星を見る僕たち
十六歳の女の子というものはどれくらい待てるものだろうか。
そう考えながら僕は自転車を降りた。ダイナモ発電のライトは動力を失い、視界はすっかりと夜闇に覆われていく。夏から秋へとうつろいゆく節目のような夜だった。
一つの季節が色づき、痩せ衰え、やがて死に、また次の年に生まれ変わる。西さんと校門の前で別れ、一人になった瞬間からずっと、そんな過程を感じていた。
あれだけの熱量を誇った夏も、今、この夜に及んでほとんど無力だった。空気はもはや清涼といっていいくらいで肌に心地良い。高校から四十分ほど自転車を漕ぎ続けてきたにも関わらず、汗一つかいていなかった。
僕は口をつぐんだまま人通りのない農道を進んでいく。
辺りには田舎独特の静けさがあった。それは自然の調和が生み出す、音に満ちた静寂とでもいうべきだろうか。豊かに実った稲穂が、微かな風に揺られて衣擦れのような音を立てていた。そのはざまで鈴虫が病的なまでに正確なリズムで鳴いていた。
見渡す限りずっと続く稲田は、昨日降った雨のために万遍なく潤っている。穂先にまだ残る露の上に柔らかな月の光が注ぎ、切っ先のように光っていた。
僕はむせ返るほど濃密な土の匂いもろとも大きく息を吸い、肺を満たした。都会に住んでいた頃は考えられなかったことだけれど、ここには人工の光が一切ない。街灯の一本でさえ。だから今日も、星がよく見えた。
思えば一年半前、天文部に入部しようと決意したのはこの星空のためだった。
高校入学を機にこの田舎に引っ越してきて、生まれて初めて本当の星を目にした気がした。忘れようもない。入学を目前にした春休みの深夜、どうしてそうしたのかは分からないが、予感めいたものに誘われて庭へ出ていき、ふと空を見上げた。たったそれだけのことで充分だった。確かに、心が動いたのだ。
あの日からもう一年半。
入学して、天文部に入り、「部長」と出会い、二年生になって天文部の秘密に触れ、西さんという後輩にも恵まれた。だけど今となっては、それはとても短い道のりでしかなかったように思えてくる。紆余曲折もなく、長い下り坂を一気に駆け抜けてしまったような。
僕は一度歩みを止めて、誰に向けるでもない苦笑をひとつ漏らす。そして、放課後の出来事をもう一度思い返した。
まず始めに、夕日の浮かんだ部室の窓を背にして、翳りを帯びた西さんの横顔が眼に浮かぶ。
いつも通り部長が部室に顔を出す気配はなく、天文部らしい活動がまともに行われることはない。仮眠用に備えつけられたソファベッドに腰かけ、インスタントコーヒーを淹れ、西さんととりとめもない話をしながら無為な時間を過ごしていた。彼女はパイプ椅子に行儀よく座って、図書館で借りたらしいハードカバーの小説をずっと読んでいた。彼女は文芸部と天文部を兼任しているだけあって、いつも本を読んでいた。
それから陽が傾いて、部屋の窓から差し込む夕日がいよいよ鋭さを増した。真っ直ぐに窓を透過してくる光は、触れるものをすべて朱に染める。裏腹に、影はますます濃くなり床に灼きついた。
不意に、西さんが椅子から立ち上がる。
僕は眺めていた天体雑誌の紙面から一瞬だけ目線を上げて彼女の方を見る。だけど、俯く仕草のために表情を窺い知ることはできない。ほんの少しだけ癖のある髪は、緩い波を描いて彼女の胸のあたりまで落ちかかり、長い栗毛が光と空気を含んでいた。西さんはそのまま部屋の入り口まで歩き、開け放しにしていたドアを後ろ手に閉める。
彼女は言葉に詰まりながら何かを語った。その全てはもう覚えていない。それはあまりにも急な出来事で、要するに、僕に彼女の話を聞くだけの心構えがなかったということだ。
ただひとつはっきりとしているのは、西さんに告白されたという事実だけだった。
*
あれから二日が経った。僕は西さんの告白を受けて、日がな考えを巡らせていた。結局その場では躊躇し、返事を待ってもらうことにはしたけれど、今日は金曜日だ。彼女が文芸部ではなく天文部に顔を出す日だった。
当然のように授業に身が入るわけもなく、ぼんやりしているだけでいつの間にか放課後になっていた。そして、自分の中に答えはまだ出ていなかった。
それでも仕様がなしに、僕は職員室へ行って鍵を借り、誰もいない部室で彼女を待つことにした。
部室の鍵を机の上に投げ、いつものソファベッドに腰かけて一息つく。整理整頓の行き届いた空間に一人でいると、いつも使っている部室なのにやけに広く感じられた。
夕暮れの教室には、特別な何かがある気がします。
ふと、以前西さんが口にした言葉を思い出す。彼女がこれまで書いてきた小説には、夕暮れの教室が度々重要なモチーフとして登場するらしい。その話を聞いた時は、いかにも彼女らしいな、くらいにしか考えていなかった。
物語の背中を押す力。夕暮れの教室の魔力。果たしてその心象にある風景が彼女の決断にどう影響したのか、僕に分かろうはずもない。だけど、彼女は彼女自身の物語を呼び起こしたのだ。そして、幸か不幸か僕も渦中に巻き込まれている。
濃く淹れたコーヒーを啜りながらまつろわない思考の渦と格闘していたその時、屋上の鉄扉を開閉する音が外から聞こえた。西さんが、来る。僕は身を起こして平静を装う。
数秒間の沈黙、近づく足音、そして、部室の扉がゆっくりと開く。入ってきた彼女と目が合った。
「こんにちは」
西さんは、思いつめた様子もなく、やわらかに微笑みながらそう言った。
「やあ。今日も早いね」
「悠紀さんこそ」
西さんはそのまま部室の中まで入ってこようとはせず、戸口に立っていた。そこで何を待っているのか、そんなことは二人ともに自明なので、僕はしぶしぶ口を開く。
「一昨日のことなんだけど、もう少し時間をくれないかな」
「先輩の顔を見た途端に、そう言うだろうなって思ってました。だから、私は大丈夫です」
平気そうな顔をして、まだ微笑みを残したままでいる彼女に、心が少しだけ痛んだ。
「ところで部長は、今日も?」
と、西さんが続ける。
「ご覧のとおり。今日も来ていないね」
僕は両手を広げ、やれやれという素振りをしてみせた。
「こんな状態で天文部って大丈夫なんですか。このままだと廃部なのに」
僕は返答に窮し、それはちょっと困るね、と曖昧なことを言った。それに対して西さんは、少しなじるような目で見つめてくるので内心に冷や汗をかく心地だった。けれど、うろたえる僕の姿を見て満足したのか、彼女は小さなため息をついてまたにこやかな表情に戻る。
「じゃあ、私、今日は文芸部の方に行きますね。本当は一緒にいたいけれど、いま私がいると多分、困らせるでしょうから」
「ごめんね、こういうことって慣れていないから」
既に背を向けて去りかけていた西さんは、半身になってこちらに顔を向けた。
「難しいことじゃないんですよ。私は、あなたが好き。あなたは、私を、どうなんですか?」
彼女はそう言い残すと、返事すらろくに待たず走っていった。西さんが去った直後、目には見えない、触れることもあたわない、それでいて爽やかな、風のようなものが吹いた。それは閉め切った窓から部室の入口へ、一直線に抜けていったような気がした。そして、僕はまた部屋の中でたった一人になった。夕暮れ時はまだ始まったばかりだというのに、辺りはやけに静かだった。
頭の中で様々な言葉やイメージが渦巻いて、意味を為さないでいる。
嵐のようなひと時をなんとかやり過ごしたことで急に身体の力が抜け、僕はベッドに全身を預けた。そうして天井をじっと見つめて何も考えないようにすることで、ようやく冷静になることができた。
まず、西さんのことを考えてみる。どうして彼女は僕のことを好きなんだろう。
最初の告白でそれは語られたはずだ。だけど、茫然としながら聞いていたので、そのほとんどを思い出せなかった。彼女が使った比喩ばかりが印象に残っている。土くれの匂い。川底の冷たい湧水にも似た印象。しかしそれらの表現がどのような文脈を通して語られたのかは、記憶の襞にひっかかることなく深淵に落ちていった。拾い集めるのが困難な深みへ。
それはもう仕方のないこととして、僕は西さんをどう思っているのか。
以前から彼女の好意自体には僕自身、なんとなく気づいていた。西さんは小動物的な懐こさで、一緒にいるときは常に近くにいた。大胆とまではいかないけれど、分かりやすいアプローチの仕方だった。私情を抜きにしても、可愛い後輩だ。僕は彼女の姿を脳裏に思い浮かべていく。栗色の温かい髪があって、小さくて、どことなく幼さの残る顔立ちに、背伸びをした赤い縁の眼鏡が似合っていなくて、一見すると控えめでおとなしそうなのに、しっかりと自分の意見を言える強さをもっている。知的で明晰な話し方をするので、年下だけど僕よりもずっと大人びてみえた。だけど、それだけだった。僕にとって西さんはただの後輩でしかない。だから、どうすれば彼女を傷つけないでいられるかということばかり模索してしまう。そういうのは傲慢さなのだろうか。僕には分からない。
それから天文部のこともある。西さんは部長の態度を快く思っていないみたいだ。彼女の立場からしてみれば当然のことだろう。でも、あの子は知らないだけなんだ。天文部の、秘密を。
僕はそこで一旦考えるのを中断し、コーヒーを淹れるために立ち上がった。
*
辺りが暗くなり、下校時間が近づいたので、僕は職員室に屋上の鍵を返しに行った。そして、下校する他の部の生徒たちの流れに逆らって再び校舎の四階へ向かい、屋上へ続く階段の最上段に座りながら待った。すると思惑通り、ほどなくして部長がやってくる。
「おはよう、悠紀くん」
「もう夕方ですが、おはようございます」
短く会話を交わしたのち、僕たちは誰にも見つからないように屋上へ忍び込み、内側からそっと鍵を閉めた。屋上の鍵は職員室にちゃんとある、しかし部長も鍵を持っている。これこそが天文部の秘密だった。
種を明かせばなんということはない。ドアノブごと自前で用意して、勝手に挿げ替えただけ。あとはもともとの鍵についてあったタグを、用意した新しい鍵に付け替えて、戻す。部長はこの作業を誰にも悟られず一人でやってのけたそうだ。それは彼女がまだ一年生だった時の話という。最初その話を聞いたときは驚いたけれど、この人ならやりかねないな、という奇妙な納得感が同時にあった。ただ、星を見るために。それだけの理由があれば部長は動く。決して表には出ないけれど、一番熱心に天文部の活動をしているのは彼女だった。
部屋の中にしっかりと暗幕を張り、ガスランタンの光の元でコーヒーを淹れ、僕達は部室に潜む為の準備を進めた。そして準備が整ったら、あとはめいめいに好きなことをし、口数少なくただ夜が深まるのを待つ。
金曜日の夜ともなると、教師が最後の見回りに来るのは比較的早い時間帯なので楽だった。大人たちも早く帰りたいのだろう。その関門さえ抜けてしまえばあとは自由だ。宿直もいない、機械警備ですらまともに行っていない田舎の小さな高校なので、余程の下手でも打たない限り天文部の秘密が漏れることはない。
午後九時ごろまで待って、僕は一度様子を見に部室の外へ出た。屋上の縁まで歩み寄って、フェンス越しに職員用の駐車場を見下ろしてみる。車は一台も止まっていなかった。職員用の玄関口も消灯しているので、校内は恐らく無人だろう。外が安全であることが確認できたので、僕は部長を呼んだ。
部室の扉が開き、望遠鏡を抱えた部長が楽しそうにでてくる。
「空は、晴れてるな。風もない。いい夜だ」
彼女は何よりもまず空を見上げて、そう言った。
「今日はどんな星を見ようか」
*
歩く天体図鑑とはこの人のことをいうのだ。
観測を始めてから四時間と少し、時計はもう午前一時を回っていた。僕はその短い間に恐ろしいほどの天体知識を吹き込まれたが、量が量なだけにほとんど覚えていなかった。それに僕自身、星の名前だとか、星座の由来だとか、発見の経緯だとか、そういうものにあまり興味がなかった。ただ、じっと眺めているだけで充分に楽しめる。
部長も今では望遠鏡を脇に置いて、肉眼で空を見ていた。
僕は飲み干してしまったコーヒーを注ぐために一度立ち上がり、部室に入った。コンロでぬるま湯を温め直していると、外から部長の歌声が聞こえくる。ゆるやかな旋律の、物悲しい響きだった。英語の詩を流暢に歌い上げる声に聞き惚れながら、僕は湯気を上げるカップを手にじっとしていた。彼女の元に戻って歌うのを中断させてしまうのがなんだか惜しくて。僕は自分のコーヒーをゆっくりと一杯飲んで、もう一度注ぐ。そして歌が終わり、辺りが再び静かになるのを見計らって彼女の所へ行った。
傍に座って横顔を覗きこむと、部長はやわらかに目をつむっていた。そこには何かに祈るような安らかさと平穏が浮かんでいた。自分から声をかけるのはなんだか憚られて、黙って空を見上げる。月はほとんど満ちていて、夜の青よりもいっそう青く佇んでいた。
「楽しんでる?」
ふと、部長が言う。僕はええ、と短く答えた。
「私たちがしているのはね、天文を楽しむと書く、天文楽なんだよ。きっと。だから別に望遠鏡を覗かなくたって、いい。ふと、夜空の星々の光に思いを馳せれば、それが天文楽なの。覚えていてほしいな」
「そういうことなら、もうすでに心得ていますよ」
僕が答えると、部長は乾いた笑い声を上げた。
「私は良い部員に恵まれたみたいだね」
部長の人間らしい部分を始めて垣間見たような気がした。あまりにも超人的な天体への執着心のために、普段は俗人的な部分が全く垣間見えなかったから。屋上の鍵の件にしてもそうだけれど、この人は普通ではなかった。授業が終わるとすぐさま帰宅し、シャワーを浴びて着替える。そして学校に戻ってきて、夜まで潜み、星を見てから明け方近くに眠り、起きてそのまま授業を受ける。そんな生活をほとんど毎日、僕の知る限りでも一年以上続けていた。彼女をそこまで駆り立てるものは何なのか。
きっと僕には理解できない領域にこの人は立っている。たった一人で、孤独ささえも感じることなく、ひたすら観測者であり続ける。それはある意味で才能というべきものでもあるし、別の見方をすれば業なのだろう。本人は、そんなことに決して頓着しないけれど。
部長、と、呼びかける。
しかし返事はなかった。彼女は膝を抱えて座ったまま、小さな寝息を立てていた。疲れているんだろうな。僕は部室から毛布をもってきて、そっと彼女を包んだ。
*
週明けの月曜日になり、再び西さんと顔を合わさなければならなかった。だけど、もう心は決まっていたので授業中に気が散ることはなかった。放課後、僕は誰よりも早く屋上の鍵をとりに行き、部室で待機した。以前よりもずっと落ち着いていて、もう恐れはない。
しばらくして、西さんがやってきた。
「こんにちは」
「早いね」
「悠紀さんほどでは」
僕はゆっくりとソファから立ち上がる。
「話があるんだ」
「はい」
「単刀直入に言うよ。西さんの気持ちは嬉しいけれど、僕は君の恋人にはなれない。ごめんね」
「はい」
彼女は一歩下がり、背を向ける。その背中は嵐の中で吹きさらしになっている芦の藪みたいにひどく頼りなげにみえた。
「本当はね、知っていたんですよ」
震えを抑えようとして声が上ずっていた。
何を、と聞くよりも早く彼女が続ける。
「悠紀さんは、部長のことが好きなんでしょ。覚えていますか。夏休みにみんなで天の川を見たときのこと」
夏の合宿のことを言っているのだろう。
「あのとき、はっきりと分かったんです。悠紀さんは部長が好きで、でも、それなのに、私はあなたのことを好きになってしまっている、って。そんな気持ちを。だから今日、振られるのも、ちゃんと知ってて、ちゃんと覚悟、していました。それなのに」
彼女は言葉を重ねるうちにどんどん小さくなり、両の掌で顔を覆って、零れ落ちていくものをどうにかせき止めようとしていた。
「振られて良かったんです。良いはずなんです。悠紀さんは正直者で、誰かの気持ちを利用するような人じゃないって知ることができたから。もしこの告白が受け入れられたらって、ずっと考えていました。本当は好かれていないってわかっていて、それでも私はあなたのことが好きだから、たとえ嘘いつわりの気持ちでも付き合ってもらえたら、それもいいかなって、都合のいい彼女でもいいかなって、変な期待しちゃってて。馬鹿で、嫌な女なの、自分でもわかってます。それでも告白しなくちゃいけない理由があったから」
そこで彼女は大きく、ゆっくりと深呼吸し、泣きはらした顔を隠さずしっかりと僕の方に向き直った。
「私、今までどっちつかずでしたけど、ようやく決心がつきました。これからは天文部を辞めて文芸部に専念しようと思います」
苦しそうなつぶやきの最後に、かろうじて聞こえたのは、ごめんなさいという謝罪の言葉だった。
僕は情けないことに、慰めることすらできず、分かったよ、と了解することしかできなかった。狭い部室の中を重々しい沈黙が満たしていく。それは本当に重さと強い粘性をもっているかのようで、身動きができなかった。どうやら西さんも同様に動けないでいるらしかった。
だがその時、突如として部室の扉が開いた。外の世界の音が流れ込み、どうしようもなく絡まった状況と膠着を打ち破っていく。西さんは、現れたその人を見るなり、無言で走り去った。扉を開いたのはもちろん、部長だった。なんという時に、この人は。
「何をしに来たんですか、部長」
「望遠鏡をとりに、な。今日は山に登るんだ」
彼女は用具棚の中から、手際よく必要な装備を選り分けていく。
「ところで、あの子なんで泣いてたの」
やはり、それは聞かれるか。僕は困ってしまい、それとなく話をはぐらかして、西さんが天文部をやめるということだけ伝えた。
「へえ、それだけでどうして泣くんだろうね」
部長はそう言って、どうでもよさそうにくすくすと笑った。そして、じゃあね、と軽く言い残すとすぐに部室から出ていった。
室内は、水を打ったように静かになる。一人になってようやく、生きた心地を取り戻すことができた。
僕は西さんのことを考える。自分に向けられた一つの感情が、これほどまでの重荷になるとは思わなかった。西さんの気持ちを拒否することで、その全てをいっぺんに背負った気分だ。彼女はきっとこの出来事で、心に手ひどい切り傷を負うだろう。あれだけ泣いていたんだから。それでも傷がすっかり癒えたとき、強く生まれ変わるはずだ。あの子には健全な生命力がある。だから心配ない。
しかしどういうわけだろうか。
説明しがたい痛みのようなものを、僕も抱えていた。
*
皆が去ったあとコーヒーを一杯だけのみ、屋上の鍵を返却していつもよりずっと早く帰宅した。それなのに夜は、すぐにやって来た。
夕食を終えて自分の部屋にこもり、電気を消して横になる。階下からはテレビの音が聞こえて、窓際のカーテンは仄白く光りながら揺れていた。僕の中で何かがざわめきだっていた。身体の内側から強い圧力が生まれ、じっとしていれば遅からず破裂してしまう。
居ても立ってもいられなくなって僕は部屋を飛び出した。階段を飛ぶように降りて、靴を履き、車庫へ。それから、こっそりと鍵を持ち出して、祖父の原付に乗った。
行き先なら、もう決まっている。山がちな田舎ではあるけれど、このあたりで星を見るための山といえば一つしかない。天文部御用達だ。僕はアクセルを全開にし、車通りの少ない県道を飛ばしていく。
ヘッドライトを頼りに深い闇をかき分けた。エンジンが唸りをあげ、路面から振動が伝わってくる。正面からの冷たい風が肌を刺した。本当に暗い。信号機と、交差点に設置されたナトリウムランプが、ぼんやりとした橙色の光で道を照らしているだけ。あとは真っ暗闇だった。
注意深く、だけどできるだけ速く、十分ほど走って、目的の山の麓に到着する。排気量の少ないエンジンに少し無理をさせながら峠道を登り、八合目の駐車場に停めた。だだっ広い駐車場には一台の車もなく、寂寥感があった。僕はシートの下に入っている懐中電灯を取り出して、登山道に入った。
歩きはじめて気付いたけれど、今日は月夜だった。原付に乗っているときとは世界が別物になったみたいだった。念のために持ってきたライトはどうやら使わなくても済みそうだ。
目が暗さになれたころ、道の分岐地点に辿り着く。僕は錆びた鎖をまたぎ、注意書きを無視して閉鎖された旧登山道に踏み入っていった。小石と根強い草に足をとられながら雑木林を行き、不揃いな石段を一段ずつ登っていく。両脇にそびえる竹がまだら模様の影となり、天を遮っていた。だけどそれも束の間、峰に到着し、視界が大きく開かれた。そこは芝草が自生していて、ちょっとした公園のようになっている休息所だった。
頂上に位置する休憩所付近だけは綺麗に木々が伐採されていて、四方見渡しがきく。僕はその場所の中心に居る部長をすぐに見つけ出した。
部長、と僕は声をかけて歩み寄る。彼女は突然の訪問者に驚いた様子もなく、傍にくるよう手招きをした。
「今日は中秋の名月。綺麗な月だねえ」と、しみじみ部長が言う。月見団子があれば完璧なんだけどね、とも。
「本当だ、そういえばそうでしたね。言われるまで気づかなかった」
やけに明るいかと思えば、月は妖刀のように凄みを帯びて、くっきりとその輪郭を一面の昏い青の中に刻んでいた。
「悠紀くん、よく来てくれた」部長はそのように口火を切った。いつもみたく、どことなく気の抜けた口調で。
「明日から天文部の部長、やらないか。部室は好きに使ってくれていいから」
白く、冷えた指が僕の手に触れ、探り、絡まっていく。そこに握らされたのは、見慣れた屋上の鍵だった。
「でも、部長はどうするんですか」
「私はここでいいよ。ここで星を見る。流石に登るのは一苦労だが、静かでいい場所だろう」
「ええ。とてもいい場所です」
僕は部長の隣に座り、横目で彼女を見た。長く、深みのある綺麗な黒髪を無造作に弄び、空に微笑んでいる。この人が感情らしい感情を表に出すのは、星を見ているときだけだった。たとえば他人と話していて笑顔になったとしても、そこに感情はなかった。精巧な美しい人形のように、笑うという表情だけが顔の表面に張りついていて、心は微動だにしていない、そんな感じをいつも受ける。でも、今は本当に優しい顔をしていた。だから僕は、けじめとして部長に本当のことを話す決意をすることができた。
「聞いてほしいことがあるんです。今日の放課後のことです」
「話してごらん」
「実は、数日前に西さんに告白されたんです。どうやらあの子は僕のことが好きみたいで。でも僕は西さんのことが、人としては好きだけど、恋人としては見れないので、告白を断りました。今日の、放課後に。それで彼女は泣いてたんです。だから天文部をやめるのが悲しくて、というわけではないんです。誤魔化してごめんなさい」
部長は目を細めた。より遠く、月の裏側でも見ようとするかのように。
「好き、ってなに。どんな感じ」
「よくわからないけれど多分、部長が星に向き合っているときの感じに近いんじゃないかと」
そうか、とため息が聞こえる。
「星はただそこに存在し、輝いている。私は星を見続けるけれども、星は私のことなんて気にも留めない。だけど、どうしようもなく惹かれてしまう。このどうにも抗い難い衝動が、好きってことなのかな」
「それから、西さんはこうも言っていました。僕は部長のことが好きらしいです」
「君は、私が好きなのか」
その言葉の意味を考え、一瞬だけ躊躇う。でも、迷っちゃいけない。迷えば自分の中の真実を逃す。僕は心に従い、答えを出した。
僕は、あなたのことが――。
そうして、刹那に掬いとった自分の本当の気持ちを伝えると、強い予感が、夕立のように突然襲ってきた。入学式の前の夜に感じたそれと同質の、予感。
真夜中の空、それが僕の物語を動かす鍵だった。
*
冬はよく冷えて、透き通った空気は深く身に染みる。でも、それゆえに遠くまで明瞭に見渡すことができる。天体観測にはうってつけの季節だった。
僕は数ヶ月ぶりに屋上の鍵を開いた。誰も訪れることのない天文部の部室に入ると、綺麗に整理整頓されたままで、気配の残り香のようなものは一掃されていた。だけど、以前と違うものが一つだけあった。
作業机の上に、少しだけ埃をかぶった手製の冊子が置かれている。僕は冊子を手に取り、眺める。それは手作業で製本された文芸部の部誌だった。
授業が終わった後、寄り道もせずここに来たので、下校時間まで時間はたっぷりあった。僕はお気に入りのソファベッドに腰かけて部誌を読み始める。
最初のページには文芸部の紹介文が載っていた。ぼんやりと流すように読んでいたけれど、一つの文言を見つけてはっとする。
部長 西 聖奈。
詳しく読んでみると、文芸部には二年生が在籍していないらしい。だから、次期部長は一年生の中から選ぶことになる。その中で皆が認める実力の持ち主が彼女というわけだった。天文部を辞めるといったのは、文芸部の部長を任されたからなんだな、と僕は悟った。
冊子のページをめくり、西さんの作品を探すと、すぐに見つかった。正直いって文芸部自体には興味が無かったので、彼女の小説だけをじっくりと読んだ。時間をかけて、そこに綴られた一つの言葉、一つの心の動きを受け止められるように。
物語を読み終えたとき、僕は彼女の小説の意味するところを知った。この世界でたった一人、僕だけしか知らないことだ。
それは虚構と呼ぶには、あまりにも作者の、西さんの体験談そのものだった。天文部の夏の合宿、あの日の彼女の心の動きが、なんの偽りも飾り気もなく、正直に記されていた。僕たちが交わした言葉の一つ一つが正確に記録されていた。
人の心を覗きこむというのは僕にとって、とても辛い体験だった。一人の女の子が受けた悲しみが、朝方の砂漠に降る雨のように心にしみた。小説の出来が上質で、事実をありのままに描写したものであるがゆえに。そして、それが彼女だけの物語ではなく、僕自身の物語でもあるがゆえに。
西さんと僕、僕と部長。それぞれの関係が悪い冗談みたいに交錯し、共鳴していた。僕は小説の世界にしばらくのあいだ閉じ込められた。恐ろしいほど身に迫る読書体験だった。だけど、彼女の現実に対する類い稀な認識力がそうさせたのだ。誰しもが自分自身のことを、ましてや他人のことを正しく捉えられるわけではない。だから、彼女の力は手放しに称賛されるべきものだろう。
僕は冊子を机の上に放り、立ち上がった。
西さんも部長も、天文部にはもういない。僕自身も天文部員であるつもりはない。天文部は既に存在しないのだ。
そう自分に言い聞かせながら、屋上の鍵を内側から閉めた。ポケットには、部長から貰った屋上の鍵がちゃんとある。これで、誰も邪魔することはできない。
薄雲のかかる空をみれば、早くも夕陽が沈みかかっていた。夜が近い。それまで少しだけ眠っていようか。
今日は、無性に星が見たかった。
僕は部室へ戻り、鍵をかけ、しっかりと暗幕を張って横になる。
あまりにも心安らぐ胎内のような暗闇が、僕を完全に包みこんだ。
(了)