青空の章 「快晴」 4
それからの1週間は穏やかに過ぎていった。
フィリッポと私はまるでずっと昔からの親友のように付き合っていた。
あの週末の夜の事はお互いに話さない。
話せば別れが辛くなることはわかっているから。
そうして、金曜日の5時、私のチューターの仕事は終わりを告げた。
「大良君、最後までよくやってくれたね。約束どおり成績に加点しておこう」
「ありがとうございます瀬崎先生。それじゃあ、私はこれで失礼します」
「フィリッポとの別れはもう済んだのかい?」
「え?」
私が振り向くと、瀬崎先生はニコニコした表情でこちらを眺めていた。
「フィリッポは君のことを最後までとっても楽しそうに話していたよ。てっきり別れは済んだものと思っていたのだが……」
「あの、フィリッポは今どこに」
「4限が終わってすぐに学バスに乗って帰ったと思うよ。退校手続きなどはもう済んでいるから、今日中に荷造りを済ませて、明日の朝一番の電車に乗って帰るとかなんとかいっていたな」
「そうですか、ありがとうございます」
私がそういって頭を下げると、瀬崎先生は見守るような笑顔でもって答えた。
「悔いの残らないようにね」
「……はい!」
私はそう返事をすると、一目散に学バスに向かってかけていった。
電車に揺られながら、私は今までのことを反芻した。
「そういえば、最初の出会いはただの挙動のおかしい無駄に綺麗な外国人だとばかり思っていたけれど、この2週間で随分仲良くなったものよね……」
距離が縮まったのはやはりあの夜からか。
思い出すと顔が火照ってくる。
電車の中なので、極力平静を保とうとするが、一度頭に浮かんだものはそう簡単に離れてくれそうにない。
それにしても、最後の別れもなしに、勝手にひとりで帰ってしまうなんて酷くないか。
そんなのは紳士の対応じゃないぞと文句をいってやろう。
そんなことを考えていると目的の駅に着いた。
フィリッポが住んでいるマンションの前につく。
学生用の家具家電つきマンスリーマンションだから、荷造りといってもそんなに大したことをするわけでもないと踏んだ私は、とりあえず電話をかけてみることにした。
プルルルル。
数回のコールで電話が繋がった。
「もしもし?」
「杏奈です。フィリッポ、今電話大丈夫?」
「ええ、大丈夫ですよ」
「もう荷造りは終わったの?」
「支度自体は昨日でもう終わっています」
「そうなんだ。で、フィリッポは私に何の挨拶もなしに帰ったのよね? 瀬崎先生のところに行ったら、フィリッポはもう帰ったっていうから、慌てて学校出てきちゃったわよ」
「杏奈さん、今どこにいるの?」
「知りたい?」
そういうと、電話の向こうで息を呑む音がしたと思ったら、フィリッポの部屋のドアが派手に開けられた。
「来ちゃったよ」
そういいながら手を振る私を見て、フィリッポは顔をゆがめた。
「そっち上がってもいい?」
「ええ」
フィリッポの部屋の前へ上がった私は、ドアの前に立ち尽くしているフィリッポにいぶかしげな顔をした。
「入れてくれないの?」
そういった瞬間、フィリッポが私を抱きしめてきた。
今度は私も抱き返した。
ぎゅっと強くなる腕の力を心地よいなあと感じる私は、もう十分この人のことが好きになっているのかもしれない。
部屋に入ると、以前見慣れたはずの風景がなんだかよそよそしく見えた。
この部屋も、部屋の主がいなくなることをわかっているのだろうか。
「杏奈さん」
呼ばれて振り向くと、フィリッポが熱を持った青空のような瞳をこちらに向けてきた。
「なんで来たんですか」
「なんでって、お別れをいいに」
「こういう感傷に浸っている男の部屋に女ひとりで来るということがどういうことかわかっていますね?」
「そうだ、フィリッポ、世話になった私に挨拶もなしにひとりで国へ帰っちゃうなんて紳士じゃないぞっていおうと思っ……」
皆までいわせずにフィリッポの貪るようなキスが落ちた。
声すらも飲み込んでしまいそうな激しいキスに私は翻弄され、私はいつの間にか腰から下が動かなくなっていた。
腰が抜けた私を優しく床に横たえると、フィリッポは私に跨り本格的に愛撫をしにかかった。
唇で、髪に、頬に、おでこに、まぶたに、顔中のあらゆるところに触れていく。
そうしながらも、片手は私の服の裾を器用に弄っている。
「ちょ、ちょっとまって!」
無言で私の耳朶を舐めるフィリッポだったが、私の焦った声を聞くと、けだるそうにそこから顔をあげた。
「どうしたの? ああ、『待った』は今のでもうないから。次は止まらないよ?」
「あのね、この間はその、いろいろしてもらってばかりだったから、こんどはその、私がいろいろするね?」
そういって潤んだ目でフィリッポの顔を見上げると、さっきまで剣呑としていた表情のフィリッポの顔が一気に赤くなった。
はああ、と長いため息をつくと、フィリッポは脱力し、私の体の上に自分の体を預けた。
「杏奈さん、やっぱり天然でしょう?」
「え?」
「……わかりました。今日は杏奈さんにいろいろしてもらうことにします。でもそのあとは僕もいろいろし返しますから、覚悟しておいて下さいね?」
そういうとフィリッポは私を抱き上げて自分の腕の中にすっぽりと収めた。
「はあ、国へ連れて帰りたい……」
「私もフィリッポの国へ行ってみたいな」
「本当にそう思うなら、僕は待ちますよ、いつまでも」
そういって、フィリッポは私を抱く腕に力をこめた。
「ああ、でも言葉の壁は厚いのかしら。英語は通じるんだよね?」
「愛があれば、言葉の壁くらいどうってことないですよ」
「そうよね、って、愛?」
「子供は3人欲しいですね」
「子供?!」
「女の子は杏奈さんに似てきっと可愛くなるんだろうなあ」
「あの、フィリッポ?」
「杏奈さん!」
「はい?!」
「漢に二言はありませんよね?」
「は、はい!」
私がそう返事をすると、フィリッポはチェシャ猫のような笑みを見せた。
「じゃあ決定です。杏奈さん、留学しましょう!」
「えええ?!」
「僕の父に頼んでおきます。パスポートの準備だけしておいて下さいね」
私はフィリッポの腕のなかで目を白黒させた。
「ああ、あの夢は正夢だったんですね」
「フィリッポが見たっていうあの夢? どんな内容だったの?」
「それは、ヒ・ミ・ツです」
そういってしいっと指を唇に持ってくる仕草に、不覚にも萌えてしまった私であった。
――今日は私が留学に旅立つ日である。
一ヶ月の短期言語留学だが、費用はほとんどフィリッポのお父上持ちだ。
「いいのかしら、こんなに至れり尽くせりで」
そう思いつつも初の海外渡航、期待に胸を膨らませる私である。
「杏奈さん!」
呼ばれて振り向くと、そこにはフィリッポの姿が。
「フィリッポ、なんでここに?」
「杏奈さんを迎えに来ました。あ、席はもちろんファーストクラスですよ?」
そういって私を優雅にエスコートするフィリッポは空港でひときわ目立っている。
さて、この海外渡航、どうなることやら。
「ねえフィリッポ」
「はい?」
「私を、ちゃんと捕まえててね?」
そういうと、フィリッポは綺麗な笑みでもって応えとした。
「ええ。これからはずっと、あなたの手をしっかりと握っていますよ」
フィリッポの青空のような瞳を見上げる。
今日は快晴だ。
ああ、だから空もあんなに澄んでいるのか。
こうして私は大切な人と共に、一ヶ月の海外渡航へ出たのであった。
<了>