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二日目・(前)朝飯前

 二日目 晴れ



 今日から僕は、テラとの生活を記録することにした。一日目の文章も、今日、8月3日に書かれた物だ。



 まず、一日目の終わりの時のことから書こうと思うけれど、テラは僕が作った夕食を素直に食べ、一人で風呂に入った後、僕の部屋で一緒に寝たいと言った。いや、正確に言えば、何も言わずに僕の部屋へ布団を引きずって入ってきて、僕の布団の隣にセットすると、そのまま何も言わずに眠ってしまった。


 なぜ彼がそのような行動を取ったのかは、今現在、二日目の時点では判然としない。僕の部屋の隣に敷いておいた布団をわざわざ持ってきたのだから、何か理由はあるのだと思うが、それは彼が僕に対して親近感を持ってくれたかもしれないし(多分違う)、夜一人で寝るのが単に怖いだけかもしれない(これはもっと無い)。とにかく、彼は僕に安心感のようなものを抱いてくれたことは間違いないと思う。



 テラが誰にでも自分の寝顔を見せているというのなら、きっと僕は彼に対して妬いてしまうだろう。


 彼の寝顔は、はっとしてしまうほど美しかった。起きている間には現れな会い、何か艶容で流動的な感情が、彼が眠ることによって表面に現れてきているようだった。


 僕は、棺の中に収められた白雪姫を見ているようだった。彼の肌は闇夜の中であまりにも白く、月光の届かぬ場所にあっても、何かの青白い光線を緩やかに反射して静かに輝いていた。



 僕は一晩中テラの美しさに緊張して、ほとんど眠ることができなかった。空っぽの頭に響き渡る鼓動の音に、束の間目を閉じては開き、仰向けに寝ている彼の寝顔を眺めていた。


 そして思った。陽子は、毎日彼の隣で眠るとき、何を思うのだろう、と。親として、女として、これほどの美しさを目の当たりにしたとき、陽子の心は如何様いかように揺れ動くのだろうか。それとも、これは慣れれば何も感じなくなる類のことなのだろうか。



 結局僕は朝、目をギラギラにさせながらパソコンに向かってこの文章を打ち込んだ。テラと生活している限り、僕は不眠症に悩まされなければいけないかもしれないという不安に取りつかれながら。




 朝、テラは丁度一日目の文章を書き終わったときに起きてきた。彼は寝ぼけたりすることなく、また昨日と同じ、何かを押し隠したような無感動さのオーラを漂わしていた。まったく隙がない。



 「おはよう、テラ」


 「おはよう、匠護」


 朝はこうして、三十路を過ぎた男と6歳の天才との対等な挨拶で始まった。



 「ところで、君は朝ご飯に何が食べたい?」


 僕は聞いた。具体的な答えが返ってこないことは薄々予感していたが。しかし、テラは予想に反して事細かな注文をした。


 「白米を炊いたご飯、白味噌で豆腐とネギが入っている味噌汁、出汁巻き卵厚さ4センチを二つ。あじの開き、茹でた小松菜二分の一羽、梅干一つ」


 いきなり羅列された料理の名称に、僕は一瞬混乱した。出汁巻き卵?


 「和食嗜好だね。和食は好き?」


 その質問に、テラは首を縦にも横にも振らなかった。ただ、じっと僕のおへその辺りを見つめていた。


 「好きじゃないの?」


 「好きではない」テラは一言、はっきりとこう答えた。この答えには二つの可能性が考えられる。一つは、和食は嫌いだという可能性。もう一つは、和食は好きではないが、嫌いでもないという可能性だ。しかし、どちらにしても僕には一つの疑問が生じることになる。



 「どうして君は、好きじゃない物を食べたいと思うのかな」



 テラは、少し迷ったような表情(唇を内側に引っ込め、目を下に伏せた)をしてから答えた。


 「陽子がいつもそれを作る。だから食べたい」


 「つまり、君はいつもさっき言ったようなメニューを食べているから、たとえ好きな物じゃなくても、その習慣を崩したくない、と言うこと?」


 そう聞くと、テラは、小さく、目を凝らさないと分からない程度に一度頷いた。なるほど、頑固な子だ。そこで僕にはもう一つの疑問が浮かんだ


 「君は君のお母さんのことを、いつも陽子と呼んでいるの?」


 すると、テラはもう一度、さっきと同じくらい小さく頷いた。もしそれが本当なら、それは教育的に好ましいことではない。


 某漫画では、幼稚園児が自分の母親のことを下の名前で呼んでいるという設定があって、どこかの心理学者は、それは信頼関係の現れだとか言っていたが、現実にそのようなことが行われているとしたら、そこでは通常ではない何かが起こっている。それに、年上の相手に「お母さん」と呼べること以上の信頼とは、何があるというのだろうか。



 「どうして、君はお母さんのことを陽子と呼ぶんだろう」


 「普段陽子に話しかけない。だから、どう呼べばいいか分からない」


 「でも、幼稚園に行ってたら、自分のお母さんについて話すことがあるだろう?」


 「幼稚園に行っていない」


  やれやれ。ついに事がややこしくなってきたぞ。


 確かにテラが黄色の幼稚園服を着て、同じぐらいの歳の子たちと活発に遊んでいるところは想像できない。それでも、この歳の子供が幼稚園なり保育園なりに行かないのは、不健全なことのように思える。同年代との触れ合いは、感性をはぐくむ中で大切なことのはずだ。例えそれが並外れた知性を劣化させるとしても。


 陽子は一体何を考えているんだ?



 「しかし、君は確かに陽子の子供で、血はつながっているんだろう。それなら、誰に言われなくても、陽子のことをお母さんと呼ぶべきじゃないのかな」


 「陽子は、『お母さんと呼ぶな』と言う」


 テラがそう答えたとき、彼の眸は刹那、電車が線路に置かれた小石を乗り越えたみたいに小刻みに揺れた。僕はそれを見逃さなかった。そして、僕はそれが、恐怖のような感情から来ていると推論した。 僕が人の特徴的な行動からそのときの心理を推理したとき、それは大概当たっている。僕はそう言うことにかけては第一人者なのだ。



 「そうか。陽子がそう言うのならそれは仕方がないな。それに、君もそれで通していくなら特に問題はないだろう。でも、確実に言えることは、君はいつか陽子のことを『お母さん』と呼ばなくてはいけない。でも、こればかりは僕から理由を言うことはできない。いつか君が自分で気づかなくちゃいけないことだから」


 「自分で気づかなくてはいけない」


 「そう。だから、今は君の好きなようにしていい」


 テラは、また昨日のように飛びっきりの難しい顔をした。僕がアボガドを初めて食べたときのように難しい顔だ。でも、朝からそのようなことを考えさせるのは彼にとって酷であると思えたから、僕は他のことに彼の思考を向けさせた。



 「さて、もう朝っぱらから考えることは止めにしよう。それよりも、今は朝ご飯だ。えっと、何を作ればいいんだったかな。ご飯と、ネギと豆腐が入った味噌汁と……」


 「出汁巻き卵厚さ4センチを二つ。あじの開き、茹でた小松菜二分の一羽、梅干一つ」


 「そう、それだ。四十分ぐらいで作るから、適当に遊んでいていいよ。僕の家には触っちゃいけない物なんてほとんど無いから」


 僕がそう言ってしまうと、テラは僕の部屋の方に入っていって、分厚い本を持って戻ってきた。何の本かは見えなかったが、表紙革の仰々しさと、一瞬きらめいた表紙の英文で、だいたい察しが付いた。


 「今日は何の辞書を読むんだい?」


 「ケンブリッジ英和辞典初版改訂新版」


 テラは振り向かずに答えると、ダイニングのイスに座り、ケンブリッジ英和辞典の半分のあたりのページを開いて読み始めた。背筋を自然に伸ばして、本と自分の目を最も離す読み方だ。


 僕はその姿を見て、ある種の感動を覚えた。人間はあんな事もすることが可能なのか、という、感嘆に似た気持ちだった。彼は確かに天才のようだった。



 僕は、切り替えて、今自分のするべき事を考えた。取りあえず、今からは朝ご飯を作らなければいけない。それも、テラがリクエストした物で。


 最初に何を作ろう。ご飯はもう炊いてあるから、味噌汁かな。その後は、小松菜を茹でようか。いや、出すときに冷めて堅くなるかな。じゃあ、出汁巻き卵……出汁巻き卵?


 「ねえ、陽子は本当に毎日、出汁巻き卵を作ってたのかい?」


 テラの方を見ると、彼はやはり小さく頷いた。本当らしい。陽子もご苦労なものだ。えっと、卵焼き器は家にあったっけ。………無い場合はどうやって作るんだったかな。



やれやれ。


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