長い長い僕の話・2
残酷な描写が含まれますのでご注意下さい
十日ほど前、つまり僕が名古屋に越してきて、沙耶のいる書店に通い始めてから十日後の朝、彼女は朝目覚めたとき、いつもの無力感とは別の、形を持ったイメージを感じた。
それは記憶のリピートが始まる前にあったものではなく、どこかで新しく生まれたもののようだった。それこそが、彼女が永遠の繰り返し(リピート)から抜け出す第一歩だったんだ。
といっても、彼女は毎朝、自分が永遠の繰り返しの中にあることも忘れているから、そのイメージの持つ重要性に気づくのには時間がかかった。そしてそれに気づき出す頃には日が暮れて、また次の日になっていた。でも、次の日の朝も、同じように何らかのイメージが呼び起こされた。そして不思議なことに、昨日、同じイメージが呼び起こされたことも彼女は覚えていた。
初めて彼女が、永遠の繰り返しが始まる前の日ではない昨日の記憶を手に入れた瞬間だった。
それと同じことがそれからも続いた。呼び起こされるのは、特定の一つのイメージだけだったけれど、そのイメージは、日を追うごとに強く、はっきりとした物になっていった。
そして彼女は気づいた。そのイメージが僕だということに。
その結末を聞いたとき、僕は一体どうすればいいのかまったく分からなかった。その話を信じて良いのかどうかも分からなかった。だって、どこの誰が、あなたのことしか覚えていないの、と言われて、動揺せずにいられるだろう?
僕たちが初対面であることは、確かめる必要もなかった。僕は名古屋に越すまでずっと神戸に住んでいたし、彼女は名古屋で暮らしていたんだから、僕らの間に接点は無い。
それなのに僕らは、何か眼に見えないものによってリンクされてしまった。そしてそのときの僕は、それが運命としか言いようがないと思ったんだ。
それから僕らは、その日の内に同じところに住むことにした。もちろん寮の中には勝手に連れ込めないから、寮を解約する申し込みをして、沙耶の家で一緒に暮らしはじめた。なぜかって言えば、彼女が僕の記憶しか残せないのならば、僕が少しでも長い間そばにいれば、その分多くの、僕以外の記憶も残すことができるかもしれないと思ったからだよ。
で、実際にそうしてみたら、次の日の朝、起きてきた彼女は、昨日僕と一緒に食べた晩ご飯を、正確に思い出すことができた。僕らの試みは成功だったんだ。
そんな結果が得られると、僕らはすぐに互いに惹かれ合うようになった。あたりまえだね。自分が誰よりも必要としている相手と、自分を誰よりも必要としている相手だったんだから。
僕らは時間を掛けて、深く、濃密に愛し合った。君には言えないようなこともいろいろあった。何はともあれ、沙耶は失われていた明日を取り戻し、僕は誰かに強く必要とされる生き甲斐を見つけた。たくさん話をし、いろいろなところに出かけ、もちろん料理も作った。毎日毎日、一生忘れることのない思い出を作った。そう、僕と沙耶なら、それが作れたんだ。
そのときの僕は、そんな日々がずっと続くのだと思っていた。でも、やっぱりそんなにうまくはいかなかったよ。今現在、沙耶は失われてしまっているんだから。
沙耶の記憶に、また異変が起こったのは、僕と沙耶が出会ってから二年が経った時のことだった。その頃には、沙耶の記憶力はかなり回復していて、僕と一緒でなくても、ある程度のことは記憶できるようになっていた。その分、互いの必要性は薄まってきてはいたけれど、それでも二人は、堅く結ばれていた。
でも、ある日、それは突然狂ってしまった。
その日の夜、僕がふと目を覚ますと、いつも隣で寝ているはずの沙耶の姿がなかった。不思議に思って起き上がると、洗面所の方から沙耶の悲鳴が聞こえてきたんだ。僕が慌ててそこへ行ってみると、沙耶は洗面所の床に座り込み、顔を両手で覆い、肩をぶるぶると震わせていた。沙耶は、何かに怯えているようだった。
「どうしたんだ!?」
僕が驚いて問いかけると、彼女は自分の爪で引っ掻いたと思われる、赤くめくれあがった傷が付いた顔を上げて、それから僕に抱きついた。
「怖いの! もう訳が分からないのよ! 自分が誰なのかも、あなたが誰なのかももう分からないの!!……………ねぇ……私、どうすればいいの……? 」
沙耶は泣きながら喚き散らし、最後には精気が消え失せていくかのように、静かになってしまった。沙耶は明らかに混乱していた。僕も何が起こったのかまったく分からなかった。ただ、僕は彼女を強く抱きしめることしかできなかった。
少し時間が経つと、彼女は僕の腕を振り払い、拒絶するように僕の体を押しのけると、何かに取りつかれたみたいに家から飛び出していった。
そのとき、僕の耳には、近くの踏切の警告音が聞こえた。
まさかと思って家を飛び出し、彼女が走っていった方向で僕が見たものは、踏切を飛び越えて線路に進入した彼女が、けたたましいブレーキ音を響かせながら突進してきた電車に撥ねられ、宙を舞う瞬間だった。
僕の目の前に重い暗幕がおろされ、世界が反転した。すべての感覚が麻痺していく中で、彼女を抱きしめていた腕の中のぬくもりだけが、微かに感じられた。
そのときの光景を目撃していた人によると、僕はそのまま失神していたらしい。
それからの数年間は、僕にとっても、永遠の繰り返しのように思われる日々だった。
僕には明日がやってきたけれど、決して“僕が望んだ”明日はやってこなかった。
その間の記憶は、今でもほとんど思い出せない。どうやって卒論を書いたのかも分からない。でも、気づいた頃には僕は何でもない日常生活に身を置いていて、特に僕を必要ともしていない人たちに囲まれていた。
きっと、防衛本能が働いて、沙耶に関わる記憶はかちこちに凍ってしまって、蚕の繭のようなものに何重にくるまれてしまったんだろうね。
これが、僕と、僕の最も重要な第三者にまつわる話さ




