第27話: この食材でできる最高
夜が明けた。
ルカは、村の中央に並んだ三つの大鍋を前にしていた。サーラの配給鍋に、サリムが見つけてきた古い羽釜が二つ。どれも、底が焦げ、縁が欠けている。立派な厨房の鍋とは、似ても似つかない。
それでも、火はもう入っていた。
ガルムが夜明けと同時に網の外へ走り、戻ってきたところだった。背負い籠の中に、骨があった。古い猪の骨と、鳥の骨。肉はほとんど残っていない。けれど、骨は出汁を出す。
「……これしか、なかった」
ガルムは、骨をルカの足元に置いた。
「肉は、貴族の網の中だ。骨は、網の外に捨てられてた。——使えるか」
ルカは、骨を一本手に取った。
断面を見て、匂いを嗅ぐ。古い。だが、髄はまだ生きている。
「使える。上等だ」
ガルムの丸い耳が、ぴくりと動いた。
その横で、サリムが保存食の袋の底をのぞいた。
「骨があるなら、これも出そう」
袋から出したのは、乾いた豆だった。ひと掴み。
「砂漠の旅の、最後の蓄えだ。豆は煮れば腹に残る。——骨の出汁を、吸わせてやってくれ」
「いいのか。お前の命綱だろう」
ルカが訊くと、サリムは肩をすくめた。
「飢えた者の前で、隠す気にはなれんのさ」
マリカがルカの隣に立った。
いつもなら、マリカはここで指揮を始める。誰に何をさせるか、どの食材をどう使うか、矢継ぎ早に。
今朝は、違った。
マリカは、ルカの顔を見ていた。それから静かに、問うた。
「ルカ。この食材でできる最高の一皿は、何ですの」
ルカは答えなかった。
目の前にあるのは、乾燥した豆。割った麦。傷んだ土の根菜。骨。サリムの香辛料。フィリアの薬草。——どれも、二年前のルカなら、見向きもしなかった食材だった。
宮廷の厨房には、最高の食材がいつもあった。それでも、ルカの料理は、貴族たちに「味がおかしい」と言われ、追われた。
最高の食材で、追われた男が。
今、最低の食材を前にしている。
「……試したことがない」
ルカは低く言った。
「豆と根菜と、骨。こんなもので客を唸らせろなんて、宮廷じゃ一度も言われなかった」
「では、今日が最初ですわね」
マリカの声は、急かさなかった。
ルカは、もう一度食材を見た。
豆は、水に浸せば膨らむ。骨は、長く煮れば、髄が溶ける。根菜は、傷んだ部分を削げば、芯が残る。サリムの香辛料が、足りない脂の代わりに満足感を作る。フィリアの薬草が、苦みを薬に変える。
頭の中で、味が層になって組み上がっていく。
二年ぶりの感覚だった。
「……一層目は、骨の出汁」
ルカの手が、動き始めた。
「豆を、その出汁で煮る。豆が出汁を吸って、二層目になる。根菜は最後だ。煮崩さず、芯を残す。歯ごたえが三層目。香辛料は、仕上げにひと振り」
ルカの声に、熱が混じっていた。
左手の古い火傷が、薄く熱を持った。九歳の夏、初めて鍋を振った日についた傷だ。この感覚を、ルカは二年のあいだ、忘れたふりをしていた。
「——できる。こいつらは、化ける」
ルカは料理に没頭した。
骨を長く煮た。灰汁を丁寧にすくった。豆の浸し加減を指で確かめた。根菜を入れる頃合いを、湯気の色で計った。サリムが香辛料を差し出すと、量を目で指示した。フィリアが薬草を刻むと、入れる順番を手で示した。
マリカは、指揮をしなかった。
ただ、ルカの隣でその手を見ていた。
時々、ルカが迷う。豆の煮え加減で、ほんの一瞬、手が止まる。そのたびに、ルカは、マリカを見た。マリカは、何も言わなかった。けれど、その琥珀色の目が、「いける」と言っていた。
ルカは、頷いて、また手を動かした。
羽釜の蓋が、かたかたと鳴り始めた。
骨の出汁の匂いが、豆と根菜と香辛料の香りに混ざっていく。冷えた村の朝に、その匂いはまっすぐ立ちのぼった。
村人が、配給の列を作り始めた。
いつもの列だった。痩せた人々。空の椀。けれど、今朝は、その鼻が、いつもと違うものを嗅いでいた。
最初の一杯が、よそわれた。
受け取ったのは、列の先頭の年老いた女だった。配給の薄い粥を、何百回も受け取ってきた手が、椀を両手で包んだ。
女は、一口すすった。
動きが、止まった。
それから、女の目から涙がこぼれた。声もなく、ただこぼれた。
「……あったかい」
女は、それだけ言った。
「あったかい……ちゃんと、味がする……」
次の村人がすすった。子供がすすった。母親がすすった。
あちこちで、同じことが、起きた。
誰も騒がなかった。歓声も上がらなかった。ただ椀を両手で包んで、一口すすって、それから静かに泣いた。
飢えた村に、すすり泣きの音だけが低く広がっていった。
ルカは、その音を聞いていた。
羽釜の前で、お玉を握ったまま、動けなかった。
二年前、ルカの料理は貴族たちに「味がおかしい」と言われた。誰も、ルカの料理で泣かなかった。笑いも、しなかった。皿は、半分残されて、下げられた。
今、目の前で、痩せた村人たちがルカの一杯で泣いている。
ルカの手が、お玉の柄を強く握った。
ここから先は、マリカが見ていた。
マリカは、ルカの横顔を見ていた。
お玉を握ったまま、動かないルカ。その緑の目が、わずかに、揺れている。マリカには、それがわかった。ルカが今、二年分の何かをようやく降ろしているのだと。
マリカは、自分の椀を手に取った。
一口、含んだ。
目を、閉じた。
一層目——骨の古さが溶けて、出汁の優しさになっている。二層目——豆がその出汁を抱いてほどける、ふくらんだ甘さ。三層目——根菜の芯が歯の下で崩れ、大地の味に変わる。
そして、四層目。
マリカにしか分からない層だった。捨てられた骨と、命綱の豆と、傷んだ土の根菜を、ここまで連れてきた——ルカの手の、温度。
三層では足りない。四層。いや、それ以上。
辺境のあの夜、ルカのポトフを食べて、初めて目を閉じたあの時から。マリカの舌は、ずっと、知っていた。この男の手が、どこまで行けるかを。
マリカは、目を開けた。
「ルカ」
ルカが、振り向いた。
「……なんだ」
「わたくしには、この味が見えていましたわ」
マリカは、椀を両手で包んでいた。
「辺境で、あなたのポトフを食べたときから。あなたの腕がどこまで行けるか、ずっと見えていましたの。——でも」
マリカは、まっすぐルカを見た。
「この味を本当に作れるのは、あなただけですわ。わたくしには見える。でも、作れない。作れるのは、あなただけ」
ルカは、しばらく何も言わなかった。
それから、ふいと顔を背けた。羽釜の湯気のほうへ。
「……今日は、妙に素直だな」
「あら。いつもですわよ」
「嘘つけ」
ルカの声は、ぶっきらぼうだった。けれど、その耳がわずかに赤かった。
マリカは、それを見て笑った。それから、もう一口、椀の中身をすすった。
すすりながら、誰にも聞こえない声で呟いた。
「……やっぱり、おいしいですわ」
その時だった。
村の入口に、肥えた馬の蹄の音が響いた。
ドランが、戻ってきた。昨日と同じ、上等な外套。昨日と同じ、薄笑い。
「どうだ。薄い粥は、立派に飾れたか」
ドランは、馬を降りながら言った。それから、村の様子を見て足を止めた。
配給の列が、できている。けれど、いつもの列ではなかった。
村人が、椀を抱えて泣いていた。すすり泣きながら、おかわりを求めていた。子供が、空になった椀を、もう一度差し出していた。
ドランの薄笑いが、消えた。
マリカが、ドランの前に一杯の椀を差し出した。
湯気の立つ、豆と根菜の煮込みだった。
「召し上がれ。——配給の食材だけで作りましたのよ。あなたが痩せた村に配らせていた、あの食材だけで」
ドランは、椀を見下ろした。
受け取らなかった。受け取れなかった。
ドランの喉がごくりと動いたのを、マリカは見逃さなかった。
「……こんなもの」
ドランの声が、わずかに掠れた。
「こんなものが何になる。村の連中が一日腹を満たしたところで——明日にはまた、配給に戻る。お前たちは、いつまでもここにはいられん」
「ええ。いられませんわ」
マリカは、椀を引っ込めなかった。
「でもこの村の人たちは、もう知ってしまいましたの。同じ食材で、こんな一杯が作れることを。——一度知った味は奪えませんのよ。徴発官殿」
ドランは答えなかった。
答えずに、馬に戻り、来た道を戻っていった。昨日より、ずっと速い足取りだった。
その背中を見送って、サリムが低く口笛を吹いた。
「……逃げたな、あれは」
「いいえ」
マリカは、ドランの去った道を見ていた。その琥珀色の目が、もう次の何かを見据えている。
「戻りますわ。今度は、もっと本気で。——食を奪う側が、本気を出す番ですの」
羽釜の湯気が、冬の朝の光の中で、ゆっくり立ちのぼっていた。
その下で、村人たちは、まだ泣きながら食べていた。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
「この食材でできる最高」、書きました。
この回は、ルカの回です。
宮廷で最高の食材を扱いながら「味がおかしい」と追われた料理人が、最低の食材で、人を泣かせる。乾燥豆と、根菜と、捨てられていた骨。二年前のルカなら見向きもしなかったもので、三層の味を組み上げる。誰も彼の料理で泣かなかった宮廷と、すすり泣きながら食べる飢えた村。この対比だけは、最初から書きたかった場面でした。
マリカの「わたくしには味が見えた。でも、作れるのはあなただけ」は、ずっと、彼女の心の中にあった言葉です。辺境でルカのポトフを食べて、初めて目を閉じたあの夜から。それを、ようやく、口に出す。普段は食べ物に暴走する令嬢が、この一回だけは、静かに、まっすぐ、相棒に伝える。書いていて、こちらの息も、少し止まりました。
ルカの赤い耳には、触れないであげてください。本人が、いちばん、認めたくないので。
ここまで読んでくださったすべての方に、深く感謝します。次回、奪う側が、本気を出します。
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