二度目の結婚
四方を山々に囲まれた小さな村、貧しいながらも穏やかに時間が流れる辺境で一人の少女が空を見上げた。
青く澄んだ空に幾多もの黒い影。大きく羽を広げ空中を自在に飛行するのは竜の群だ。数年に及ぶ隣国との戦を終え、帰還する竜騎士を背に乗せる様は遠目にも雄大で美しいと少女は感じた。
空を見上げ薄く開かれた少女の口に小さな滴が舞い落ちる。天気雨かと大空を見渡すが、澄んだ青と黒い竜の姿が浮かぶだけ。差し出した掌にも雨粒が落ちる気配はなく、少女は小さな体に似つかわしくない大きな鍬を振り上げ仕事に戻った。
少女が初めて大空を飛ぶ竜を目撃してより数年、少女は初潮を迎え、穏やかな気性の青年との結婚が決まる。貧しい村ゆえに村の娘達は子供が産めるようになるとすぐに結婚させられるのだが、少女の相手は村の女なら誰もが憧れる優しく美しい青年で、同じく美しい顔立ちをした少女とはお似合いだと村人たちは二人を祝福した。
少女は幸せだった。けれどその幸せもほんのわずかな時間で終わりを告げる。少女と青年の結婚式が村総出で行われた初夜の晩、青年は明け方になっても少女の待つ寝室を訪れなかった。翌朝になり青年の代わりに少女を訪問したのは血相を変えた青年の両親で、青年の不在を知ると義父は激怒し義母は泣き崩れる。泣き崩れた義母は青年が未亡人の女に騙され駆け落ちしたと少女に教えてくれた。少女は悲嘆にくれる義母と、青年をそそのかした未亡人に怒りを露わにする義父を前にどうしていいのか分からず、ただ黙って二人の様子を窺っていることしかできなかった。
やがて時が過ぎ、少女は二十の大人の女性へと成長を遂げる。もともと美しかった容姿はさらに人目を引くようになり、幼かった肉体は痩せてはいるが丸みを帯びた。未婚の男らはさらに美しく成長した娘を欲しがったが誰も娘には手を出せなかった。何故なら娘には夫がいたからだ。結婚式の夜に女と駆け落ちしてしまった夫を娘は六年たった今も待ち続けていたのである。
娘―――ファミアにとって夫となった青年グルニスは初恋の人だった。村の娘が彼に憧れるように、うんと小さなころよりファミアはグルニスが大好きだったのだ。誰にでも優しいグルニス。彼との結婚が決まったと両親から聞かされた時は自分が物語の主人公にでもなったような気がしていた。村には教会がないので、結婚が決まった秋には年に一度やってくる行商人に婚姻証明を預け、二人は式の時点ですでに書類上の夫婦になって半年の時間が過ぎていた。
けれど夫となった青年は未亡人と駆け落ちしてしまった。新婚初夜というファミアにとっては未知の世界で怖くもあったが期待もあった。けれどグルニスはその夜ファミアでなく、他の女の手を取り村を去ってしまったのだ。
夫を失ったファミアはその二年後、夫の生死は確認できずとも白い結婚を理由に離婚することが可能だった。けれどファミアはそうしなかった。正確にいえばできなかったのだ。その二年の間に村はさらに貧しくなり、離婚に必要な教会へのお布施も、教会のある街までの旅費も工面できなくなってしまったから。ファミアの美しさに惹かれ妻にと望む村の男たちにもその金を用意する余裕はなかった。それほどファミアが住まう辺境は貧しく、今を生きるのに精いっぱいだったのである。
夫に逃げられて数日後ファミアは実家に戻った。それからしばらくして両親は病で立て続けに亡くなり、六歳年上の兄はファミアと同じ歳の妻を迎え、ファミアには甥と姪ができた。兄と義姉、ファミアと三人で力を合わせこれまでやってきたが、山間の村は長雨に見舞われ、今年は冬が過ごせるか過ごせないかという窮地に立たされている。こういう事は過去に幾度とあったので家族で力を合わせて生き延びてきた。けれど収穫を終えた日の夕方、ファミアは義姉からついに恐れていた話を持ち出される。
「行商が来たら一緒に行くって、ファミアからアトスに話してくれないかしら?」
年に一度だけ、冬を前に辺境の村へ行商がやってくる。物を売る目的もあるが、行商が収穫後に狙いをつけてやってくるのは、冬を越すために必要なものを子供を売って得る親がいるからだ。そして子供ではない大人のファミアに義姉がそれを頼んでいる。つまりは娼婦として売られてくれと言っているに等しい。
義姉の願いをファミアは突っぱねることができなかった。それは彼女がこれまでファミアにとって優しい義姉でいてくれたからだし、今年こそは頼まれるのではないかという予感もあったからだ。二歳になる姪が病気で、行商が持ってくる薬がどうしても必要だったのもある。グルニスと離婚していないファミアでは他所に嫁ぐことはできないので口減らしにならないが、娼婦として働くことはできるのだ。体を売って稼げれば実家に金を送ることも可能だった。
義姉に頼まれた通り、夕食を終えたファミアが暗い室内で兄のアトスに話しをすると、アトスは激高し、側にいた義姉を殴りつけた。
「妹を唆しやがって!」
「やめて兄さん、わたしが自分で決めたの。それにライズのことだってあるのよ!」
ファミアは馬乗りになって義姉を殴りつける兄を必死で止め、このままでは冬を越せない現実と姪の病を突きつけ、一晩中話し合いようやく渋々ながらも兄を納得させた。殴られた義姉の顔は腫れて話をするのも大変そうだったが、義姉はひたすらファミアに詫びつつ感謝していた。
数日後、やってきた行商の婆はファミア達が話をするより先に粗末な家を訪ねてきた。そうしてファミアたちが見たこともない額の金銭と、荷台いっぱいに積んだ食料や布やらをファミアの兄に渡して、ファミアをある男の嫁にやりたいのだとの話をしてきたのだ。ファミアの離婚に必要な手続きも婆がやるし、金も婆があずかっている手間賃から出すからと驚くような話をされる。義姉はもちろん、兄も娼婦にしてしまうくらいなら金持ちの男に嫁がせる方が幸せに違いないと諸手を上げて喜んだが、その相手が竜守りをしているのだと聞くとアトスは喜びの手をおさめる。だが娼婦にするよりはましと、結局ファミアは行商の婆に預けられることになった。
空になった荷台に乗せられ、生まれて初めて村を出る。手にした荷物は粗末な着替えの服が一枚だけだったが、必要なものは道中揃えると婆は先を急いだ。
「竜守りって、何をしている人なの?」
兄は知っているようだったが、ファミアは初めて耳にする言葉だった。先を急ぐ婆のせいで別れも碌にできなかったが、どの道そうなる運命だったのだからとファミアはあきらめている。
「国が誇る竜騎士の存在は知ってるかい?」
「ええ、一度だけ空を飛んでいるのを見たことがあるわ。」
青い空に浮かんだ黒い影。竜に乗る騎士はただの騎士ではない、神の使いとも語られる竜に認められた人たちだ。少年なら一度は憧れるであろう夢の職業。少女の頃の記憶がファミアに蘇る。
「その竜を手なずけて飼いならすのが竜守りの仕事さ。竜は人嫌いでね、竜守りは深い森に誰の訪れも許さずひっそりと住んで竜と対話を繰り返している。その男の妻になるんだ、普通の娘にゃ務まらんね。ワシがあの竜守りに女を世話するのはあんたで四人目なんだが、前の三人は七日ももたずに逃げ出したよ。」
七日ももたなかったと聞いてさすがのファミアも耳を疑った。ファミアも人のことは言えない、逃げられた方だが、それにしても我慢が足りなすぎるのではないだろうか。もしかしたら竜守りの妻というのはファミアが想像するよりもはるかにきつく辛いのかもしれない。
「一番最初の娘は森の深さに恐れをなして、こんな場所には住めないと男に会う前に逃げ出したかね。裕福な娘はいかん。だからワシは貧しいあんたに目を付けたのさ。あの村も言ってしまえば竜が住む森と同じようなもんさ。人恋しささえ我慢すれば上手くやれるよ。」
人恋しさならきっと何とかなるだろう。もともと人の少ない閉鎖的で狭い村で生まれ育った。気になるとしたら相手の男の事だろか。金で買われたようなものだから相手に文句をつけるつもりはないが、竜を相手に一人森に住まう男とはいったいどういう人なのだろう。いい人であったならと望みを抱く。
「あの……もしわたしが逃げ出したら?」
「結納金やら品やらは当然全て回収させてもらうよ。こちとて生活があるんだ、容赦はしない。」
「わたし逃げないわ。」
「ひひひ、まぁ村の暮らしよりはなんぼかましじゃろうて。」
竜守りの住まう森までは五つの山を越え、到着までに一月の時間を要した。帰りたいからと逃げ出してもちょっとやそっとでは戻れる距離ではないし、婆に渡された金銭はすべて実家においてきてしまっているので旅費もない。行商の婆は途中街の教会に寄ってファミアとグルニスの離婚が成立し、同時にナウザーという男との婚姻の書類も提出された。相手の顔どころか名前すら知らずにいた自分自身にファミアは驚いたが、十四で結婚し初恋の相手でもある夫に裏切られ、生活に追われる日々を過ごし、ようやく得た次なる嫁ぎ先は兄たちの生活の為に売られるようにしてとなると、さすがに夢も希望も抱いていなかったのだとようやく気付く。婆からもらった結納金や品物はすでに手が付けられているだろう。もう帰る場所はないと、ファミアは己の立場をしっかりと理解し、婆について広大な森へ足を踏み入れた。
森は本当に深かった。荷馬車は進めず獣道を何処まで行っても太く背の高い木々が生い茂り辺りを暗く陰鬱にしている。村より南下したので冬を前にしても寒さはほとんど感じなかったが、どことなくおどろおどろしい雰囲気にファミアの肌は粟立った。
「竜の住まう森だ。賊は出ないし、竜守りの縄張りには危険な獣も入り込まない。そうびくびくしなさんなって。」
「獣が入り込まないって、竜守りは魔法でも使えるの?」
「竜を扱う者には竜の血が流れているって噂だよ。その血を恐れて頭のいい獣は近寄らないのさ。」
人間一人と竜が住まう森。賊が住み着くにはあまりに魅力がなさすぎるのだというのはわかるが、人が竜の血を引いているというのは理解できなかった。まさか物語のように竜守りは体に鱗でも生えているのだろうか。竜の背に跨る竜騎士も人ではない化け物のような姿をしているのかもしれない。顔を青褪めさせたファミアを婆は面白そうに笑って先を急いだ。
暗い森を半日歩くと開けた場所に出る。そこには大きな木がなく背の低い草が生い茂って野原のようになっており、森を背にして丸太でできた立派な小屋が建っていた。婆が扉をどんどんと激しく叩きつづけるが人が現れる気配はない。やがて婆は遠慮なく扉を開いて小屋の中に入って行き、ファミアは小屋から少し離れた場所に立って辺りの様子を窺っていた。
「出かけているみたいだね。あたしゃ帰るよ。後は上手くやんな。」
「えっ、そんな!」
こんな所に一人で残されてもいったいどうしたらいいのか分からない。慌てるファミアに婆は手分けして持っていた荷物をすべて押し付けた。
「日が暮れる前に森を出たいからね。あんたは竜守りの妻になるんだ、後は好き勝手やりな。」
確かに日が暮れてしまうと右も左も分からなくなってしまう。不安に駆られながらもファミアはここまで送り届けてくれた婆に礼をいってその場で小さな丸い背中を見送った。
婆の背中が森に消えた途端に不安がさらに押し寄せる。夫となる人は仕事に出ているらしいがいったいいつ戻ってくるのだろう。それまでは外で待っていた方がいいのだろうか。妻になるのだから食事の支度をして待っていた方がいいのだろうが、勝手をして叱られ追い出されるのも困る。けれど勝手をしないでただじっとしていて役立たずと追い出されはしないだろうか。
「どうしよう……ええっと、夫の名前は確かナウザー。婆に色々と確認しておけばよかった。」
扉の前でうろうろしながら呟く。竜の住まう森というくらいだから竜がいるのだろう。急に竜が姿を見せたりしたらどうしたらいいのだろうと、開けた周囲を見渡し不安が押し寄せた。
「ナウザーさんだってわたしの事をまったく知らないわけよね。今日来ることも……明るいうちにちゃんと戻ってきてくれるのかな?」
竜守りの縄張りに危険な獣は入り込まないと婆は言ったが、縄張りとは正確にどこを示すのだろう。暗い森から熊でも飛び出して来やしないかと、ファミアは冷や冷やしながら小屋ににじり寄る。婆の助言通り叱られない程度に勝手にしてしまおうと、周囲の様子を窺いながら小屋の扉をくぐった。
窓は閉め切られ室内は暗かった。暗いままでは何もできないし不安だからと隙間から明かりの洩れる窓へと足を向ければ何かに躓く。窓を開けて光に照らされた室内を見て驚いた。床には洗濯物や靴やら何やら、生活必需品といった様々なものが散乱しており、まるで泥棒にでも入られたような有様だ。けれど大きなテーブルの上には汚れた皿や食べ残しまであり、泥棒の仕業でないことはやすやすと想像がついた。どうやらファミアの新しい夫は片付けが苦手か、かなりの面倒臭がりのようだ。
「さすがにこれは―――」
片づけをしても文句は言われまい。ファミアで四人目の妻となるらしいが、前の三人が七日持たなかったのもナウザーの無頓着ぶりに付き合いきれなかったせいもあるのではないだろうか。逃げられても次の妻を求めるのも、家を清潔に保ち生活を守るために必要だからではと、ファミアは自身を励ますかに現状を受け入れ都合のよいように解釈した。