのだと知る。ナウザーの指示に従い竜が降下を始めれば、ようやくファミアにもそこが何処なのか分かるようになった。
真っ白な雪に閉ざされた村、ファミアの生まれ育った故郷が眼下に迫っていた。