ファーストコンタクト
昨夜は普通に仮眠をしようとしていたはずだった。
勉強とバイト疲れで重くなる目蓋の感覚も、部屋の明かりを消して卓上ホルダーに携帯電話を押し込んだ記憶もある。
一眠りしたら起きて、ゲームの続きをしようと思っていた。
階下で妹と母親が甘味の取り合いをしている声を聞きながら、意識を手放したことも何とか思い出した。
しかし――
(ここは、何処ッ……!)
見慣れた天井はどこかに消え、窓の外から燦々と降り注ぐ日差しが眩しい。
あのまま朝まで眠ってしまったのかと焦りもしたが、しかし身体を起こそうとしてそれが叶わないことに気付くと、心の片隅に『嫌な予感』というものがふつふつと湧き始める。
それを否定したいがために、口開いて声を出そうとする。
「あー」
(声も出せねぇええええっ!?)
嫌な予感がむくむくと大きく膨らんでいく。
しかしこれが単なる夢である可能性も捨てきれない。どんな窮状にあっても希望はある。あるべきだ。
その希望を掴み取れるかどうかは別だが。
「だうだうだうだう」
(舌も回らねえし、こりゃアレだわ。赤ん坊だわ俺)
混乱する意識の中で、人類文学史の中では比較的古い『他者への転生』という物語を幾つか思い出す。
朝起きたら虫になっていたり、動物になっていたり、隣近所の誰かになっていたり、兄弟姉妹と入れ替わっていたり、記憶が連続していないという点では長い眠りから覚めて未来の自分になっているというのも一種の転生、或いは入れ替わりというものかもしれない。
少なくとも文学史という観点で見れば、『自分以外の生物』に意識が乗り移るというテーマは珍しいものではない。
テーマとして珍しいものではないが、それを経験する機会はおそらく珍しいはずだ。
(夢、だと良いんだけどなぁ)
そう願いつつも、見たこともないような風景を目の前に差し出され、それが恐ろしいほどの臨場感を与えてくるという点を考えると、やはりこれは夢ではないと考えるべきだった。
「あうー」
(虫じゃなくて良かったと思おう、うん)
流石に虫になっていたら、即座に死を選んでいたかもしれない。虫の脳神経節が人間の意識に耐えられるかということは別にしても、人間の意識は虫の身体に耐えられないように思えた。
(幸運だった。うん、良かったんだ。戻れるかどうかは分からないけど……)
そう自分に言い聞かせると、自分が眠っている場所がどこなのか改めて観察する余裕が出てくる。
重い頭を動かし、きょろきょろと周囲を見回す。
(この檻のような構造、やっぱりベビーベッドっぽいな)
彼の四方を囲むようにして聳え立つ円柱と、それらを頂点で結ぶ梁。木製とおぼしきそれに手を伸ばし、握ってみる。
(スベスベしてるのに塗装はしてない。格子の太さも均一だから、かなりの精度で作られてるのは間違いない。そもそも赤ん坊をひとり寝かせておける環境だから、この家とその周囲の治安は悪くないな)
続いて、日差しが差し込む窓を見る。
カーテンが揺れており、少しだけ窓が開いているのが分かった。
(音が良く聞こえないのはこの身体のせいかな。でも大きな音は聞こえてこないし、やっぱり静かな環境なのは間違いないなさそうだ)
じっと窓を見ると、そこに嵌められているのが透き通ったガラスであることが分かった。視界に入る窓はかなりの数になるが、その総てに同じようなガラスが嵌まっている。
「あうー」
(うーむ。ガラスが工業製品になってるということは、それなりに技術レベルは高いな。どっか変な時代に飛ばされた訳じゃなさそうだ)
そう思い、少しホッとしたのもつかの間、ガチャリという音と共に騒々しい集団が彼の寝ている部屋に入ってきた。
「ほら、やっぱり起きてる。赤ちゃんの眠りって浅いんですから、寝たらもう大丈夫だなんて思わないようにしてね」
「う、済まぬ」
そんな遣り取りをしながらベビーベッドに近付いてくるのは、明るい茶髪を伸ばした女性と、暗緑色の髪を肩口で揃えた顔色の悪い男だった。
「ほーら、お客さんにお顔見せてねー」
(これが母親かなぁ? この人は美人だけど鏡見れないから自分の顔すら分からねえ)
女性に抱き上げられ、視点が大きく変わる。
部屋の間取りは彼の知る一般的な家庭のそれではなく、豪邸にこそ相応しい余裕を持った構造だった。
「だう」
(そりゃな、俺だって生まれ変わるなら金持ちの家がいいと思ってたさ。だけどちょっと心の準備させてくれてもいいんじゃないか?)
女性の胸に抱かれながら持つには些か不釣り合いな感想だが、突然このような状況に送り込まれれば誰しも状況に不満を抱くのではないだろうか。
「ライちゃん、今日はお客様がお見えになったのよー」
そう言って女性が身体を捻ると、彼の視界いっぱいに青色の壁が現れる。
「うあ?」
(なんじゃい?)
じりじりと視線を上げていく。
すると、そこには恐ろしい化け物がいた。
「あ、こんにちは」
緊張で引き攣った笑み。赤ん坊を驚かさず、可能な限り親愛の情を前面に押し出した表情だ。
しかし、その表情を浮かべたのが岩を削り出したようなごつごつした顔と、猪のような牙を持つオークならば、それは威嚇の表情となる。
「ひっ」
意識を取り戻してから初めて、実際に発する声と意識が発する声が一致した。
「うぎゃあああああああああああああああっ!!」
決壊。
一瞬の間を置いて、彼は泣いた。
それはもう、その場にいた大人たちが顔を顰めるほどの大音声で泣いた。
(こええええええええええええええええええっ!?)
意識に涙を流すという能力があれば、おそらく本気で泣き喚いていただろう。
大の大人が情けないと思いながらも、あんな顔をいきなり見せ付けられたら仕方がないと言い訳をする。
「びゃあああああああああああっ!!」
「お、あ? お、奥様……! これは……!?」
青い肌のオークが必死に場を取り繕おうとする。
「自分は決してライウル様を泣かそうと思ったわけではなく……」
「ええ、分かっています。この子も驚いているだけですよ」
いえ、怖がっています――そう思いはしたものの、口に出すことはできなかった。
(だって超こえぇもん! いきなりバケモンのどアップだぞ!? 誰でも泣くわ!)
それでも、件のオークが必死に自分を宥めようとしているのは分かる。
彼は何とか心身を落ち着け、泣き声を小さく小さくしていく。
「ひっく、ひっく……」
「おお、流石我が息子、自らの置かれた状況を理解したか」
どうやら父親らしい顔色の悪い男が、赤ん坊の様子を見て誇らしげに胸を張る。
「吸血族故、この時期でも多少の意思は芽生えていよう。ドンに悪意がないことも分かっていると見える」
「そうですか、それは良かった……」
オークはそう言って表情を緩めた。
その顔もまた威嚇しているように見える代物だったが、赤ん坊はびくりと身体を震わせるだけで耐えた。
「あうぅぅ」
(堪えろ、俺!)
じっとオークの表情を見詰め、それに慣れようとする。
ぎょろりとした眼。大作りの鼻。太い牙が剥き出しになっている口。
恐ろしいことは間違いない。
しかし、それは個性なのだと自分を納得させる。
「フォーリア、ドンも来ていることだしお茶でも淹れようか」
「そうですね。この子もお乳の時間ですし」
赤ん坊が精神的に成長している中、両親はそんな具合に予定を決めるのだった。