12 その冷えた指先を……④
元々、母さんは病弱だったらしい。
そんな母さんが健康を取り戻し、仕事が出来るようになるまで回復したのは、ひとえに本人の努力が大きかったそうだ。
適度な運動をし、食事に気を遣い、お風呂で疲れを取り、ほどよく睡眠を取る。
そういうセルフマネジメントがうまくできていたから、母さんは働くことができた。
だが、それが何かしらの事情により破綻してしまうと、組み上げた積み木が土台から崩れ落ちるように一気に瓦解してゆく。
その結果がこれだ。
母さんは病室のベッドですやすやと眠りに就いていた。
幼い俺はそんな母さんを見て、立ち尽くしていた。
母さんが大好きだった。
独り占めしようと思った。
敵を排除しようと思った。
母さんの宝物を捨てた。
そしたら、母さんが倒れた。
全部、俺の所為だった。
俺が父親に嫉妬したから、全てが狂った。
俺が余計なことさえしなければ、母さんは倒れることもなかった。
全部、俺の所為だった。
母さんの容態が悪いだなんて思えないくらい、まるで嘘のように気持ちよさそうな寝息を立てている。
だが、そんなものは錯覚でしかない。
少しでも身体を動かそうとすると、ふらついてしまう。
触れたら壊れてしまうような、深窓の令嬢。
そんな表現が比較的近かった。
窓の向こうで巣作りに飛び交うスズメをなんとなく見ながら、俺は途方に暮れていた。
――
……そこまで話して俺は一息入れようとドリンクバーへ向かい、二人分のアイスティーを注いだ。
席へ戻ると今まで何も話さなかった黒宮はポツリと一言だけ呟くようにして言う。
「お母さん、まだ調子が悪いの……?」
それは予想していたような俺への批難罵倒の類いではなかった。そして、同調するような同情的な言葉でもなく、現状の把握に努めるような……、ともすれば事情聴取に近いような質問。
もちろん悪いことをしたのは確かだし、年齢を考えればこそ無罪だが行動としては立派な悪事だ。
俺は罪悪感を抱きながらもその質問に答える。
「……ある程度は元気になったよ。とっくに退院したし家事もできる……けど」
「けど……? その様子だと仕事には復帰できなかったのね……」
ああ……。と、俺は押し黙るしかできない。
本当に訳ながら最低だと思う。
自分勝手な嫉妬で他人の宝物を捨てて、そのうえ間接的に職まで奪った。
たったひとつの行動でそこまで多くのものを奪えるなんて悪徳業者も舌を巻く所行だろう。どこからかオファーが来たっておかしくない。
なんて、俺は自嘲気味に嘯く。
「ねぇ。ひとつ気になることがあるんだけど……」
黒宮はおずおずと小さく挙手をした。
どうした? と話を振ると、黒宮は真剣な面持ちになった。
いつも無表情でポーカーフェイスの黒宮だが、その表情は少しだけいつもと雰囲気が違う。
「それからお父さんとはどうしたの? ちゃんと仲直りできたの?」
その質問は思っていた以上に答えづらいものだった。
なんというか父親のことは母さん以上に話しづらいものがある。
俺は差し支えない範囲でそれとなく答えようと思い、母さんが入院中のときの父親を思い出す。
さて、あのとき父親はどうしていたっけな……?
――
母親が入院した、と知らせを受けた父親がやってきた頃には翌日の明け方になっていた。
いつもは優雅に着こなしていた背広もこのときばかりは『しわくちゃ』だった。
それだけ動揺して慌ててきたのだろう。普段であれば今日はまだ帰ってくる日ではないはずだから。
予定を繰り上げて会いに来たのはやはり母さんのためなのだろう。
息せき切って病室に駆け込む父親を見ながら俺はそんなふうに冷静に分析していた。
いや、違うかもしれない。
母さんが倒れた。その事実に呆然としすぎて周囲を見渡すしかできなかったのかもしれない。
「……良かった。無事なんだな……。…………陽」
父親はポツリと母さんの名前を呟くとその精悍な横顔から涙をこぼした。
よくよく思い出せば父親の涙を見たのはこれきりだったように思う。……まぁロクに会う機会もなかったのだから当然と言えば当然なのだが。
父親はそうしてひとしきり母さんの頬を撫でて無事を確かめた後、俺のほうへと顔を向けた。
精悍な顔はともすればイケメンで、普段なら耽美な印象を与えるものなのだが、このときばかりはしわくちゃの情けない顔をしていた。
それはいつもかっこつけてばかりの憎らしいイケメンからは、想像できないくらい本当に珍しい表情だった。
「光路。……だいじょうぶか?」
父親は俺に視線を合わせながらそんなふうに訊いた。
俺の脳内に横切ったのはコイツへの悪意と、倒れた母親。敵愾心と罪悪感。
俺は気まずくなって目を逸らした。
「……そっちこそ、酷い顔じゃん」
父親は一瞬ぽかんと呆気にとられた後、ハハ……と渇いた笑いを漏らす。
「……そうだな。母さんが倒れたって聞いて父さんはすごく怖くなっちゃってな」
父親は照れるように頬を掻く。
そんな姿すら憎らしいイケメン面だが、このときばかりはさすがに俺も悪態を吐こうとは思わなかった。
「けど、光路がいるなら平気だったな。いつも良い子で母さんを助けてくれてるしな」
そんな言葉に俺は無性に腹が立ったのを覚えている。
どうしてだろうな。「知りもしないくせに」って言いたかったんだろうか。
それとも、本当は分かっていたんだろうか。母さんには俺だけじゃなく父親も必要なんだってことが。
だからかどうかは知らないが、俺は父親の発言に反抗した。
「違う。……僕は何もしてない」
そうだ。なんなら俺は余計なことしかしてなかった。
まったく良い子ではなかったし、母さんを傷つけただけだった。
そんなことを知ってか知らずか、父親は珍しく俺の頭をぽんと叩いてしゃがみ込む。
イケメン面が俺のすぐ目の前まで近づいてきた。
「そっか……。じゃあ、今度からは一緒に母さんを守ろうな」
俺は溢れ出る涙を堪えきれなかった。
俺は泣いた。悔しくて泣いた。
愚かな自分を悔いた。無力な自分を嘆いた。
そんな自分に向けられる信頼が不快で泣いた。
だけど真実を告げずに被害者に甘んじる自分を憎んで泣いた。
溢れ出る感情を持て余して泣いた。
ひたすらにわんわんと泣き続ける俺を抱き留める父親に、俺は初めて父性を感じたような気がした。
そんな一幕の外では、スズメの巣からピヨピヨと盛んに鳴き声が聞こえていた。
それが俺のトラウマ。
宝物をなくしてはならない。そんな強迫観念に似た思い込みの正体。
過去編は一段落です。
シリアスが続いて疲れたのでそろそろおちゃらけた話を書きたい今日この頃。