長い長い僕の話・1
今から十年ぐらい前になるけれど、僕は沙耶という女の子と付き合っていて、同棲もしていたんだ。僕にとっての一番重要な第三者は彼女だったんだよ。
そのとき僕は大学生で、彼女は書店のアルバイトをしていた。僕らが始めてであったのもその書店だった。
僕が名古屋の大学に進学して、寮生活を始めてから、僕が最初にしたことは書店探しだった。何せ僕は、その頃三度のなんとかより読書が好きな文学少年だったからね。で、寮の近くを歩き回った結果、そこそこ品揃えがよくて、古書も多い、そして何より寮の窓から見つけられるほど近くにある書店を見つけたんだ。名前はどんなだったか、もう忘れたけど、確か創業者の名字を取っただけの名前だったと思う。
僕は、一回店内を見回しただけでその書店を気に入った。何から何まで、僕の好みに合っていたからね。磨りガラスを通した朝日のような照明や、長年住み慣れた家に対してのみ抱けるような温もりを感じさせる装飾、頑として脇役に徹する静かな色調の書棚。すべてが百点だった。ここで買った本ならば、どんな陳腐な内容のものでも、みたことのない陳腐さとして輝きを発しそうにも思えた。
そんな店内で、僕が唯一違和感を覚えたものこそが、レジで一人、客さえも寄せ付けないような雰囲気を作り出していた、沙耶だった。
僕は気になって、書棚越しに彼女の様子を伺ってみた。ロングヘアーで白い肌。年は自分と同じくらい。そのときの彼女は視線を水平よりも少し上に向け、両手はだらんと腰に垂らし、まるで何も考えていないようだった。彼女にしまりを持たせていたのは、岩のように固く結ばれた口だけだったな。
僕はそのとき、まるで今まで感じたことのないような好奇心に駆られた。彼女がどんな人なのか、直接話して知りたいと思った。なんでいきなりそんなことを考えたのかはわからないよ。もしかしたら、僕にとって、あの書店で唯一の異物だった彼女に、強烈なアクセントのようなものを直感したのかもしれないな。
僕は、適当に安そうな本を選んで、自然な感じを装ってレジに向かった。特に何か言う言葉を思いついた訳ではなかったけれど、とにかく彼女を近くで見てみたかったんだね。
で、実際にレジ台を挟んで彼女と対面した。正直、第一印象は僕のタイプとは言い難かったな。別にきれいじゃなかったと言っているんじゃないよ。彼女は一般的な基準からすれば、十分にきれいだった。でも、僕が傾向として好感を持ちやすいそれとは違ったきれいさだった。それに何より、彼女の瞳には、何もうつってはいなかったから。
そのときの彼女の瞳には、目の前の僕も、店内の風景も、この世の何もかもがうつっていなかった。彼女の瞳は、物理的に、ただ周囲の光を反射させているだけだったんだ。
僕は、彼女の第一印象に対して、廃人のようだと思った。こういう言葉は使うものじゃないのだとは思うけれど、でも、この言葉が一番しっくりくる表現なんだ。多分。
それで僕は、さらに彼女に対して興味を抱いた。彼女のように異常な無関心さを持っている人間に初めて出会ったからというのが理由だと思う。
「こんにちは」
「こんにちは」
僕と沙耶が、初めて交わした会話だ。でも、厳密に言ったらこれは会話なんかじゃないな。挨拶でもない。なぜならそこには心のやりとりが込められていなかったから。
「今日この町に越してきたんだ。いい本屋さえあればいいと思ってたんだけど、ここは最高だね」
そう言いながら、僕は本を彼女に差し出した。今考えてみれば、笑いたくなる誘い文句と一緒に。
でも、彼女はその本を受け取ってバーコードを読み取り機にかけただけで、「ありがとう」とも、「そうかしら」とも言わなかった。言ったのは「298円です」だけだった。
でもその声は、以外と美しく、僕の心を揺さぶる波長だった。そのころにはもう、猫なで声でぶりっこぶる女子がだいぶいたけれど、女性本来の美しい声を久しぶりに聞けたきがした。
結局、その日僕が交わした言葉はそれだけだった。でも、僕の沙耶への興味はさらに増していくばかりだった。
その日から、僕は毎日、大学の講義が終わるとその本屋に通ったんだ。本を買うふりをして、彼女の様子を見るためだけにね。
彼女は一週間、月曜から土曜まで、同じところで、同じようにして立っていた。店が閉まった後でも、次の日までずっと同じところに立っているんじゃないかと思うほどだった。そして同時に、僕がその書店にいる間は、ほとんど客の出入りは無かった。あまり流行ってはいないらしかった。もしかしたら、あの店員がいるからかもしれない、とも思ったぐらいさ。
そうして十日ぐらいが経つと、僕が本を買うときの彼女の反応に、変化が見られ始めた。それは最初は小さなしるしだった。額に髪の毛ほどの細さのしわが寄るぐらいだったけれど、それからまた更にすると、彼女は僕を目の前にするたびに、瞳を小刻みに揺らし、本の値段を言おうとしては言葉が詰まった。
そして二十日が過ぎたとき、彼女は、自分から僕に声をかけたんだ。
本を買い終わって、店から出た僕を追いかけてきた彼女は、戸惑いと焦りを含んだ声で、「待って」と言った。
僕はその時とても驚いて、ついさっき彼女から手渡された、本の包みを落としそうになったのを覚えている。まさか彼女がそんな行動に出てくるとは思わなかったからね。
「あなたはいったい誰なの?」
続けて彼女はそう言った。僕はそのとき、毎日彼女を見るためだけに、書店に来ていることを気づかれたのかもしれないと思ったんだ。でも、そうじゃなかった。それにしては、彼女はとても切羽詰まっていた。
「僕? ……僕の名前は匠護だけれど」
僕は、そう答えることが正しいのかどうかも分からないまま答えた。
「匠護さん……ねえ、お願い。あなたと話がしたいの……」
そのとき、僕は意味が分からなかったね。彼女と話してみたかったのは僕の方だったのに。でも、そのときもっと困惑していたのは彼女の方だった。
その後、断る理由もなかった僕は、彼女の案内で、しなびた小さな喫茶店に入った。小さくて上質な資本が巨大で粗雑な資本にひけを取り始めた時代だったから、筋向かいで、看板をぴかぴかに光らせ賑わっているハンバーガーショップとの対比もあって、それはそれはいっそうしなびて見える喫茶店だった。
二人がけには些か小さすぎるテーブルの上に、注文された(そして手をつけられることのない)コーヒーが置かれると、彼女は静かに語り始めた。
彼女の話は、一度聞いただけではとうてい整理のできないような、とても込み入った話だった。
沙耶には、他には例の見ない、重大な障害があった。記憶を長期間脳に留めておくことができないというものだ。
確かに記憶というものは、いつかは抜け落ちていくものだけど、でも彼女の場合は、その日得た様々な情報を、次の日、朝起きるときまで覚えていることができなかった。その日であった人の顔も、その日見たニュースも、その日に知り、感動し、考えたことすべてを、明日に繋げることができなかったんだ。そしてそんな状態が、彼女が高校生だった頃から、五年以上続いていた。
つまり彼女は、高校生の時までの記憶と、その日に記憶したこと以外は、すべての引き出しの中身が空っぽなんだ。そして必然的に、彼女のすべての成長はその高校生時の最後の記憶の日から止まっている。
何か新しく始めようと思っても次の日には何を始めたか覚えていないから、始めようがない。だから彼女は高校の時のアルバイトを今でも続けている。
朝になれば、今日も高校に行かなくちゃと毎朝思う。しかし、壁に掛かっているカレンダーの年月日を見て、もうすでに自分が高校生ではないことを知り、茫然とする。時には深い悲しみを感じ、声を上げて涙を流す。
窓から外を見れば、見ず知らずの人たちが、忙しそうに町を歩いている。そのうちの何人かは、昨日知り合った人かもしれない。でもそれを彼女は覚えていない。だから、誰かと関わることもできない。
彼女にとっての昨日とは、高校生活を送っていた昨日であり、今はもう高校に彼女の座席はない。いや、高校だけでなく、どこにも。
そうした無力感にとらわれて午前を過ごすと、書店でのバイトの時間がやってくる。彼女は仕方が無くその書店へ足を運ぶ。まだ自分はこの店でアルバイトをしているのだろうかという不安を抱きながら。
無事に一日の仕事が終わると、少しのアルバイト代がもらえる。しかし、彼女が記憶を失ったのは給料が支払われた次の日だった。だから彼女は思う。どうして週給制のはずなのに、どうして二日続けて貰えるのだろうか、と。とまどう彼女に、毎回店長は、「君が記憶をなくしてから、間違いが起こらないために、日給制にしたんだよ」と告げる。彼女は、またも言いようのない悲しみに襲われる。
そんな彼女の話を聞いていると、僕は胸が苦しくなって、息が詰まりそうだった。世の中には、これほどまでに残酷なことがあるのだろうかと思ってね。
毎日毎日が同じことの繰り返しで、進歩もなければ後退もない。もしそれがあったとしても、次の日には忘れている。こんな生活に意味を見いだすことができるのだろうか。
明日を願いながら眠りについても、彼女には明日が来ることはないんだから。
でも、本題はこれからだと彼女は言った。なぜ私があなたを呼び止めたのかを話したいと彼女は言った。




