四日目・責任の代償としての自由(前)
こちらの更新事情のせいで現実の季節の話中の季節がまったく異なっています。季節感を損なってしまって申し訳ありません。
話中の季節は、酷暑続く8月です
四日目の朝、テラはいつもより遅めに起きてきた。さすがに昨日は疲れたのだろうか。やはり今もテラは僕の隣で寝ているが、昨夜は何度も寝返りを打って、布団から飛び出しそうになっていた。何か夢でも見ていたのかもしれない。
「おはよう、テラ」
僕が言うと、テラも同じように、おはよう、と言った。そして二言目には、
「自由ってなに?」
と聞いてきた。朝っぱらからとてもコッテリな質問だ。
「どうして急にそんなことを聞きたくなったんだい?」
僕が聞きかえすと、テラは少し迷ったような表情をしてから、
「夢で見た」
と答えた。うむ、自由を疑問に思うような夢ってどんなんだろうか。うなされていたようだが……
少なくとも僕はそんな夢を見たことがない。眠っている間もそんなことを考えていたら、いつ脳を休めることができるんだろう。
それよりもまず、聞きたいことがあるのは僕の方なのに、またテラのペースに乗りそうになっている。何とかしなければいけないな。
「僕に聞くってことは、もう辞書で調べてあるんだよね」
「心のままであること、責任をもって何かをすることに障害がないこと、また、社会生活で個人の権利が侵されないこと」
下調べはばっちりのようだ。普通の人間なら、この文章を読んで大体のことは理解する。いや、正しく言えば、理解するのではなくて、この文章を、これが自由なのだ、と受け入れる。そこには実感は無い。
ただ、何となく今までの経験と照らし合わせて、こういうことなんだろうな、というイメージを作ったら、それ以上深追いすることをやめてしまう。そうでもしなければ、追究という作業は、面倒くさくてしょうがない。
それを妥協できないのがテラなのだ。いわば、それが天才の資質と言ってもいいかもしれない。それに、彼にはまだ時間がある。
「うん、その通りだ。文章で定義するなら、そういう表現が一番手っ取り早いだろうね。辞書を作ってる人も、さすがに頭がいい。でも、それは完全な自由の説明じゃないんだ。そこには自由の性質は表されているけれど、そもそも自由自体がなんなのかってことが表されていない」
「文章では自由が何なのか、完全に表せられない?」
「きっと無理だろうね。なぜなら、もともと自由は目に見えないし、形もないものだから。日本語には、そういう曖昧なものを表す言葉がたくさんあるけど、結局どれも曖昧だから、その本質を不動のものとして説明することはできないんだ。それに、自由が何かを説明する以前に、自由が何か、完全な答えはまだ出てない。だから、みんな自由を語るとしたら、それぞれの推論を示すしかできないはずだよ」
僕がそう言うと、テラはいつものように難しい顔をした。たまには僕だってそんな顔をして、世界に愚痴の一つでもいってやりたい。この世界には、答えの出せないことが多すぎる。
「でも、答えがまだ出ていないってことは、いつでも、こうやって自由について討論することが許されるし、そこに意味が見いだせるってことなんだ。結論よりも過程が大事なのさ」
「答えよりも、問いが大事」
「そういうこと。分からない物事について問い続けることで、何かが見えてくる。多少哲学的だけどね。そうして過去の人々は時代ごとの倫理学を作り上げ、新しい科学を生み出してきた。でも、今はそれとは違う話だったね」
僕は、一日中哲学の講義をテラに聴かせても、それはそれで楽しいんじゃないかと思った。普遍的な日常に慣れきってしまった学生たちにソクラテスやらヘーゲルやらの話を延々とするよりは、純粋な子供の問いに耳を傾ける方が柔軟な思考を得ることができるし、ましてやテラが相手であれば、きっと彼にも大きな影響を与えることができるだろう。
テラは人並み以上に、きっと僕以上に、たくさんの知識を持っている。でも彼は、それで満足してはいないのだ。彼は、その知識の根底にある、本質のようなものを知りたがっている。そしてそれを僕との関わりの中で、体験しようとしている。
テラは間違いなく、僕が長年求めていた、最高の生徒だった。
「さて、じゃあ、前置きも終わったし、本題に入ろうか。自由とは何か、だったね。うむ、まず最初に、そうだな、日本国憲法の話から始めようかな。もしかして、日本国憲法の条文を覚えてたりする?」
僕が聞くと、テラはいつも通り小さくうなずいた。その反応は予想していたけど、彼の知識が無尽蔵だということに、僕の心は感心を飛び越える。まったく、話がし易いったらありゃしない。
「じゃあ、第十二条はどんな内容だったかな」
テラは、一呼吸ほどの時間を空けてから、水道の蛇口を捻ったみたいによどみなく暗唱をし始めた。うちのパソコンに負けず劣らずの読み込みスピードだ。
「第十二条 自由・権利の保持の責任とその濫用の禁止。この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。又、国民はこれを濫用してはならないのであって、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負う」
テラの言った条文を、一文一文自分の頭の中にあるものと照合してみたけれど、途中で馬鹿らしくなって止めた。僕の記憶が彼の記憶に敵うはずがない。
「うん。君が言うんだから間違いはないだろう。
さて、この条文では、いくつかの内容が明記されてる。一つは、日本国憲法が保障する自由や権利は、それを守り続けるには、国民の努力が必要だということ。もう一つは、自由や権利が、時と場合によっては国民一人一人によって自制されなければいけないということだね。今回はここから自由について考えてみよう」
そこまで言い終わると、僕はテラをダイニングまで連れて行って、いすに座らせた。今まで、二人とも立ちっぱなしだったのだ。さすがにこの話は長くなる。これをずっと立ってやってたら、お互い足がしびれてしまう。
ダイニングのテーブルに腰掛けると、なんだか僕とテラが親子で、休日の朝を二人して、哲学の話にのめり込んでいるように思えてきた。そういう家庭も悪くない。
それはただの幻想でしかなかったけれど、窓から差し込む、真夏にしては柔らかな朝の日差しがそのシーンをいっそう幻想的なものにしていた。テラの白い髪は、光を浴びると朝露を浴びた水仙のようにキラキラと輝く。
「最初に君は、自由について、辞書の言葉を使って、“心のままであること”と言ったね。でも、日本国憲法の条文を読んでいると、そこで認められる自由は、必ずしも“心のまま”にすることが許されるものではないことが分かる。憲法によれば、自由は公共の福祉、つまり他の人々や、社会全体の自由や権利を侵さないぐらいの行動をする自由しか認められていない」
「それは心のままに自由とは言えない」
「そう。例えば、極端な例を挙げると、欲しいものがあるから、それをお店から盗むとか、自分が気に入らない人がいるから、その人を殺してしまうとか、そういうのも心のままに行動しているけれど、決して正しいことではないし、認められるべきでもないよね。つまりここから、確実に言えることがある」
テラは、今まで無感動に僕の口元に向けていた視線を一瞬ぐらりと揺らした。とまどったかのような揺れ方だった。きっと、僕が使った「確実」という言葉に反応したんだと思う。僕が確実とか、絶対とかという決めつけの言葉を使うことはほとんどないから。
「それは、純然な自由が、必ずしも正義ではないということだ。 市民革命の時代あたりから、自由を求めることが人間の本能で、つまりそれが不変の正義であるというような風潮が広がってきた。
実際に、その自由を求める運動によっていくつもの悪政が倒れ、崇高な理念を持った行動が推し進められてきたのも確かだ。でも、勘違いしちゃいけないのは、“心のまま”の自由と、革命家たちが求めてきた自由が、全く別の次元のものだってことなんだ」
「自由には種類がある」
「うん、そういう風に考えると楽かもしれない。いっそのこと、新しい言葉を作って区別してもいいぐらいだ。それくらいに差がある。あえて今ある言葉で分けるとすれば、一方は“心のままの自由”で、もう一方は“責任の代償としての自由”がちょうどいいかな」
「責任の代償としての自由」
「そう。簡単に言えば、その自由は、人が何か自分のすべき仕事をしたことに対して、社会から与えられる自由だってことだね。そして、人々はそれを権利と言う。義務と権利ってフレーズはよく聞くだろう? 義務を果たせない人には権利が与えられないっていう説教もよくある。もうこの時点で、この自由が、“心のままの自由”と大きく違うことは分かるよね」
「責任の代償としての自由は、自分の心のままにするために、まずは社会に働きかけなければいけない。そして、その行動も、社会のためになるように自制しなくてはいけない」
「その通り。だから、権利としての自由は、本来の自由とは全く別のものなんだ。その上この自由には、必ず正義や道徳心が求められる。ここで、また憲法十二条の登場だな」
僕はここで、この講義に一息入れることにした。もうかれこれ30分近くはしゃべり続けだから、そろそろ喉も渇いてきた。それによく考えたら朝ご飯もまだ食べてない。
テラの顔を見てみた。相変わらず彼は、視線を水平に固定し、瞬きも最小限にして、考えることに全神経を集中している。少し話の展開が早すぎたかもしれない、と僕は後悔した。本来ならば、この講義は数時間の説明と実例の提示、そして徹底的な討論を要する。
僕は、テラの理解力を過信しているかもしれない。ゆとり教育というのを僕は認めないが、十分な思考と反復の時間というのは、ゆとりとは別に必要なモノだ。
一体何を、僕は焦って伝えようとしているのだろう。まだ時間はたっぷりあるじゃないか。
時計を見ると、時刻は10時を回っていた。今から朝ご飯を食べるとすると、昼ご飯の時間がうやむやになってしまう。ちょっと熱を入れすぎたな、と僕は反省した。そして、冷蔵庫の中で冷えている、作り置きの麦茶が急に恋しくなった。
「ちょっと、ここらで休憩しようか。麦茶があるけど、飲むかい?」
テラは、うん、と目で返事をした。ついに首を振るのも省略してしまったようだ。
まあいい。じっくり考えてくれたまえ。
ガラスコップに注がれた麦茶は、茶色に透き通っていて、強さを増し始めた昼前の斜光を、涼しげに屈折させていた。結露してコップに付いた水滴が、コップを掴む指先にも潤いを与える。
こういう休日のひとときも、言ってみれば自由な時間だと、キンキンに冷えた麦茶を喉に通しながら思う。この自由も、僕が何かの責任を果たした上に存在する自由なのだろうか。いや、僕が心のままに、そうしたいと願っている自由なのだと言われても、否定はできない。
あるいは、これは、テラも望んでいることなのだろうか。もしそうだとすれば、これは、二人の人間が同時に希望し、実現させた自由な時間と言えるのではないだろうか。個人個人が自由を主張するのは、それぞれの身勝手でしかないかもしれないが、多くの人々が同時に、自分たちの自由として何かを求めたのならば、それは既に自由によるものではなくて、社会を動かす意志と言えるだろう。
魯迅の小説にも、確かそんな表現があった。多くの人々が、一つの理想の世界を求めて行動したならば、そこには実現するための道ができうる。それは、言葉にするだけなら簡単なことのように見える。でも、なぜそれが今でも、一向に実現されようとしていないのだろうか。
僕の問いにも、決まって答えは出てこない。