三日目・存在論//風
前話投稿から全く音信不通のまま、数ヶ月を経過させてしまいました。
もしそのことでお気を揉まれた方がいらっしゃいましたら、誠に申し訳なく思います。すみませんでした。
そして、いきなり元日の投稿と言うことになりましたが、今年度中、三月一杯までは、また、満足に更新ができないかと思います。ご了承ください。
最後に、明けましておめでとうございます。
八月の高速道路は、不健康な人間の縮まった血管のように、その中を進むものの快調な進行を阻んでいた。
高速道路を血管にたとえるのは、あながち間違ってはいない気がする。そこには日本という壮大な生き物がいて、その生き物が健康に成長をするためには、道路という名の張り巡らされた毛細血管がどこも詰まることなく機能し続けていなくてはならない。そしてその毛細血管を束ね集約し、大量の物質の移動を可能にする大動脈、大静脈といえるのが、この高速道路のはずだ。
しかし真夏の大動脈は、夏バテしてしまったかのように巡りが悪い。こんなことでは、あちこちに酸素が行き渡らず窒息してしまうのではないかと思えるほどだ。実際日本の物流はこれによって大きく滞っているのだろう。
そして僕とテラは、その苛酷な滞りの中にいた。
僕の車(叔父から貰い受けた、古い型でクリーム色のカローラ)の中は、カーエアコンから送り出される乾いた風によってある程度快適な状態に保たれていたが、それでもハンドルを握る僕の体、そして目には、容赦なく灼熱の太陽光が降り注ぐ。
とにかく太陽と見つめ合うことだけは避けたい僕は、隣で、同じく不良血管の中で滞っている車の方に目を向けた。グリーンのワンボックスだ。見たところ、操縦席に座っているのは若い男で、くたびれたポロシャツを着て、うまそうに煙草をふかし、そしてサングラスをかけていた。
僕は、そのサングラスだけがどうしようもなく羨ましかった。自動車を運転するものの義務としていつも前方に注意を払わないといけない身としては、裸眼で日光を受け止めるのは苦しい。そう思ってその男のことを見ていると、向こうもこちらの視線に気づいたらしく、訝しげな表情をした。が、後部座席にテラの姿があるのを見つけると、少しその警戒の色をほどいた。
僕は、軽くその男に会釈をすると、また視線を前に戻した。まったく風景に変わり映えはない。フロントガラスから見渡せる景色は、地平線に霞むぐらい遠くまで連なった車列と、さらに風景を殺風景なものにする防音壁。まだ目の前がトラックのコンテナでないだけ良いかもしれないけど、それでも長時間同じものが続いていたら飽きる。
僕は子供の頃、滅多に遠出をしない両親に連れられて、一度だけ紅葉狩りに行った記憶を思い出した。なぜ家族で紅葉狩りに行くことになったのかまでは覚えていないけれど、その時の目的地だった紅葉狩りの名所に行くまでに体験した、高速道路の大渋滞の記憶。原因はどこかの料金所で車が玉突き事故を起こしたというものだったが、その時の渋滞は酷かった。
同じ県の中にある目的地に行くだけなのに、半日を車の中で過ごしたのだから、きっと八時間ぐらいは止まっていたんだろう。でも、その時の僕は、特にそんな渋滞を苦にはしていなかったかと思う。僕の家族はなかなか旅行とかに行かなくて、高速道路に乗ることもほとんどなかったし、僕は車や電車や、飛行機なんかが大好きな子供だったから、どこまでも続く車の列に、夢中になって見入っていたのだろう。
さすがに今ではそんなふうにはいかない。今では僕にとって、車の行列なんて何も珍しくないものになってしまった。きっとこの行列が全部象だったりすればそれはそれで面白いだろうとも思うけど、そんな状況はタイかミャンマーらへんに行かないと出会うことはない。
結局、日本人は日本にいる限り退屈な毎日を送り続けるのだし、地球人は地球にいる限り戦争をやめない。どうしようもないことなのだ。
僕は、気になって後部座席のテラの様子を見てみた。彼は、周りの雑音なんて気にもとめず(もちろん車の行列なんてものに興味も持たず)、静かに目を閉じ、沈黙していた。眠っているようにも見えるけれど、僕にはそうじゃないことがよく分かった。彼は、自分の世界に入り込んで自分の心と対話しているのだ。自分を取り巻くすべての出来事を理解するために。その証拠に、ときたま彼の唇は、音には鳴らない密かな言葉を空中に紡ぎ出していた。
僕は、彼の無心な姿を見て、なぜが一つため息を吐いた。考え事をしているときの、彼の姿は美しい。
コンコン コンコン
睡魔と戦いながらも、危うく意識が飛びそうになった僕の耳に、扉をノックするような軽快な音が響いた。僕は驚いて辺りを見回し、その音が、隣の運転手がこちらの車のガラスを叩いている音だと言うことを突き止めた。さらによく見てみると、その運転手は、さっきのサングラスの男だった。
僕は訳が分からなかった。どうしてこの男は、わざわざ僕の車の窓をノックしたりするんだろう。体を乗り出してまで。僕は彼を知らないし、彼も僕を知らないはずだから、こんな状況で早急に伝えるべきことはないはずだし、とくに彼の気に障るようなこともしていないのに。しかし、ノックされた以上、僕は何らかの対応をしないといけない。放っておくと、彼はもっと訳の分からない行動に出る可能性もある。
僕が窓を開けると、男は安心したように息を吐き、僕に対して笑いかけた。なかなか感じの良い笑い方だった。
「もしかして早川さんじゃありませんか?」
サングラスの男は僕に問い掛けた。でも惜しいけど人違いだ。僕の名字は早川じゃない。
「いいえ、僕はあなたの言う早川さんではありませんが」
僕が言うと、男はさっきよりいっそう怪訝な顔をした。
「あれ、おかしいな。後ろに乗っているのはテラ君じゃないですか?」
テラ君? どうして彼はテラの名前を知っているんだろう。そう思ってから、僕はその理由に思い当たった。テラの両親、つまり陽子とその夫の姓は早川だった。
「はい、確かに後ろに乗っているのはテラです。もしかしてあなたは、早川 徹男さんのお知り合いですか?」
早川徹男、陽子の旦那さんの名前だ。
「ええ、そうです。私は東雲新聞社の記者をしている戸田です。少し前に、テラ君の取材をさせていただきました」
なるほど、そう言う繋がりか。
「僕はテラの母親の従兄弟で、今回は彼らの都合でテラを与らせてもらっているんです」
「そうですか。いや、いきなり失礼しました。ついテラ君の成長ぶりが気になったもので。何せテラ君は天才ですから」
僕は、彼の言葉で久しぶりに、テラが発明の天才としてそこそこ有名であることを思い出した。僕はテラがどんなものをこれまでに発明したのかは知らないが、とにかく彼が天才だと言うことは確かだろう。国語辞典の文章を一字一句完璧に覚えている六歳児なんてそうそういないだろうし。
「ははは、確かにテラは天才ですよ。三日も一緒に過ごしていれば分かります。でも、やはりまだ精神的には不安定なようです。だから、あんまりメディアへの露出は彼にとって良い影響を与えないと思うんですが」
「ええ、それは私にも分かりますよ。その歳で精神的にも安定されてちゃ、敵わない」
確かにそうだ、と僕は思った。
「でも、テラ君は、多くの人にその名前を知られてしかるべき発明をしてきたんですよ。そのことを我々が報道しないわけには行きません」
「テラはどんな発明をしたんです?」
僕が訊くと、戸田は「知らないの?」と、無言の内に表情で僕の無知を責め、呆れたように僕にテラの発明を列挙した。
「いいですか? テラ君は、LED電球の最大発光量出力回路やアルミ缶の強度を飛躍させる製造方法、焼却炉の排煙を無害化する光化学フィルターの構造基盤などなど、多岐にわたる最高水準の新技術を、現在六歳という若さで、次々と世に送り出しているんです」
最大発行量出力回路? 光化学フィルターの構造基盤だって? 僕は、後部座席で今も沈黙を守っているテラの姿を見つめた。戸田の口から聞かされたテラの発明の数々は、僕が想像していたそれとは全く違っていた。僕が想像していたのは、廃品を再利用して作った自動皿洗い機だとか、手に装着するだけで魚の鱗が取れる手袋だとか、そういう所謂アマチュアの発明大会で出品されるような発明品だったけれど、テラのそれは、それとはまったく次元の違うものだった。
「そんなのを、子供が考えつけるものですか? 第一テラは、そんなものを作り出せるような研究所を持ってるわけじゃないんでしょう」
「ええ、私だって初めてテラ君のことを聞いたときは、耳を疑いましたよ。もちろん、テラ君は今言ったようなものを実際に作っているわけではありません。ただ、世界中の化学研究の論文の中から有用な項目を選び出し、それらを複合させて論理的に新技術を立証し、構想することが彼にはできるんです。そして、彼の両親がそれを文章と設計図に具体化して、世の技術者に送り出しているんです」
僕は、彼の説明を素直に割り切れる気持ちにはならなかった。彼が僕をだましているようには見えなかったけれど、だからこそ、腑に落ちない点が山ほどあった。まず第一に、陽子やその旦那が、そんなおおそれた活動をできるものだろうか。
陽子はただの旅行代理店のOLであり、旦那はただの私立探偵なのだ。LEDがどうたらこうたらとか、光化学フィルターがどうたらこうたらとかいう特殊な世界に属する人間では決してないはずだ。それとも、これは僕が偏見を持っているだけだろうか。旅行代理店業界ではOLが高い電算技術をもっているのは当たり前で、私立探偵のほとんどは依頼のない日に物理学の重たい本を開いているのだろうか。
「なかなか、そういう生活というのは想像が付きませんね。どうやらテラは幼稚園にも行っていないようですし。僕は彼らの生活をあまり知らないので、少し心配ではありますが」
戸田は、同感だ、という風に首を小さく揺らした。僕は、きっと彼にも子供がいるのだろう、ということを感じた。彼の目は一新聞記者としてではなく、一人の父親としてのものになっているように見えた。
「確かに、早川さんたちの生活は、かなり特殊なものですからね。テラ君を幼稚園に通わせていないこともそうですが。やはりテラ君の安全のために、早川さんは常に気をつけないといけないですから、かなりのストレスは溜まっていると思いますよ。二人とも」
テラの完全のため? とてもいやな予感のする言葉だった。いったい何がテラを危険にさらすのだろう。そう考えると、少しの間でも、答えは山ほど出てきた。そしてそれらはどれも、僕が映画の中ぐらいでしか見たことのない世界だった。
「テラの安全って、テラを狙っている人がいるとか、そう言うことですか?」
あまり深く入り込みたくない話題ではあったが、それは、僕が聞かなければいけない事項のような気がした。
「そう言うことになりますね。それに、狙っているのは人というより、組織と言った方がいいかもしれませんね。そこそこの研究技術を持っている大企業にとっては、テラ君の発想力を独占することができればまさに百人力でしょうし、一歩間違えば兵器開発なんかにも利用されかねません。それに、テラ君に恨みを持っている人も多いでしょう」
「テラに恨みを持つ人?」
「ええ、そうです。いつの時代も革新的な才能は、旧套を守りたがる人々に煙たがれ、時には恨まれるものです。実際、テラ君の新技術によって技術開発系統の転換を迫られた企業が、役に立たなくなった、工場や子会社を切り離す例は多々あるんです。技術力を売りにしていた小工場なんかは、それでもうお終いです。そりゃあ恨みの一つや二つは持たれます。今後自分たちがそうならないように、早い内に手を打っておこうと思う人もいるでしょう」
この話を聞いていて、僕は脇の下あたりがじんわりと汗ばんでくる感覚を覚えた。それも生暖かいものではない。
どうやら僕は、いつの間にか(しかも他人の都合で)大きな爆弾を抱え込んでしまったらしい。しかもそれは、めしべからフェロモンを放出し次々と虫をおびき寄せる虫媒花のように、あらゆる危険を引き込んでしまう。言わばテラは、とても引力の強い、とても小さな惑星だった。彼はいろいろな物や人を引きつけ、魅了する代わりに、常に隕石の襲来に耐えなければならないのだ。
陽子は手紙で、テラを一週間預かってくれ、と言った。彼がとても不安定な立場にあると言うことに触れずに。そして今、二日あまりが経過し、まだ五日間が残っている。昨晩からずっと陽子に連絡を取ろうとしているが、いつも陽子の携帯は圏外か通信不可。
いったいどうやってテラを守っていけばいいんだろう。自分の守り方もまだよく分からないのに?
「少し表現が過激になりましたが、とにかく、そういう危険性がありますので、テラ君をしっかり守ってやってください。テラ君のご両親がテラ君を幼稚園に通わせないのも、きっとそのためです。私も、今回はテラ君が心配で、あなたとお話しさせて貰ったんですよ。テラ君の存在というのは彼の重さだけではないんですから。……少しお節介でしたかね?」
戸田は、僕の不安げな表情を見て、申し訳なさそうに目を落とした。僕がいらないお節介を焼かれて苛立っていると思ったらしい。でも、もし僕がこの事実を最初から知っていたとしても、彼にはきっと腹を立てたかったろうと思う。なぜなら、彼も本気でテラのことを心配していたから。きっと彼も、テラに引きつけられた一人なんだろう。同じくその一人である僕には、それが分かるような気がした。
「いえ、そんなことないです。僕は従姉妹の方から何も聞かされていなかったので、あなたにそういったことを教えていただけて助かりました。このまま何も知らずに行ってたら、大変なことになってたかもしれないですよ。今後は気をつけさせてもらいます」
僕が感謝の気持ちを込めて微笑むと、戸田もにっこりと笑った。とても親切な笑みだった。その時初めて、僕は戸田の右頬に少し大きめのほくろがあるのに気づいた。僕の経験からして、右頬にほくろのある人に、意地の悪い人はいない。なんだか僕は少しうれしくなった。
そこで、今まで停滞していた車列が、動き出しそうな気配を見せた。どうやら戸田とは、ここでお別れのようだった。彼は、それに気づくと、慌てて懐から名刺ケースを取り出し、その中の一枚を僕に渡した。僕もそれに応えて、普段滅多に使うことのない自分の名刺を彼に渡した。
僕の名刺を見た彼は、少々驚いたようだった。
「へえ、那珂川さんですか。まだお若いのに大変ですねぇ」
「いえいえ、運がよかっただけですよ。それに、戸田さんと比べたら、私の功績なんて無いに等しいですから」
「ハハハ、謙遜なさることはないですよ。そのお年で大学の教授さんでいらっしゃるんだから」
「安月給の客員教授ですよ。それじゃあ、またいつか」
僕は、そう言ってウィンドウを上げ、車の流れに従ってアクセルを踏んだ。サイドミラーから、戸田がお辞儀をしたのが見えて、僕も同じように頭を下げてお辞儀した。
彼のような、まともな大人と会話をしたのは久しぶりのことのような気がした。ちょっと家に篭もりすぎだったかもしれない。少しでも出歩いてみれば、出会いはけっこう簡単に見つかるものだ。
しかし、僕の胸にはまだ一つ、腑に落ちないことが残っていた。
昨日テラは、いつも昼ご飯はインスタントラーメンで済ましていると言った。つまり、陽子の家には昼間、テラしかいないということが予測される。果たしてそれは、守られている状況と言えるのだろうか。確か陽子の家は、何の変哲もない都会のマンションだったと思うが。
まあいい。それはあとでテラから聞けば分かることだ。今まで何もなかったようだから、きっと何か方策があるんだろう。
僕は、ミラー越しに後部座席のテラを見た。彼は未だに目を閉じて沈黙を守り続けていた。唇は長い周期で揺れていた。
そこにはやはり、確かな引力というものが存在していた。すべてのものを引きつける、無数の手のひら。それは優しく、そしてストレートに、人の心の大事な部分をまさぐり、掴んでしまう。そしてそれはテラの外面的な美しさからではなく、その内側にある、とても真っさらなところから伸びていた
車から降りると、カーエアコンとは違う、涼しくて爽やかな、自然の循環を感じさせる風が僕の耳をなでた。小高い丘の上では、太陽との距離が少し近くなった分だけ、その光はいくらか友好的になり、見下ろすと、友好的だが親しみのない景色が広がっていた。見たところ、天は光で満ち、下界はCO2で満ちていた。
僕とテラは、朗らかに木漏れ日のちらつく林道を抜けて、こじんまりとした、小さな霊園に出た。
僕とテラ以外には、その霊園に墓参りをしに来ている人は誰もいなかった。そのおかげで、そこはとても森閑としていた。たまに大型の鳥が羽ばたく音がする以外は、全くと言っていいほど音がなかった。
その中に並んだ二十基ほどの小さなお墓が、この場所が浮き世とは完全に隔離された、違う時間の流れる空間であることを示していた。
沙耶の墓は、一番奥の列の左から三番目にあった。もちろん、墓の位置が変わることは無いのだが、それでも、ここへ来るたびに一つずつくらいずれていっているような気がする。
それくらい、僕にとってとても不安定な場所なのだ。
沙耶の墓は、石切場から出た石くずを四角く加工して突き刺しただけのような、あまりにも簡素なものであったが、その当時は僕も含めて、沙耶の関係者で立派な墓石を買ってやれるほどの余裕があった人はいなかったし、沙耶自信も、そんなものは求めていなかっただろうと思う。
沙耶の両親は、彼女が死んだ後すぐに離婚してしまった。もともと彼らは沙耶の記憶が狂い始める前から別居をしていて、母親はほぼ蒸発状態で連絡が取れず、父親は、深刻な娘の記憶障害に関与することを放棄し、いつも繁華街をほっつき歩いていた。
もしかしたら、彼らが沙耶の記憶障害の原因だったのかもしれないが、今となっては彼らをどう責めることもできない。
結局、沙耶の葬式の日に、母親はついに連絡が取れず、父親も、居心地悪そうにそわそわと焼香を済ませただけだった。
そういう訳で、僕以外に誰も墓参りに来なくなった今も、沙耶の墓が風化せず、汚れることなくいるのは、この霊園の管理人が、毎朝丁寧に掃除をしてくれるからだった。
僕は、柄杓でひんやりとした水を沙耶の墓石にかけてやり、タオルで、僕にしか落とすことのできない汚れを拭った。こうしていると、そのころ、一つのベッドの中で、沙耶とお互いの体をなであったことが思い出された。
僕は、ゆっくりと彼女の頬をなで、肩をなで、背中をなで、乳房をなでた。
彼女の体は、彼女の記憶のように不完全だったけれど、どこまでも純粋で、何色にも染まっていなかった。
僕の手のひらから滲み出た色が、その無垢な肌を藍色に染めていくのが感じられた。
彼女もそれに応えるように、僕の頬をなで、背中をなで、腹をなで、包み込むようにペニスをなでた。
それはとても濃密な時間で、僕らにとっては神聖な儀式のようなものだった。そうしていることで、僕らはいつまでも僕らであり、僕らはどこまでも僕らであった。
その時を思い出すように僕はしばらく、沙耶の墓をなでるように拭いた。再び、僕らが僕らになれる時間だった。
テラは、僕の様子を黙って見つめていた。それは、いくらか観察的で、とある種族の慣例を学び取ろうとしているような視線だった。
僕は、墓石を拭き終わると、静かに目を閉じ、手を合わせて祈った。テラもその間、合掌はしなかったが、そっと項を垂れ、黙祷していた。
沙耶に話しかける言葉はそこに着くまでにいろいろと用意していた。「こっちは元気でやってる」とか、「今でも君を愛してる」とか。でも、いざ対面すると、何も考えることができなくなった。これじゃあまるで初心な中学生だな、と自分がおかしくなったが、それでも沙耶に話しかける言葉は見つからなかった。
そこには照れがあったわけでもないし、後悔があったわけでもなかった。それなのに、僕は本当に一言も、一文字さえも彼女に捧げることができなかった。
どうしようもなくて、僕はそのまま目を開けた。その途端、堰を切ったように伝えたかった言葉が溢れてきた。でも、それはもう遅かったのだ。僕は大事なチャンスを逃してしまった。もう訪れないかもしれない大事なチャンスを。
結局、そのときの僕には準備が足りなかったんだと思う。僕は沙耶に対して、あまりにも軽い気持ちで接しようとしてしまったんだろう。
そうでないとしたら、彼女がまだ、僕の言葉を聴くこと望んでいなかったのかもしれない。もしかしたら彼女はまだ、深い混沌の中で彷徨っているのかもしれない。もしそうならば、僕はすぐ沙耶のそばに行って抱きしめてやりたかった。
でも、それをすることはもう不可能なことだった。僕は、次のチャンスが来るまで、どれだけ辛い時間が経ったとしても、待ち続けなければいけない。
「ねえ」
テラが僕に声をかけた。それは珍しく、僕をいたわるような、優しくて切ない声だった。テラからそんな声を聞いたのは、初めてだったかもしれない。
「どうして人は、墓を建てるの?」
それは、いつも以上に難解な質問だった。どうして人はお墓を建てるんだろう。考えたこともなかった。なぜ、人が一人死ぬたびに、お墓なんて、大それたものが必要になるんだろう。
「うん。それは僕もはっきりしたことを知らないな。民俗学は僕の専門分野じゃないんだ。でも、僕はそれについて、自分の仮説をいくつか立てることができる。聞く気はあるかい?」
テラは小さくうなずいた。僕も、決して自分の仮説に自信があるわけではなかったけれど、それでも、テラの質問に対して率直に答えることが、僕にとっての唯一の正解だった。
「人はみんな、いつかは死んでしまう。老衰であれ、事故であれ、自殺であれ。そしてその人が死んでしまったら、その人の体は何の機能も持たない、ただの脱殻になってしまう。不謹慎な言い方だけど、その脱殻を放置しておくと衛生的によくないから、それらは火葬なり、水葬なり、土葬なりされていつかは原始的な物質に分解されてしまう。
そうすると、その人が生きていた最大の証拠は、すぐに消えてなくなってしまう。たとえそれがどれだけ皆に愛されていたり、憎まれていたりした人であっても、いつかは人々の記憶から消えてしまう。勿論キリストとか、クフ王とか、未だに人々の記憶から消えず、その遺骨なりミイラなりが残っている例もある。でも、そんなの奇跡みたいな確立さ。
そして、人が死んでしまった後、その人の意思や魂がどこに行くのかは、実際にそうなってみなくては分からない。
もし、天国とか、転生とかがなかったら、自分が死んでしまったとき、それっきりなんじゃないのか、そう考え始めた人が、ずっと昔にいたんだろう。自分が死んでしまったら、生前いくら自分を愛していると言ってくれた人々も、自分のことを忘れてしまうんじゃないか。自分が産んだ技術だけ残り、自分の業績と栄誉は忘れ去られてしまうんじゃないだろうか。そう考えるのは、人にとってすごく苦しいし、切ないことなんだ。
だから、人々は、自分が生きていたことを、そして自分の業績を証明するために、その目印を作る。それらは、あるものはその中に入るべき人が死ぬ前に作られ、あるものはその後につくられる。でも、結局やりたいことは同じだろう。自分の存在していた影を、分かりやすい具象で、後世に感じ取ってほしいんだと思うよ。
そういう虚しい営みが現在まで反映されて、人が死んだら、取りあえずお墓を作ってその中に納めてやろうっていう慣習ができたんじゃないかと思う。まあ、現代ではそこまで意識してお墓を建てる人もそんなにいないと思うけど、それでも大金持ちなんかが、何億円もするような、巨大でピカピカのお墓を建てたがるのはそのいい例だと思うよ」
「人は、自分が存在していたことを忘れられたくない。だから、自分が生きていた証明として、目印を作る。それが墓」
「僕の考えではね」
そう、答えてしまってから、僕は、沙耶の墓のことを考えた。おそらく、僕がこの世にいる限りは、沙耶がこの世に存在していたことを僕が証明できる。
ならば、僕がこの世からいなくなってしまったとき、沙耶の存在を誰が証明するのだろう。たとえここに、沙耶の存在を証明できる確かな目印があったとしても、それを意図して証明する人がいなければ、それは永遠に証明されないのだ。
僕は、この身が朽ち果てるまで、沙耶が存在していたことを証明し続けなくてはいけない。そして、少しでも、彼女が存在していた意味を見つけていかなくてはいけない。それは僕にしかできないことであり、沙耶を愛した僕の義務だ。
僕が深呼吸をしたとき、世界の空気は、俄かに動き出したような気がした。風が吹いている。勿論、この風が僕に何かを語りかけるわけではないし、僕をどこかへ連れて行くわけでもない。僕に語りかけ、僕の進む方向を決めるのは、唯一僕だけだ。
その意思が、風となり、大地の鼓動となって僕に語りかけ、僕を導く。
僕は耳を澄ませた。そこには、けたたましい轟音が鳴り響いていた。世界は地軸ではなく、僕とテラを中心にして、猛スピードで回転をしていた。
そして、僕の回転軸と、テラの回転軸が紙一重触れ合う瞬間瞬間に、世界の回転速度は増していった。




