二日目・(中)朝飯後
「ごちそうさま」
「どうだった? 僕が作った朝ご飯は」
僕は、テラが食べ終わったことを確認して、聞いてみた。本当は彼が食べている間に、話題作りとして聞いてみたかったのだけど、彼は僕の作った料理を食べている間、殆ど一言も口をきかなかったし、喋り掛けられることを頑なに拒むような雰囲気を漂わせていた。無表情な中でも、彼は感情表現が豊かだった。
「匠護は料理がうまい?」
褒め言葉の語尾が上がり調子になっていることに、僕は軽快な違和感を感じた。
「うむ、それは僕に聞かれても困るな。それは食べた人が決めることだから。とりあえず、不味くはなかった?」
テラは、例のようにほんの少しだけ頷いた。不味くは無かったらしい。それはよかった。一週間不味い物をいやでも食べなければいけないというのは、不可抗力でも許せた物ではない。
「それはよかった。それじゃあ、僕の作った出汁巻き卵はどうだった?」
「……あれは出汁巻き卵ではない」
一瞬の沈黙の後、テラはそう答えた。僕は思わず吹き出してしまった。それはそうだ。ドーム状にふくらんだオムレツ的卵料理を、人は出汁巻き卵と呼んだりはしない。OK、僕の質問が悪かった。そう思った僕は、悪いことをしたと思いつつも、今まで我慢してきた何かが吹っ切れて、笑いが止まらなかった。
「ハハハ。確かにあれは出汁巻き卵じゃなかったな。ごめんよ、テラ。でも、今日気づいたんだけれど、僕は出汁巻き卵を作ることができないんだ。卵焼き器もないし。昼ご飯と夕ご飯には注文通り作るから許してくれ。卵焼き器もそのうち買ってくるよ」
「別に気にしない」
口元をピクピクふるわせながら許しをこう僕に、彼は素っ気なく言った。語調からすると。実際に彼の気にはそれほど障っていないらしい。まあ、よかった。
僕は一安心して一度、深呼吸をすると、今し方朝食を食べるのに使った食器たちを何枚も積み重ね、一気に両手に抱えて流しまで持って行った。二人分の食器を一度に洗うのは久しぶりだ。僕は一瞬、沙耶と同居していたときのことを思い出した。が、すぐにそのことは頭の中から振り払った。今はもうどうでもいいことだ。
鼻で最近はやり(かどうかは分からないが、自分の好きな歌だからそうであることを願う)の歌を歌いながら食器を洗っていると、後ろの方から、テラが僕に話しかけた。
「どうして匠護は料理がうまい?」
「ん、君は僕の料理がうまいと思うかい」
テラは小さく頷いた
「陽子と僕ではどちらがうまいと思う?」
「匠護」テラは迷うことなく答えた。作った人に対して下手だと言うこともそうそう無いと思うが、テラの口調からは阿ったような色はなかった。まあ、6歳でそこまで身につけられていては堪らない。しかし、陽子も僕に料理で負けているようじゃまだまだだな。ところで……
ところで、出汁巻き卵が作れなくても陽子より上手いと思うかとも聞こうかと思ったけれど、やめた。話しが面倒になりそうだったから。テラが上手いというのなら、それで良いじゃないか。
「どうして匠護は料理がうまい?」
テラは最初の質問を繰り返した。彼が本当に僕の料理を評価しているなら、僕も何かしらの答えを返さなければいけない。
「それは多分、僕が一人暮らしをしているからじゃないかな」
「一人暮らしをすると、料理がうまくなる」
テラは僕が言ったことを反芻した。そうすることは彼の癖らしい。多分これは極めて良いことだろう。人が重要な話しをしていても、ただひたすらに「うんうん」とか「はいはい」とか相槌だけ打って、ろくに聞いていない人が多い中で、彼はそうじゃない人間だった。そういう人間は、やはり人並み以上に人の話を記憶し、理解している。その分僕も真剣に相手をしないといけない。
「いや、一人暮らしをすれば確実に上手くなるというわけじゃない。一人暮らしをしていく中で料理が上達していくかどうかは、向上心と、ある程度のセンスと、定期的に作った物を食べてくれる第三者がいないといけない。僕の経験から言えばね」
「それがあれば、一人暮らしをすると、料理がうまくなる」
「おそらくね。といっても、向上心さえあればどんな状況にあっても下手にはならないと思うけれど。
とにかく、料理が上手くなるためには、『料理がうまくなりたい』という向上心がないと始まらない。どれだけ一人暮らしを続けても、食べられれば何でも良いと思ってたら料理は上手くならない。それに、ある程度の物を作ろうと思ったら、先天的なセンスもなくてはいけない。先天的の意味を教えてくれるかい?」
「通常は生物の特定の性質が「生まれたときに備わっていること」「生まれつきにそうであること」という意味で用いられる」
「うん。いつもとは文体が違うようだけど、それは何の参照?」
「公眼堂出版ユアペディア百科事典第三版」
「なるほど。で、話を戻すけど、いくら努力をしても、センスが少しは無いと一定以上にはいけないことが多い。例えば、味覚のセンスとか、栄養バランスのセンスとか、盛り付けのセンスとか。これが無いと何度やっても成長しない自分に不満を持つことになるし、それがたまりすぎると、大概は次のステップに行く前に向上心がなくなる。
最後に定期的に自分が作った物を食べてくれる人だけれど、これは簡単だ。いくらセンスがあっても、自分が美味しいと思う物だけ作っていたら、料理は上手くなれない。何故なら、上手い料理と言われる資格は、百人がそれを食べたとしたら、百人中七、八十人が上手いと思った物だけに与えられるからだ。
関西人でも関東人でも、北海道民でも沖縄県民でも、一様に不味いと言われないぐらいの中立的な料理の上手さが好ましいな。僕は、上手い料理という物が、大勢で食べて、大勢で分かち合えるものだと信じている。少なくとも、家族ぐらいの人数でなら分かち合いたい。だから僕は、料理の味が一辺倒にならないためにも、第三者の意見が必要だと思う」
「匠護にはそれがある?」
なかなか鋭い質問だった。そう。これほどまでに自信を込めて力説するには、根拠となる確かな経験がないといけない。実際僕にもそれはある。でも、それは他人には立ち入られたくない、非常にナイーブな領域のような気がした。テラのような、本当に真っ白な純真さは、時として様々な色が重なり合った大人の純粋さを直に傷つける。それも突然に。
でも、相手がテラであれば、それは心配するに足らない小さなことのようだと感じられた。
「うん。正確に言えば、それはあった。過去には確かに存在していたんだ」
「今はもう無い」
「そう。今はもう無い」
―――僕の心の中だけにある そう言おうとした瞬間に、僕は心がバラバラに砕けてしまうような感覚を覚えた。目頭が熱くなり、頬が強ばった。僕がもっと若ければ、今に泣き出してしまうだろうと思った。でも、僕は泣き出さなかった。こんな僕でも、忘れることのできない記憶を経験し、それを心に収められるだけの歳はとったのだということに改めて気づいた。
「今はもう、匠護に第三者の意見はないけれど、過去にはそれが存在していたから、匠護は料理が上手い」
テラは今までの会話を完璧に繰り返した。きっと彼が論理学を学べば、第一人者に鳴ることができるだろうという気がした。A=B、B=CならA=C。そんな世界だ。どこまでも単純で、どこまでも正確な世界。
「多分そうだと思う。それがあったからこそ、僕は料理をもっと上手になろうと努力できたし、そのほかのことでも、人間として成長できた」
「第三者の意見は人間を成長させる」
「場合によっては。その第三者が誰かにとって重要であればあるほど、その誰かに大きな影響をあたえるんだ」
「匠護の第三者は、匠護にとってとても重要だった?」
「うん。そのときには、何よりも重要だった」
テラと問答を続けるほどに、僕は失われてしまった沙耶の影が、暗闇の中から浮かび上がってくるような気がした。角膜に焼き付くほど見つめていた彼女の顔、美しい目、優しい口元、豊かで曲線的な体
。確かに、僕の心の中には彼女のすべてが収められていた。それは長い年月を経て凝固し、幾多もの半透明なラップに包まれて、奥底で幽閉され続けていた。
その清らかな塊を、テラは意図せずに僕の心の奥底から引き上げ、繊細なその指で、一枚一枚しわが寄らないようにラップをはがし、自らの体温で、固まったその中核を解こうとしていた。
僕の第六感は耳障りに警告を発していた。僕の心にとって、沙耶の記憶は様々なものを呼び起こさせる混乱のファクターであり、それを目覚めさせようとするテラは、ファイアオールを突き破って進入する悪質なウイルスだった。
でも、僕はテラの介入を妨げようとは思わなかった。第六感の警告は、ただの耳障りな機械音だった。それに比べれば、目覚めようとしているものは、甘く、尊いクラリネットの音色のように思われた。
僕は、呼び起こされたものを僕の手で日向に出してあげなければいけないと思った。そろそろそういう時期なのだ。テラはその作業を進めるに際しての、最も有能な助手だった。
僕は口を開こうと決意した。
たとえそこから飛び出すものが、深い悲しみに染まったものでしかなかったとしても。
「ちょっと長い話になるんだけど、いいかな」
「うん」




