青空の章 「快晴」 3
それからの1週間は私にとってある種拷問に等しかった。
というのも、私の行くところそのほとんどに無駄に綺麗な外国人が付いて回るようになったからだ。
「いーやーだー!! こんな目立ち方なんかしたくないいい!!」
しかもその無駄に綺麗な外国人は他人に対しては紳士然とした態度を完璧に保っているため、評価はうなぎのぼりなのである。
皆さん、騙されていますよー、この人は紳士の仮面を被った獣なんですよー!
そうやって無駄に疲れた一週間が終わり、私はぐったりとした面持ちで自分のアパートへと帰っていった。
「くっ、でも、泣いても笑ってもあと一週間でこの拷問は終わるのよ、そうしたら私はまた目立たない一般市民に戻ることが出来るのよ! 負けないわ!」
ぐたっとしていると携帯にメールが入った。
メールの相手はフィリッポだった。
「まったく、メールで日本語も使いこなせるのだから、チューターなんて必要ないんじゃないかしら」
ぶうぶういいながら私はメールを受信した。
「駅前のバス停で待ってます。」
その簡素な一文を見て、私は「はああ」とため息をついた。
「呼び出されたこっちの身にもなって欲しいもんだわ。でもあと一週間、頑張って乗り切るのよ私!」
自分に渇をいれると、私は学バスへの道のりを歩き始めたのであった。
バス停に着くと、そこには今日まで散々気を遣わされた張本人が待っていた。
「で、チューターの私は、次はなにをすればいいんですか?」
半ばふて腐れながらそういうと、フィリッポはおかしそうな顔をした。
「明日は土曜日でしょう?次の日がせっかくの休みなんだから、今日は飲みに行こうと思って」
「だからなぜその相手に私を誘う? フィリッポならば選り取り見取りなんじゃないの?」
「杏奈さん、もしかして焼いてる?」
急に機嫌がよくなったフィリッポを見て、私はげんなりした。
「違います。たまには私以外の人とも付き合ったほうがいいんじゃないかしらと思って」
「杏奈さん以外の人となんか付き合いたくない」
そういうとフィリッポは表情をすっと改めた。
とたんに変わる周りの空気。
私はその空気に当てられ、ひゅうっと寒さを感じた。
「ここは人目が多いですね。誰にも邪魔されないところへ行きましょう」
そういうと、フィリッポはすたすたと歩いて駅のほうへと向かった。
「あっ、ちょっと待ってよ」
慌てて追いかける私を、振り向いたフィリッポがチェシャ猫の笑顔で迎える。
「杏奈さん可愛い。僕のあとをついてくる雛鳥みたいだ」
「これでも日本人女性の平均身長よりは高いつもりなんですけど」
「そうやって真面目に返してくれる杏奈さんは本当に愛らしい」
……ちょ!
往来でなんつー台詞を吐いてんだこのやろう!
他学部の学生さんたちが何事かと思うでしょうが!
しかも完璧な紳士の笑みでもって私を迎え入れるもんだから、周囲の人たちにあらぬ誤解を受け兼ねないじゃないの!
周囲の皆さん、これは誤解ですよー、私とこの人は何の関係もありませんよー。
そんな体を装おうとしたのもつかの間、フィリッポが笑顔で手を差し出してきた。
「Let’s go my honey」
誰がハニーだああ!
そのレベルの英語は今時の小学生でもわかるっつーの。
発音が超いいだけになんかむかつくわ!
そんなこんなで電車に揺られて20分ほど、私とフィリッポはとある居酒屋の個室にいた。
まったく、何が悲しくてこの男と二人、飲みにいかなくちゃならんのよ。
確かに無駄に綺麗な顔をしていますけどねえ、酒の肴には十分なりますけどねえ、私にだって好みというものがですね……、どストライクですけれど。
でもいくら好みだからって内面獣みたいな男と差しで飲むからにはこっちも腹据えてかかりますからね。
自慢じゃないけれど、お酒は強いほうなんです。
成人してからこのかた、酔って他人様に醜態を晒したことは一度もありません。
アパートに帰るまでが戦場よ!
そんな私の意気込みを知ってか知らずか、フィリッポは美味しそうにお酒を飲んでいる。
手元のグラスが空くと、フィリッポは手をあげて店員を呼んだ。
「すいません、十四代を枡で」
なんでそんな銘柄まで知っている?!
しかも枡とかうわばみかこいつ?
「そちらのお客様は?」
「……魔王、グラスで」
とはいいつつ、しっかり頼む私であった。
無駄に綺麗な顔した外国人が枡で日本酒飲んでる光景はとてもシュールだ。
しかも顔色ひとつ変えずに。
底知れぬものを感じつつも、私はフィリッポに話を振った。
「あの、やっぱりフィリッポにはチューターなんていらないんじゃないかしら。こんなに日本や大学のことをよく知っているし、私がいなくても、あとの1週間はちゃんと出来そうなものだと思うけれど」
私がそういうと、フィリッポの周りの温度がすうっと下がった。
うわ、また火に油を注いでしまった。
フィリッポは酒を飲む手を止めると、私に向かってぐいと身を突き出した。
「杏奈さんは僕といるのがそんなに嫌なんですか?」
無表情で、しかも周りの温度がどんどん下がるこの状況は心臓に悪い。
こんなとき、相手が丁寧語というのはちょっと怖い。
なにを考えているか読めないからだ。
「嫌というわけではないけれど、フィリッポはなんでも出来ちゃうから私がいなくっても大丈夫なんじゃないかと思って」
そういった途端、フィリッポがさらに身を乗り出してきた。
そしてそのまま、ちゅっとキス、されてしまった。
ぽかんとする私を間近で見たフィリッポは艶のある視線を送ってきた。
「僕はね、杏奈さんに出会ったときから杏奈さんの虜になっているんです。そんな相手のもとに、身の危険を感じているくせに、くそ真面目にひょこひょこついてくるそちらが悪いんですよ?」
瞬間、ぼっと顔から火を噴いたかのように赤くなる私。
固まった私を、これ幸いと思ったのか、フィリッポは私の顎を掴み、私の下唇を啄ばむように食み始めた。
私はわけがわからなくなってぎゅっと目を瞑り、顔を背けようとしたが、フィリッポが顎をしっかりと抑えているのでどこにもいけなかった。
啄ばみ、時々ぺろりと舐めるその仕草は、まるでお菓子を口にしているかのようだ。
私の唇はそんなに美味しいのだろうかなどと思考が飛びそうになった時、唇を割って舌が侵入してきた。
思わず目を開けて身体をよじると、案外あっさりと開放された。
ほっと息をついたのもつかの間、フィリッポが低い声で呟いた。
「欲情したこの身体をどうすればいい?」
見るとフィリッポの目元は薄く朱に染まっている。
濡れた唇が柔らかそうで色っぽい。
なのにそこから漏れ出る声は確実に男性のそれで、思いのほか腰にくる声だった。
「どうすれば……って、自分でなんとかして下さい!」
慌てて椅子を引こうとするが、なぜか動かない。
下を見ると、フィリッポの長い両脚が椅子をがっちりと押さえていた。
「ち、ちょっと! 子供みたいなことしないでください!」
「どこへも行かないと約束する?」
「します、しますから脚をどけて下さい」
私がそういうと、フィリッポはにいっとあのチェシャ猫の笑みを浮かべた。
彼の長い脚から開放され、椅子が動くようになると、私は気持ち後ろへ下がった。
なんだかすっかりフィリッポのペースにはまっている。
これじゃいけないわ!
私は体勢を整えると、フィリッポに向かっていった。
「このお酒を飲んだら店を出ましょう。そして今日は真っ直ぐ家に帰るんです。来週もちゃんとチューターは続けますから、今日のところはこれで返して下さい」
私はそういって頭を下げた。
もうなりふりなんか構ってられるもんか。
すると頭上からあたふたした空気が伝わってくる。
「杏奈さん、頭をあげてください、僕が悪かったです」
ゆっくり頭をあげると、そこには眉を下げたフィリッポがいた。
「困りました、杏奈さんはまるで武士みたいなんですね」
「お褒めに預かり光栄です」
フィリッポは酒をくいっとあけると、席を立った。
「わかりました、お会計は僕が払っておきますから、杏奈さんはもう少しだけゆっくりしていて下さい」
そういうと憎らしいぐらいに平然とした足取りでフィリッポは会計を済ませにいった。
ひとり残された私は火照った頬を手ぬぐいで冷やした。
「ちくしょう、あのうわばみめ……」
身支度を済ませて外に出ると、秋の涼しい風が頬を撫でた。
フィリッポが待っているところまでとっとっと歩いてゆく。
背の高いフィリッポを見上げ、さあいこうかと促す。
その仕草を見たフィリッポは手を口元に当てて少しばかり顔を横に反らせた。
「杏奈さんは本当に可愛い。さっき自制できたのが奇跡みたいですよ?」
「もうその話はなしってさっきいったはずなんですけれど」
「しょうがないですよ、だって僕は男ですから」
そういってふっと笑うフィリッポも意外に可愛いと思っていた私はやはり少しばかり酔いが回っているのだろうか。
駅までの雑踏のなか、私とフィリッポは付かず離れずの距離を保って歩いていた。
と、前から学生の一団が歩いてきた。
何かのサークルの一団のようで、程よく酒が回っているようだ。
その顔には見覚えがあった。
最初の日にフィリッポの席の隣に陣取ったあの女子学生達だった。
「あれー、フィリッポ君じゃない?」
ひとりが気付くとその周りの女子学生がきゃっきゃと騒ぎ始めた。
「やだー、こんなところで会うなんて超運命感じちゃうんですけど―!」
「ねえ、うちらこれから2次会に行くところなんだけど、フィリッポ君も来ない?」
「ああそれ超いいよ! うちのサークルの男共、大していいのいないからさあ、フィリッポ君みたいなのがいてくれると本当、目の保養になるんだよねー」
そこまでいって、その女子学生達は、やっとというべきか、傍にいる私に気づいた。
「あ、この間の」
「えーと、もしかしてフィリッポ君とは偶然会ったんですか?」
そうやって声をかけてくれる人はまだいい。
2、3人は私のことをはなっから完全無視でフィリッポに近づいている。
フィリッポの腕を取り、強引に引っ張っていこうとするものもいる。
「ねーえー、いこうよお」
「美希、飲みすぎだってばあ」
いや、それは明らかに演技だろう。
酒飲みの私は、その態度が本当に酔っているのか、演技でやっているのかくらいわかる。
なんだか釈然としない感情が巻き起こったが、ここは素直に引いておくことにした。
「じゃあ、私はこれで」
そういうと私はフィリッポに背を向けて夜の雑踏のなかへと歩き出したのである。
……、そうだ、これでよかったんだ。
私、望んでたじゃないの。
フィリッポが私から離れてほかの人達と交流を持つのを。
あれ、でもなんでだろう、なぜだかわからないけれど、今私泣き出しそうになっている。
顔をキッとあげて、感傷に浸らないように夜の街を歩く。
「さっきの魔王が効いたかな」
そんなことをひとりごちると、私は駅に向かって歩いていった。
そのとき、うしろから声がかかった。
「杏奈さん、杏奈さん!」
はっとしてうしろを振り向くと、そこには息を切らしてかけてくるフィリッポの姿があった。
「どうして行っちゃうんですか?!」
「だって、フィリッポがほかの人と交流するのを邪魔しちゃいけないなあと思って」
「だから、さっきの約束はどうしたんですか?」
「約束?」
「僕から離れないでっていったことですよ」
「あ……、でもそれとこれとは」
「同じです、あなたがあそこで身を引かなくとも、僕は彼女達の誘いを断ってあなたを送りに来ていましたよ。あなたが行ってしまったから、僕は焦って彼女たちの前で醜態を晒す結果になってしまったじゃないですか。責任、取って下さいね」
「責任て……」
なんて理不尽な要求。
でもその理不尽な要求になぜだか安堵している私がいる。
「わかったわ。じゃあ、もう一回飲み直そう」
「じゃあ、僕のわがままも聞いて下さい」
「一個だけなら」
「今度は僕の家で一緒に飲み直しましょう」
そういうと、フィリッポは私の手をきゅっと握った。
「杏奈さんがどこへも行かないように、ですよ?」
私がその手を握り返すと、フィリッポは驚いたような表情をした。
「杏奈さん?」
「どこへも行かないように、ね?」
そういって照れたように笑う私を見たフィリッポはすっと表情を改めた。
「な、なに? 私なんか変なこといった?」
「杏奈さんは天然っていわれません?」
「不本意ながらいわれることもあるけれど……」
「今日はもう僕の家から一歩も出しません」
「え、なにそれ?! それは終電がなくなっちゃうからちょっと……」
「泊まっていけばいいじゃないですか」
晴れやかに笑うフィリッポ。
ああどうしよう、私はこの人の術中にどんどんと絡め取られている。
でも、最後の抵抗だけはしたい。
「いっておきますけれど、私、お酒は強いほうだから終電前までに多分フィリッポが潰れると思うわ」
「ふうん、じゃ、賭けますか?」
「おうよ!」
「勇ましいですね……、その代わり、杏奈さんが潰れたときはきっちり『介抱』させてもらいますからね」
「ハン、やってみなくちゃわからないわよ」
そんな他愛のないことを話しながら、私とフィリッポは夜の闇に消えていったのだった。




