突然預金通帳が送られてきた場合は、何か重大な問題が持ち上がっていると見て間違いないだろう
帰りの高速道路は、行きの渋滞が嘘のように快適に流れた。他のすべての車が、僕らと同じ車線を走ることを避けているような空き方だった。僕のマンションに着く頃には、既に日は傾きはじめ、空気は何かが飽和したような、微かな重苦しさをはらんでいた。
車から降りるときはいつも以上に神経を使わなくてはいけなかった。何せ、僕の同乗者は一歩間違えれば命さえ狙われかねない重要人物なのだ。気は抜けない。もしかしたら電信柱の陰に情報屋が潜んでいるかもしれないし、マンションの敷地内にはどこぞの工作員が息を殺して、僕らがのうのうと帰ってくるのを待ち伏せているかもしれない。
世界は、考え得るすべての危険を隠し持っているようであった。そしてそれらは、気づかなければ一生気づくことはない危険たちであったし、神経をとがらせれば、無限にも思えるほど巷に蔓延っていた。そこは今まで僕が体験したことのない世界だし、僕が映画や漫画の中でしか知らない世界だ。そこではあらゆることが起こるし、当人以外は何の違和感を抱くこともない。
僕は車から一歩降りると、360度あたりを見回した。うん、僕の目に狂いがなければ、怪しい人影はない。マンションの駐車場は、人が隠れられるような障害物もなく、近隣の騒音も届いてこなかった。
それを確認してから、ようやく僕はテラを降車させることができた。まったく、大統領とお忍びデートしてるみたいだ。
マンションの中に入ってからも、気を休めることはできなかった。一応防犯には余念のない設計のマンションだったが、必死で入ろうと思えば、誰でも侵入できないことはないだろう。
階段の影、エレベーター、防災ホース入れの裏、そんなものにまでいちいち注意を払い、一つ一つ危険を排除して行かなくてはならない。そうして前に意識が集中しすぎることで背後に隙ができ、そのことに気づいてハッと後ろを振り向き、誰もいないことを確認して一つ息を吐く。たしかにどれだけ気をつけても、気をつけすぎると言うことはないようだ。
極度の警戒は次の不安を呼びその不安は次なる警戒心を呼ぶ。堂々巡りもいいところだ。本職のボディーガードの人は、こういった悪循環をどうやって立ちきるのだろう。あるいは、極限までこれを繰り返していって、すべてのリスクを排除するのだろうか。
やっとの思いで、自分の戸口の前まで辿り着いた。これで、開けてみたら、家の中が荒らされたりしていたらどうしようなどと想像を張り巡らせたが、とりあえずその心配はなかった。しっかりとかかっていた鍵を開けて、中に入る。戸を閉め、鍵をしっかりと、更にチェーンまでかけてしまうと、そこでようやく僕はほっと一息つくことができた。
が、しかし、本当に僕の心を飛び上がらせたものは、もう既にこの家の中に存在していた。
安心感とともに、僕がテラを連れてダイニングの方まで行くと、テーブルの上に一つ、段ボールの直方体が放置されていた。
僕は、ゴクリと一つ、苦い唾を飲み込んだ。そんなはずはないのに、なんでこんなものがここにあるんだろう、と、言いようもない恐怖が胸を高鳴らせた。まるで、時限爆弾を目の前にしているようだった。逃げなければいけないのに、足がすくんで動き出すことができない、そんな感覚だ。そうこうしているうちに、死期をしらせるデジタルタイマーはカウントダウンを続けていく。
僕は恐る恐る、その小包に近づいた。こんなところに郵便物が届けられるわけはない。鍵はしっかりかかっていたし、しつけのいい宅配便なら、受取人が不在なら違う時間帯に配達し直すはずだ。
いったい誰が、僕らの留守中にこの家に侵入し、こんな爆弾を仕掛けていったのだろう? たとえこれの中身が石けんの詰め合わせだったとしても、不気味なことに変わりはない。なんてこった。
僕は、その小包を手に取り、炎に手を突っ込むような思いでそれを揺らしてみた。それは爆発などすることなく、ガサ、ゴソ、といくつかの小さなものが触れ合った音を立てるだけだった。とりあえず、それが衝撃を関知するタイプの爆弾でないことは確認された。
次に僕は、その小包の開け口を探した。宅配便では必ず付いてくる受取確認書とか、保証書とか言ったものは一切付いていなかったから、まずどの面が上なのかも分からない。まったく意味の分からないことだったけれど、その段ボールの箱には、つなぎ目とか、重ね合わせた後とかがどこにもなかった。テープやのりで接着された痕もない。まるで、最初から段ボールがこの形で精製されたような感じだ。でも、そんなことがあるはずはない。
しょうがなく、僕はカッターを持ってきて、端を切り取って開けることにした。お陰で僕は、カッターの刃を小包に突き立てるときに、自分の心臓に対して刃を突き立てているような感覚を味わうことになった。
何事もなく側面を切り取り終わると、中から出てきたのは封筒に入れられた手紙と、預金通帳だった。これで僕は少し安心をすることができた。すくなくともこれらのものは、滅多なことが無い限りいきなり爆発したりはしない。
封筒には、端正な字で「匠護さんへ」と書いてあった。僕は、一瞬ピンと来て、あの陽子からの最初の手紙を持ってきて、時を比較した。予想通り、その二つの字体は全く同じものだった。つまりこれは、陽子によって宛てられたもののようだ。
それが分かって、僕は多少の警戒を解くことができた。これでようやく、手紙がいきなり爆発する可能性が0になった。
しかし、僕の疑問はどれも解決されずに残ったままだった。陽子は、どうやって鍵の閉まってた家の中に入って、また鍵をかけて出て行ったんだろう。第一に、どうして陽子はこんなものを残していかなくてはならなかったんだろう。
それは、どうやらこの手紙を読まなくては分からないことのようだった。いつものように、ある種の世界は僕の知らないところで回り続けている。
その手紙は、まず、僕への謝罪の言葉から始まっていた。
「前略、こんにちは、匠護さん。今回は、このような形でしか連絡が取られなくて、とても残念に思います。このことで、匠護さんにもいろいろと迷惑をかけているんじゃないかと思います。本当にごめんなさい。そして、今回は、(本当に言いにくいのだけど)あなたに伝えておかなくてはならないことがあります。
まず、テラの面倒を見るのを引き受けてくれてありがとう。あなたがこのことを引き受けてくれて、私たちは本当に安心しました。でも、このままでは私たちは、あなたを騙して、テラを預からせたことになります。なぜならテラは、とてもその背中では耐えることのできないような重大な問題を抱えているからです。きっとあなたでも耐えられるかどうか分からない問題です。
テラは、その才能のために、多くの人々から求められ、そして狙われています。だから、私たちにはひっきりなしに電話や手紙が送られてきます。それも、無言電話であったり、不気味なタロットカードが挟んであったりと、脅迫まがいなものが。
私たちは、絶えず恐怖で戦いています。まさか、テラをこの世に産み落としたことで、こんな苦痛を味わうことになるなんて、思っても見なかったのです。
それでも私たちには、何とかしてテラと、自分たちを守っていこうという決意はありました。夫の伝を頼って、様々な安全対策を考えました(そのころにはもう、警察は頼りになりませんでした。匠護さんも気をつけてください)。家のそばには昼夜を問わず人を雇って見張りをさせ、テラを家に残して外出するときには、ボディーガードを家で待機させました。家の中に、一度入ってしまえば中側から操作しなければ絶対に開かないシェルターも作りました。
でも、私たちの決意は、簡単に打ち砕かれました。
ある日、私たちが三人で外出したとき、家に帰ってくると家の鍵が開いていて、不審に思って警戒しながら中にはいると、例のシェルターの中で、真っ黒な犬が八つ裂きにされているのを見つけたのです。
私たちは、悲鳴を上げることすらできませんでした。家の中には、言葉に表せないような、強烈な屍臭が漂っていました。
これは、私たちへの脅しとみて間違いはありませんでした。恐らく、自分たちの要求に従わなければ、次はテラが……そう言うことなのでしょう。その時にはもう、私たちには、テラを守り抜いていける自信などこれっぽちもありませんでした。
とにかく私たちには、この場所から逃げてしまう以外にやりようはありませんでした。ここに居続ければ、いつかは家ごと爆破されそうな予感がするのです。そして彼らは、本当にそんなこともやりかねません。そして、私たちは、少しの間、テラを自分たちの下から離すことにしました。少しでも脅迫者の目を誤魔化すためです。
私たちには、安心してテラを預けられるのが、本当にあなたしかいなかったのです。
最初の手紙で書いた、転勤という話は、すべて嘘です。本当はそんな嘘を吐きたくはなかったし、いつかはばれてしまうと思ったけれど、ありのままのことを書いたら、あなたはテラを拒むだろうと思ったのです。それで、そんな卑怯な手を使ってしまいました。私たちには、テラを預けることで、あなたにも危険が及ぶであろうということは想像できました。それなのに、です。
これは、私たちがいくら謝っても、許されることではないと思います。もしあなたが受け入れてくれたとしても、私たちが卑怯な嘘つきと言うことには変わりはありません。でも、私たちにはこうする以外、テラを守る手だてが無いのです。
その上で、匠護さんに、テラを守ってくれることを、お願いします。勿論、匠護さんの力だけでとは言いません。気づいていないかもしれませんが、匠護さんの家の周りには、もう何人かのボディーガードと、見張りを設置しました。彼らはプロですので、大抵の危険からは、あなたとテラを守ってくれると思います。(匠護さんから彼らに話をすることもできます。でも、できれば一週間の間、外に出たりはしないほうがいいです)
あと、私の秘密の電話番号も下に書いておきます。今までのものは、電波が傍受されているので、安心して使えません。できるだけ下の電話番号にも頻繁に連絡をしないほうがいいと思いますが、テラのことで、よほど分からないことがあれば聞いてください。最大限答えられるように努力します。(ただし、五分間しか通話ができません)
最後に、この手紙と一緒に送った通帳ですが、それは富樫銀行であなた名義で作ったもので、現在3000万円が入金されてます。
報酬という言葉はあまり使いたくないのですが、今は、このような形でしかあなたを援助することができないんです。もし私たちの安全が確認されたときには、すぐにでもあなたに会って謝りたいと思います(きっとテラにも謝らなくてはいけないんでしょうね)
勝手に危険を押しつけてしまって、本当にごめんなさい。私たちができることは、匠護さんとテラが一週間、追っ手の目に触れないよう祈るだけです。でも、もし危険が身近に迫っていることを感じたときは、すぐに逃げてください。できるだけ遠く、できるだけ人の多いところまで。
一週間後、8月12日に、私たちの使いがテラを迎えに行きます。それまで、匠護さんとテラが、無事でいてくれることを願います
草々
1208-015-3310
御崎陽子」
僕はこの手紙を、三回読み返した。それでようやく、これが現実に起きていることなんだと言うことを理解した。
全く、陽子たちも勝手なものだ。結局、彼らが今、どこでどうしているかと言うことは手紙に記されていなかった。これじゃあなんだか理不尽だ。僕にだって不快感というものが無い訳じゃない。もっと早くに連絡してくれていれば、一緒に対策を練ることができたのに。
でも、既に起こってしまっていることはどうしようもなかった。これで、晴れて僕らはサスペンスドラマの主人公になったわけだ。ハリウッドも夢じゃないかもしれない。
状況は冗談など言ってられないものだった。これから四日間、僕とテラは砂の中の二枚貝のように、二人で小さくなって、この都会の中で隠れていなくてはならないのだ。
幸運にも、僕には外に出てやるべき仕事が無かったけれど、それが逆に悔しかった。できるなら、陽子や、テラを狙っている人々の前で、「今週は忙しいんだ! お前らのせいで仕事が全部パーじゃないか!」と怒鳴ってやりたかった。それができれば、僕の心は少しぐらい晴れるに違いない。
それから僕は、預金通帳を開いてみた。残高は、手紙に書かれていた通り、きっかり3000万円だった。だいたい僕の年収の10倍ぐらいある。恐らくこれは、陽子たちが研究所へのアイデア料などで儲けたお金だろう。だからどうだと言うこともなかったが、これこそが彼らや僕らを危険な状態に陥れた元凶であり、諸悪の根源であるような気がしてならなかった。
この手紙によっても解決されなかった、あるいは新しく生まれた僕の疑問が、いくつかある。
一つは、どうやって陽子が、僕の家の中にこれを届けたのかと言うこと
もう一つは、なぜこのタイミングで、つまりテラが僕の家に送られてきてから2日が経過した時点で、この手紙が送られてきたのかと言うこと。
この手紙に書かれていた内容は、どれも、テラが送られてきた当日に僕に知らされていなくてはならない内容であるように思えた。この手紙の内容を僕が最初から知っていれば、僕は今日、外出したりはしなかったはずだし、テラのことについて、陽子と連絡を取ることは可能だった。第一、今日送られてこようが一昨日送られてこようが、僕はこの内容を拒むことはできなかったのだ。
これにはどんな意図が隠されているんだろう。わざと遅らせたというのなら、それは非常に危険な試みであるし、陽子たちもそれには気づくはずだ。あるいは、そうせざるを得ないような問題があったのだろうか。それとも、これがここに送り届けられるまでに、何か手違いのようなものが存在していたのだろうか。
僕がこの手紙を読み、考えに耽っている間、テラはずっと、段ボールの小包を見つめていた。切れ目がないというその構造に、些かの興味をもったのかもしれない。
しかし、テラは、自分が置かれている状況について、どのように把握しているんだろうか。
「テラ、僕らは、何かとんでもない状況の中にいるみたいだ」
僕が言うと、テラは、もう知っている、と言うかのように瞳を閉じた。恐らく、今回の件で全くの無知だったのは僕だけだったのだ。みんな何かしら自分の状況を把握しているのに、僕だけはお祭りで売られている金魚みたく、誰かの都合でいろいろと転がされ、気づかないうちにどうしようもない場所に来てしまっている。
「僕らはいったいどうすればいいんだろう。もしこちらから行動を起こしたとすれば、すぐさま誰かに関知されてしまうだろうし、かといって何もせずに隠れていても、いつか僕らは見つけられて、とても足下の覚束ない立場に追いやられることになるだろう。何か僕らに打開策は無いんだろうか」
「心配ない」
僕の問いかけに対して、テラは、それだけ言うとクルリと振り返り、寝室の方へ行ってしまった。
何が心配ないと言うんだろう。テラはいつも、僕に論理的な根拠を求めるくせに、自分の答えはいつも不透明だ。それはいつも的を射てはいるが、意図的に真意が隠されている。ここでも僕は置いてけぼりだ。
でも、まあ、テラが心配ないというなら、それは本当に心配が無いんだろう。僕はそう信じるしかない。とりあえず、今のところ僕らはいろいろなものに守られているようだし、世界は平和そうだ。
考えても答えが出ないのならば、考えない方が楽かもしれない。多分僕には、他に考えるべきことがたくさんあるのかもしれない。
結局僕も、ぐったりと疲れていて、一目散に寝室へと向かった。夕食はまだ摂っていなかったけれど、それは後回しでよかった。
とにかく、今は眠りたかった。




