業突く婆
落葉しても銀色に染まらぬ世界に、竜の住まう森には雪が降らないのだとファミアは悟る。雪で始まらない冬は初めてだ。寂しいようでいて、けれど竜と夫がいる森での生活に早々に順応しながらも、畑を耕し森に入って食料を探さずとも得られる糧に、ファミアは村との生活の違いを感じて心が苦しくなった。自分だけがこんなに恵まれ贅沢をしてよいのかと。
ファミアが嫁いだお蔭でこの冬は村も潤った。多くの村人が越せないかもしれない冬を前に子供を売ろうとしていたし、ファミアも我が身を売りに出すつもりでいたのだ。けれど奇跡は何度も起きるものではない。次の冬はどうなるだろうかと、飢える心配のない立場におかれたせいで、残してきた兄家族や村人を裏切っているのではという感覚に陥ってしまう。ナウザーは少ないといって心配するが、お腹いっぱい食べたあとには必ず甥と姪を思い出した。義姉は朝から夜まで男手以上に働くファミアを気遣い、いつも多めにスープをよそってくれていた。申し訳なくてお腹を空かせている甥と姪に分け与えるのが習慣になっていたが、ここではそれができない。ファミアがいなくなった分、分けてもらえる食事の量は増えるだろうが、同時に貴重な働き手を一人失っているのだ。子供たちもそろそろ鍬を持たされる年齢になるが、二人合わせても大人一人分になんて到底足りない。
ナウザーを送り出し洗濯や片付けを済ませてしまうと早々にすることもなくなり、ファミアは外に出てどんよりとした冬空ばかりを眺めている時間が増えた。時間と食材はあるので料理本で手の込んだ新しい料理に挑戦する時間は沢山あるが、それも一日かかってしまうわけではない。美味しいご飯を作って夫が喜んで食べてくれる。毎日洗濯された清潔な衣類に片付いた部屋。ナウザーは感謝の言葉をくれ、飢えることもなくファミアは幸せだった。楽しいことも沢山あったはずなのに、ここでの幸せが村での過酷な生活ばかりを思い出させ、皆に申し訳ないと気分を沈ませる。
ファミアが竜守りの妻となって一ヶ月ほどが過ぎた昼下がり、ファミアの嫁入りを世話した婆が小屋を訪ねた。婆はファミアが妻となり森に居付いている様子をみて、皺だらけの顔を更にくしゃくしゃにする。
「ようやくだね。これであたしも心置きなく隠居できるわい。」
「隠居?」
ファミアはその言葉に唖然とした。ファミアが物心ついたときにはすでに高齢だった行商の婆だ、既に八十は超えているのかもしれない。子供を買ったり、がめつくて薬や布などの日用品はびた一文負けてくれない婆だったが、それでも村にとっては荷を運んでくれる貴重な存在だった。貧しい村であるが故に大した品物も売れないため、婆以外の行商は何十年とやってきていない。たとえ年に一度しか来ないからといっても、婆が行商をやめてしまったら村はどうなるのか。街までの往復や路銀を考えると不安しかなくなってしまう。それに冬を前に行商を待ちわびている村に婆がやってこなかった時を考えると更に不安が増した。姪の様に薬が必要な人間は必ず出るものだ。不便な生活には慣れているし薬草もあるが、やはり行商の婆は必要な存在だった。
「竜守りに嫁を世話し終えたら隠居するって決めてたんだい。まさか十年かかるとは思わなかったけどね、ようやくだよ。」
「そんなっ、婆が来なくなったら村はどうなるの?!」
「あたしゃそこまで面倒見切れないよ。見ての通りの年寄りだ、酷使しないどくれ。」
ひひひと笑う婆にファミアは言葉を無くす。確かに高齢の婆がいつまでも行商を続けられるわけがない。ただでさえ辺鄙な山間の村、驢馬に荷台を引かせても往復するだけで年寄りには堪えるだろう。大して稼げもしない村によくぞこれまで尽くしてくれたと、逆に感謝の言葉を述べてもいいくらいなのだ。酷使しないでくれと、腰の大きく曲がった婆にいわれると返す言葉がない。
「村のことならあんたの夫にでも頼んでみな。竜守りはあんたが想像できない位の大金持ちさ。」
婆が視線を走らせつられてファミアが追えば、驚いたことにナウザーがこちらに向かって歩いてきていた。早すぎる帰りに驚いていると、側に寄ったナウザーがファミアの耳に顔を寄せて囁く。
「パウズに帰れって急き立てられたんでな。」
こういう訳だったのかと、大きな熊男が皺だらけで腰の曲がった小さな婆を見下ろす。ファミアの顔色が悪いのは敢えて気付かない振りをした。
「不用品でも売り付けに来たか?」
「どうしても買うってんなら押し付けるがね。今日は娘が逃げていないか様子見に来ただけだよ。」
いい娘だろうと笑いながら促される前に婆自ら小屋へと入って行くと、ナウザーはファミアを気遣い肩に手を置いた。
「大丈夫か?」
ファミアは薄い空色の瞳で気遣ってくれるナウザーを見上げる。言葉を探したが、何をどういうべきか分からず、何でもないと首を振って婆の後を追い小屋へと入った。大金持ちだという婆の言葉が脳裏に浮かぶが首を振って否定する。ファミアの嫁入りに際し支払われた結納金の額と品物。大金持ちというものがどれほどなのか想像できないが、あれだけのものを用意しくれたナウザーに、村のことまでを頼るのはいけないと感じたのだ。それにお金があればいいという話でもない。婆の代わりに行商してくれるような人を紹介してもらうにしても、それに見合う収入を得られるかといえば否なのだ。ナウザーに迷惑はかけられないとファミアは口を閉ざし、勘の良いナウザーは心を閉ざされたと瞬時に察した。
「で、成功報酬でもふんだくろうって魂胆か?」
椅子に座ってファミアの入れたお茶をすする婆にナウザーは話を促した。これまで娘がいなくなっても様子を見に来たためしはない。勝手に出て行った娘たちがその後どうなったかも知らないが、婆が自ら動くとなると金以外にはないとナウザーは踏んでいる。
「それはあんたじゃなくて御館様から頂けるようになってるよ。今まで稼いだ分と合わせて死ぬまで豪遊するつもりさ。子供や孫たちにはびた一文残さないよ。」
御館様と呼ばれるのはナウザーの父親だ。竜騎士の家系に生まれた人間として血を繋ぐ義務がある。その義務を遂行するために、竜守りとなり森に籠ってしまったナウザーに嫁を宛がっていたのはその父で、婆への資金も彼が支払っていた。ナウザーは義務だと分かっていたが、送られた娘らを自ら引き留めようと努力したことはない。ただ今回ファミアが出て行こうとしたら止めたかもしれないが、ナウザー自身は妻となった女性の重圧を考え自ら積極的に嫁探しは行ってこなかった。しかしファミアの為に自分の金でなく父親の金が使われているとなるとどうも居心地が悪い。森で暮らす限り金銭は必要でないので実家に預けているが、そこから出してくれればよかったのにと、今更ながら誇りが疼き心中で都合よく悪態をついていた。
「じゃあ本当は何しに来たんだ。」
「ちゃんと嫁になれたか確認しに来たのさ。逃げないってのは分かっていたけどね、あんたが拒絶しない確信は無かったから一応ね。あんたらには本当に稼がせてもらったよ。」
紹介料としていったいいくら吹っ掛けたのか。ちっ、と舌打ちしたナウザーに婆はひひひと笑いながら、離れた場所に立つファミアへ視線を向ける。
「御館様ってのは竜守りの親父様だよ。いづれここにもやってくるだろうね。」
「お義父さん?」
「来んのかよ!」
竜は人を嫌うため森へ勝手に入ることは禁じられているが、竜を操る竜騎士らは別だ。嫁を得た息子の様子でも拝みに来るのかと、長く便りも絶っている父親がやってくる気配にナウザーは早くも逃げ腰になる。三人男子を儲けながら一人だけしか竜騎士になれなかったのに、そのナウザーも自ら竜に腕を差し出し竜騎士としての役目を放棄した。同じ竜騎士である父なら理解できる行動だが、誉ある職を自ら放棄したという事実を勝手な輩は汚点とみなす。父には肩身の狭い思いをさせたという後ろめたさがナウザーにはあるのだ。
「御館様も若い娘が好きだからね。せいぜい盗られないよう気をつけな。」
「婆ぁ……」
「さて、用も済んだしあたしゃ日が暮れる前に帰るよ。」
婆はほんの少し休んだだけで椅子をたつ。これから半日かけて来た時と同じ距離を歩き森を出るのだ。この年齢でこれだけ元気なら隠居はまだ先でよいようなものだが、いつぽっくり逝くかしれないので貯めた金は自分ですべて使い切りたいらしい。何処までも業突張りな婆だ。
ナウザーは不安そうなファミアに婆を送ると言い残して腰の曲がった背を追った。一本だけの細い獣道を外れなければ危険はない道程だが、後を追ってきたナウザーに婆は下品な笑いを贈る。
「内緒の話でもあるのかい?」
「か弱い女を守るのも仕事の内だ。」
「けっ、笑えない冗談はおよし。今更繕ったって遅いんだよ。」
「パシェド村に拘ったのはなんでだ?」
何もない貧しい村。大した稼ぎにもならないだろうに、毎年秋に訪問すると聞いてずっと違和感を感じていたのだ。
「あの村には何かあるんだろう。あんたがそれを放り出して隠居ってのが解せねぇんだよ。」
ファミアの持つ秘密と関わりがあるのかもしれない。深読みするナウザーに婆は相変わらずの笑みを向け続ける。
「隠居は十年も前に予定してたさ。あの娘がわがまま言って逃げ出さなきゃ、今頃いい男に囲まれて悠々自適な生活をしていただろうねぇ。」
ひひひと笑う胡散臭い婆をナウザーは高い位置から見下ろす。ナウザーが子供の頃からしわくちゃの婆だった彼女は何時までたっても掴み難い。
「何か目をつけてたもんがあるんだろ。他の奴に盗られていいのか?」
「確かに目を付けたものはあったがね、あたしにゃ手をだせん代物さ。その代りになる宝があったからね、たぁ~んと稼がせてもらったよ。」
「餓鬼の事か?」
薬や食料、日用品ではこの婆が満足できる稼ぎになるとは到底思えない。だとしたら冬を越す為に売られる子供を転売して得た利益くらいしか思いつかないが、ファミアならともかく、子供程度では娼館に売り払うにしても婆が満足するほどの儲けになるとは到底思えなかった。
ナウザーの考えを読んだ婆は楽しそうに皺だらけの顔を緩める。
「辺境で貧しい村だ、誰も行かないがね。そのお蔭でこちとら独占販売じゃったよ。」
「独占販売?」
「あの村の人間は細くてちっこくて、男も女も綺麗だから高値で売れるんだ。あんたらと違って繊細な形に加えて従順な性格だしね。娼婦や男娼として高値で売れるし、店に出ても手がつく前に買われてくものばっかりだよ。世話した中には王の愛妾になった娘もいたさね。」
親に売られた子供たちだが、生活面では不幸にはなってないよと婆は高らかに笑う。形は違えどファミアも同じだ。生活の為に身売り同然に竜守りの妻となった。娼婦として売られていたとしてもあれだけの器量だ、手がつく前に身請けされただろう。婆がパシェド村で得た子供たちは皆が皆同じような人生を歩んでいる。勿論多くの客を取る娼婦や男娼として娼館に残ったものも大勢いるが、飢えや寒さに震える生活に戻ることはなかった。
何が不幸で幸せか、それは当人たちにしか分からない。王の愛妾になったという娘が贅沢を好んで幸せになれたのか、与えられた人生の流れに沿ってただ生きただけなのか。従順な性格なのはファミアを見ていればわかるが、本当に誰も彼もがそうなのかとナウザーは顔を顰めた。閉鎖的で外界との接触が少ないからこそ起きている現象なのだろうが、村の人間は本当に綺麗で繊細なのだろうか。それなら何故ファミアは夫に逃げられたのだろう。
そこへ婆が追い打ちをかける。
「ああ一つだけ心残りがあるとしたら、あの娘の夫になった男だよ。村の中では裕福な方でね、ついに売られることはなかったけど欲しかったねぇ。きっと最高額で売れただろうよ。」
心底悔しそうに話す婆を前にナウザーは、ファミアよりも綺麗な男を想像して眉を寄せる。どうしてもファミア以上の姿が思い浮かばない。同時に熊の様な形の己を振り返り、ソウドになじられた言葉を思い出して落ち込んだ。
それから小屋に戻ったナウザーは、黙々と家事をこなすファミアの背を黙ってみていた。縁あって夫婦となったが、ファミアがそれを望んだわけではない。仕方なく来たのだと、容姿に関する劣等感がナウザーに沸き起こる。見た目なんて気にする人間ではなかったのに、婆が悔しそうにいった言葉が意外にも強く心に残ってしまったようだ。
前の夫は美しかったのかと、馬鹿な確認をしたくてたまらない。聞いてどうなるわけではないが、熊の様な男が夫となってファミアがどう思っているのか気になった。がっかりしたのではないだろうか。前の夫は初恋の人だという。元夫は愛されたのか。自分はどうだと考えて、やがてこれではいけないとナウザーは唸った。
ナウザーの唸り声にファミアの肩がびくりと跳ねる。どうしたんだと振り返った瞳が寂しそうで、ナウザーはようやくファミアが落ち込んでいるのだというのを思い出した。
「近いうちにパシェド村へ行こう。義兄上殿にも挨拶しないといけないしな。」
「お義父さんにも?」
「……ああ、まぁ。そうだな。」
自分の父親のことは言葉を濁す。腕をなくして以来疎遠になっていたが、嫁を得たのを機に呼ばなくてもやってくるのだろう。それよりも今はファミアの憂いを解いてやる方が先だ。
婆がパシェド村に拘った理由は人身売買だ。普通の売買で婆が満足できるとは思えないが、村の子供らでかなり稼いだらしい。婆の言葉が本当なら村の人間は当たりばかりだったのだろう。けれどそれもある宝の代わりになったに過ぎない。その宝は今も村にあるのだろうか。
人の道に外れる代物ではどうしようもないが、今はそれが村にとっての希望だと、ナウザーは元気のないファミアを追及することなくただ片腕で引き寄せた。