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青空の章 「快晴」 2

授業そのものはいつも通り面白かったのだが、隣にフィリッポが座っているため、何だか落ち着かない気分だった。


その授業が終わり、学生達がぞろぞろと退出していくなか、フィリッポは私に声をかけた。


「杏奈さん、申し訳ないのですが、ちょっと一緒に先生のところまでついて来てはくれませんか?」


「いいですよ」


次の授業までには間があるので、私は大人しくフィリッポについていった。


フィリッポは瀬崎先生とレポートのことについて話すと、私の背中に手をやりそっと前に押した。


「先生、僕はこの人に僕のチューターになってもらいたいのですが、どうでしょう?」


ええ? チューター?


なんのことだろうと思わず先生とフィリッポを見る。


「大良君か。うむ、彼女ならばそつなくこなしてくれるだろう。2週間のチューターにしてはいい人材を選んだじゃないかフィリッポ」


「はい。僕もこんな人に巡り合えるとは思ってもいませんでしたよ」


わけがわからず内心あたふたしている私をよそに、あれよあれよと話が進んでいってしまう。


なし崩し的に、成績アップと引き換えに私は2週間フィリッポのチューターをやることになってしまったのだ。



「ええと、チューターって勉学のサポートと生活上のサポートをするものだって聞いたけれど、私はなにをすればいいのかしら?」


本当になにをすればいいのだろう。


フィリッポは、勉強はもちろんのこと、日本での日常生活になんら不便はないように見える。


それにわからないことがあったとしても、そこらの女子学生に聞けばなんでも教えてくれるだろうに。


どうして私なんかをチューターに選んでしまったのだろう?


フィリッポはにこっと微笑むと何事もなかったかのように歩き出した。


ああ、あれか? 最初の出会いが刷り込みみたいになっちゃったのかしら?


確かに最初の出会いのときに私は「わからないことがあったらいつでも聞いて」といったし、あれは嘘ではない。


でも、いきなり見ず知らずの私をよくまあチューターにしたもんだと思っていると、フィリッポはおもむろに私の手を取り、立ち止まった。


「杏奈さん、僕のチューターになってもらったこと、感謝しています。なぜ僕が杏奈さんをチューターに選んだか、いぶかしんでいるんじゃありませんか?」


まさにその通りだったので、私はこくりとうなずいた。


「こんなことをいうと変に思われるかもしれないのですけれど、僕は以前からある夢を見るんです。その夢の中の登場人物が杏奈さんにそっくりなんです」


そういうと、フィリッポは少しだけ照れたような表情をした。


「自分でも信じられないと思っているのですが、その夢の中の女性は杏奈さんに本当にそっくりなんです。だから、最初に出会ったときにとても驚いてしまいました」


ああ、だから最初の出会いのときにちょっと挙動がおかしかったのね。


「その夢はとても幸福で、起きるときはいつも涙を流しています。だからあなたに最初に会ったときに僕のチューターはこの人しかいないと思ったんです」


あれ、なんだかこれって愛の告白みたいね。


はっと気付くと、私とフィリッポの周りにはちらほらとギャラリーが集まり始めていた。


い、いかんいかん! こんなところで見世物になる気は毛頭ありませんからね!!


「そうだったの、じゃあ私、次の授業があるからもう行くわね。これからの詳しい話は5時に図書館で待ち合わせして、そこで話し合いましょう」


そういうと私は逃げるようにその場をあとにした。



5時になり、授業を終えた私が図書館の前に行くと、そこにはちょっとした人だかりが出来ていた。


おお、またか。


図書館の前がサイン会場にでもなったかのように騒がしい。


飢えた女子学生達(?)に群がられているフィリッポは笑みを絶やすことなく丁寧に応対している。


が、頭二つ分ぐらい高い彼が人垣の中から私の姿を認めるや否や、「ちょっと失礼」といって人垣を掻き分けてこちらへ向かってきた。


ひいい! うしろの女子学生達のじっとりとした視線が怖いです!


「杏奈さん、ここじゃなんですから、もっと静かなところへ行きましょう」


そういうとフィリッポは私の手を取り研究棟のほうへすたすたと歩き始めた。


……この人、私よりもこの大学のことをよく知っているんじゃなかろうか。


フィリッポは使われていない一室まで足を運ぶと、ポケットから鍵を取り出した。


何だか計画的な犯行(?)ですこと、と思った私は、その小さな部屋に入ることに少しばかり警戒心を覚えた。


当たり前だが、男女がひとつの部屋に入るということは女性のほうが少しばかり貞操の危機を感じずにはいられない。


そう思っていると、部屋を空けたフィリッポは次に窓を開けた。


秋の風がさあっと部屋に流れ込んでくる。


「はあ、いい風だ。ああ、この部屋にはあとで瀬崎先生もいらっしゃるから、そんなに警戒しなくてもいいですよ」


うっ、読まれていた。


「そうだったんですか」


ほっとしながら部屋に入る。


「……なんてね」


え?


そういうとフィリッポはにやりと意地悪な笑みを浮かべてすうっとこちらへ近づいてきた。


内心あたふたしているとすぐ目の前には綺麗な顔が。


気付くと私はフィリッポの腕の中にいた。


「ちょっと、なにするんですか?!」


正気に戻った私はかなり強めにフィリッポの胸板を押すが、びくともしない。


それどころかさらに腕の中に閉じ込められ、頭に顎を乗せられる。


その腕のなかで、フィリッポの柑橘系の香水の匂いをかいだ私は羞恥からちょっと頭に血が上ってきた。


「大声を出しますよ?」


小さいがしかし決然とした声でいうと、腕の力が少しだけ緩んだ。


だがしかし拘束が解けたわけではない。


「心配しなくても先生はすぐに来る。でも、君はチューターだから、僕の生活上のサポートもしなくちゃいけない。僕は今とっても動揺している。慣れない外国に来て、ものめずらしそうな顔をした日本人にたくさん囲まれて、心も身体も疲弊しきっている。慰めてくれてもいいと思うのだけれど」


「こういうことならほかの女子学生に頼んで下さい! 私は今日会ったばかりの人にほいほい抱きつかせてあげるほどお人好しじゃないんです!」


「でも、大声をあげない時点で十分お人好しだと思うけれど」


「先生がすぐに来るっていうんならちょっとのことは我慢します」


むすっとした顔でいうと、フィリッポは困ったなあという顔をした。


「忍耐が日本人の美徳? それって僕を付け上がらせるだけだよ?」


困っているのはこっちです! と思ったのもつかの間、突然フィリッポが腕の拘束を解いた。


びっくりしていると、そのすぐあとに瀬崎先生が入室してきた。


「遅くなってすまない。どうした大良君、顔が赤いぞ?」


「いえ、なんでもありません」


身づくろいをして何事もなかったかのように装う。


「……先生はもっと遅くてもよかったんですけどね」


「どうしたフィリッポ、なにかいったか?」


「いえ、なにも。さあ先生、今後のことについて打ち合わせをしましょう」


フィリッポに促された瀬崎先生は私にすまなそうにいった。


「大良君、この部屋で申し訳ないね。私の部屋は今ゼミ生が研究発表の準備で使用しているので使えないのだよ」


「そうだったんですか」


私に詫びると瀬崎先生は本題に入った。


「大良君にはこれから2週間、フィリッポのチューターとして行動してもらうことになる。これがフィリッポのカリキュラムだ。大良君のものとなるべく合わせておいてもらうよう頼んであるので、見比べておいて欲しい。ああ、あとわからないことがあったら私はゼミ室にいるから、いつでも声をかけてきてくれ。照らし合わせと打ち合わせが終わったら、フィリッポと二人でゼミ室に足を運んでくれるかな?」


「はい、わかりました」


そういうと、瀬崎先生は部屋から出て行った。


残されたのは私とフィリッポの二人。


「さあ、とっとと作業を終わらせちゃいましょう!」


私が張り切っていうと、フィリッポは少しだけげんなりした表情をした。


「僕と離れるのがそんなに嬉しい?」


「この部屋にずっといたら、またなにされるかわからないもの。やることはきっちりとやりますけど、それ以外では干渉しませんから」


私がそういうと、フィリッポは少しだけ思案したあと、にいっとチェシャ猫のような笑みを浮かべた。


「杏奈さんは真面目なんだね。だから僕のことも放っておけない。そうかあ、やることはきっちりとやってくれるんだね」


なにを思いついたのか不安ではあるが、一応さっき以外では手出しをしてこなかったので私は警戒しつつ作業を進めたのであった。


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