10 その冷えた指先を……②
長い海水浴を終えたその翌日。
疲れも抜けぬまま、バイト先のハンバーガーショップへ向かった俺は、そこで想定外の出逢いを果たしていた。
「今日から一緒に働くことになった新人さんだ」
「黒宮です。『先輩』、よろしくお願いしますね」
俺は引きつった顔でずっこけそうになっていた。
おい。おいおいおいおい。
『また明日』ってのはこういう意味だったの?
ストーキングしてたのは良いとして(良いのか?)、まさかバイト先にまで現れるとは……。黒宮恐るべしである。
しかも社員であるチーフさんは俺の肩を叩くと、ひっそりと親指を立てていた。……なんだその指は。
「なぁなぁ、同じ大学の子なんだって? 黒宮ちゃんから聞いたぞ? 仲良くしろよな、色々と」
色々って何すか? ひたすらに嫌な予感しかしないんだけども。
「(押せば行けるぞ! 頑張れ若人!)」
何故か小声で励ますような視線を向けるチーフ。
一体何をだ? 何を押せば何処に行けるんだ? ちっとも行きたくないし、それどころか問答無用で連れ去られそうな気しかしないんだけど。
「(ちなみにお前は教育係に任命したから教えてあげろよ、色々と!)」
だから何を?! むしろ不純なことを教育されそうなんですけど! 何なら逆セクハラとかされそうなんですけど!
「それじゃあ黒宮ちゃん、優しい先輩に良いこと色々と教えてもらいなよ!」
「はいっ、ありがとうざいます!」
にぱっと笑みを浮かべる黒宮は、まるで従順な女の子みたいだが、もちろんそんなわけがない。
何故ならコイツは黒宮だからだ。
案の定チーフがいなくなると無理矢理貼り付けたような柔和な笑みを消し去り、いつもの無表情な黒宮へ戻った。
「……というか、お前もああいう外向きの顔も作れたんだな……」
なんというかそこが意外ではあった。そもそも対人折衝とかできそうな雰囲気ではないし、接客とか無理そうなキャラじゃん。
俺がそう言うと、黒宮は気恥ずかしいらしく顔を赤く染めてそっぽを向く。
「……そんなことは、……どうでもいいでしょ。……さ、さぁ、それよりも早く仕事を教えてちょうだい。でなければあなたの耳たぶを舐め回すわよ」
「おいやめろ。そんなことされてバレたらマジでクビになるから。……だからおい、その舌舐めずりをやめろ。超怖いから」
「あら、そう。……残念ね」
だから、残念なのはお前の思考回路のほうだから。
さて。それはともかく、仕事を教えなきゃな。……まずは打刻からかな……?
――
打刻とかの超基礎的な部分をレクチャーしたが、俺たちはまだ私服のままだった。このままフロアに出るわけにはいかない。つまり、着替える必要があるわけだ。
「ホラ、これがお前のユニフォームだ。マックヤード……じゃなかった。バックヤードの奥のほうにロッカーがあるからそれを使ってくれ」
「……? 分からない。ちょっとついてきて」
店内は見た目が大事だからそれなりに整頓されているが、バックヤードはというと収納性や使い勝手を重視しているため、やや混沌としている。確かに初見では良く分からないことも多かろう。
そう思って俺が狭いバックヤードをカニ歩きで進んでいると……。はしっ。身体を黒宮にがっしりとホールドされた。Why?
「……ちょっと躓いてしまったわ。他意はないの、ホントよ?」
「そうか。じゃあ離れような」
「私を一人にする気?」
「一人で着替えくらいできるだろうが、アホンダラ」
暗がりだから助かっているが、顔が結構近い。というかだいぶ密着感がある。……なんというか凄い。アレの感触が、凄い。
「……当ててんのよ。とか言うべき?」
「どう考えても言うべきではないと思う」
本当にコイツは隙あらば攻めてくるな。だが、狭くて身動きが取れない。逃げるのは困難だ。
というか、動けば動くほどぶつかってしまう。その感触をより深く味わうことになる。
それが分かっている以上、迂闊に動けない。これは じつに こうみょうな わなだ。
「さぁ、それじゃあ着替えましょうか」
「そうか。じゃあ俺は離れるぞ。離れて……ぴぎゃあ!」
俺は情けない悲鳴を上げてしまう。
だって、何故なら黒宮の指が、俺のベルトへと伸びてきたからだ。
「あのぉ、黒宮さん?」
「なぁに、先輩?」
「どうして黒宮さんは俺のベルトをカチャカチャ弄くっているんでしょうか」
「そんなの、脱がすために決まっているでしょう?」
平然ととんでもないことを抜かしていた。
やっぱり嫌な予感は的中していた。物の数秒で逆セクハラ受けてたよ!
「俺のは良いの! 自分の着替えをしなさい!」
「どうして、先輩? 教えてくれるんじゃなかったの……?」
俺はお前の『何』の教育係になるんだよ!
それ絶対業務外の行為だよね! セから始まってスで終わるような不純なヤツだよね! 超いかがわしいヤツだよね!
「でも先輩、私こういう服ってあまり来たことなかったから、キチンと着こなせるか分からないの。だから先輩に着させて欲しいな」
甘えるような顔で、声で、仕草で告げられると、正直ぐっと来るものがある。
分かりきったことではあるが、黒宮は結構可愛い。地味ではあるが、素材は抜群に優れているのだ。
とはいえそれでも、ダメだ。やっぱり仕事中だし、相手は黒宮だし、何より、ここで手を出せばあとは芋づる式に既成事実ができあがってしまう気がして怖い。
そうだ、俺は漢だ。こんなところで屈したりはしない。自らのポリシーを貫き通す。俺はそういう強い漢になるのだ。
どうにか俺は鉄の自制心を取り戻し、黒宮の手を振りほどいてロッカールームから脱出した。
とっとと俺も着替えなければ。
ズボンを履き替えようとして、俺は一瞬止まってしまう。
……不味いな。静まれよ、俺の心!
やっとのことで沈静化した下半身をズボンに収めるとキャップを被って、気合いを入れ直した。よし、今日も頑張るぞ!
恋人と一緒のバイトって楽しそうだな。そんなことを考えながら書いてました。
でもよく考えたらコイツら恋人じゃねーや。




