青空の章 「快晴」 1
天高く馬肥ゆる秋。
空を見れば、綺麗な青空が広がっている。
清々しい空気を胸一杯に吸い込み、私は大学の校舎内を歩いていた。
後期の授業は一通り出席した。
次は大好きな教養課程のヨーロッパ文学の授業なので、教室へ早めに行ってそこでお昼を食べようと思っている。
この授業は大学の端、第7棟で行われているので、校舎を繋ぐスロープを渡ることになる。
そこから見える景色は、まるで薄く色付いた木々たちがスロープの柱という額の中に納まっているかのようである。
「のどかよねえ。山の中にある大学だから季節の移り変わりが如実に体感できるわ」
山奥の大学ではあるが、私はこの景色を結構気に入っている。
それに第7棟の窓からは、外の景色が違った角度で見えるので、それがまたいいのだ。
「無駄に風流よね」
そう思いながら教室の分厚いドアを開ける。
と、教室には先客がいた。
教壇の近くで外の景色を眺めているのは、赤みがかった金色の髪を持つ外国人だった。
「あら、見ない顔だわ。どこの人かしら?」
私が入ってきたことに気付いたのか、その男性はこちらを向いた。
男性の瞳は秋の青空のような澄んだ色をしていた。
ジーンズに黒のVネックTシャツと革靴という簡素な出で立ちながら、それがよく似合っているのはやはり上背があるためか。
遠くからでもモデル体系であることが窺える。
男性は私の姿を認めると、一瞬驚いたような表情をしたあと、つかつかとこちらへ歩いてきた。
整った顔のその男性は私の前まで来るとそこで立ち止まった。
男性は私の顔をじっと凝視している。
そして、そこから動こうとはしない。
……な、なんですかこの沈黙は?
とりあえず、私は彼に声をかけてみることにした。
「May I help you?」
男性ははっと気が付いたかのように、気を取り直すと、口を開いた。
「瀬崎先生はここにはいらっしゃいませんか?」
なんだ、日本語喋れるのか。
しかもとても流暢だわ。
「ヨーロッパ文学の瀬崎先生ならば、このあと13時30分からの授業にいらっしゃいますよ。なにか御用ですか?」
「僕は短期留学生のフィリッポ・フラウティスといいます。瀬崎先生にレポートの件で相談がしたくて待っていました」
そういいながら左手の腕時計で時間を確認する。
時計はフランクミュラーなところがちょうどいい外し加減だ。
「そうだ、あなたの名前を教えていただけませんか?」
フィリッポと名乗ったその男性は、私を青空のような真っ直ぐな瞳で見つめてそう聞いた。
「私は大良杏奈といいます。もしわからないことがあったらいつでも聞いて下さいね」
そういってにこりと微笑んだ。
フィリッポはなぜかまた驚いたような表情をすると、「はい」といって、扉を開けて出て行ってしまった。
「なんだったのかしら」
私は気を取り直して教室の右側の席に座ると、コンビニで買ってきた昼食を広げて食べ始めた。
程なくして、教室の扉が開く音がした。
「今日は授業前に人がよく来るわね」
そう思いながら昼食を食べ続けていると、私の背後に誰かが立つ気配がした。
気にせずにいると、その背後の気配が声をかけてきた。
「あの、杏奈さん、一緒にお昼を食べてもいいですか?」
振り向くと、先ほどのフィリッポが皮製のバッグとコンビニの袋を抱えて立っていた。
「ええ、どうぞ」
私がそういうと、フィリッポは椅子ひとつ分空けて私の隣の席に座った。
「フィリッポさんは日本語お上手ですね」
「僕のことは呼び捨てで結構ですよ」
そういうとフィリッポは綺麗な笑顔をよこした。
知らず、胸が跳ねた。
最初は変な人かもと思っていたけれど、こうやって間近で見てみると、彼の顔はものすごく綺麗だということに気付いた。
男の人に綺麗なんて言葉を使うのはどうかと思うのだけれど、そう思ったんだからしょうがない。
白磁の肌はそんじょそこらのアイドルなんかよりもよっぽど透明感がある。
唇なんか、リップをつけていなさそうなのに潤っているように見えるってどういうことよ。
ああ、世の中って不公平だわ。
天は二物も三物も与えてくれやがるものなのねと思っていると、教室がにわかに騒がしくなってきた。
もうすぐ授業が始まるため、ドアを開けて、受講者が続々と入ってくる。
そして、うしろのほうでなにかひそひそと密談をしている。
昼食を食べ終わった私は、荷物を自席に置いてお手洗いに行こうと席を立った。
それと同じタイミングで先ほど密談をしていた一群がフィリッポの座っている席に近づいてきた。
まあ、こんな山奥の大学にハリウッドスターみたいな外国人が紛れ込んでちゃ、誰だってお近づきになりたい、もしくは遠巻きで眺めたいなんて思っちゃうわよね。
そう思いながら、私はその一団を横目で見てお手洗いへと向かった。
私がお手洗いから戻ると、フィリッポの周りにはたくさんの人だかりが出来ていた。
主に女子学生の。
私の荷物は適当なところへどかされ、そこには見知らぬ女子学生が座っていた。
あーあ、せっかく見やすい席を選んで座っていたのになあ。
周りを見渡すと、目ぼしい席にはもう人が座っており、あとは教室の端っこぐらいしか空いていなかった。
残念だわ、瀬崎先生のヨーロッパ文学の授業は私の楽しみの一つでもあったのに。
はあと小さなため息をつくと、私は荷物を取りに人垣のほうへと近づいていった。
そそくさと荷物を取って離れようと手を伸ばすと、その手を誰かにがっしりとつかまれた。
筋の浮いた男らしい手は滑らかな肌触りだったが、その手は力強く私の手を握っていた。
「杏奈さん、あなたの席はここだよ?」
私の手をしっかりと握っていたのはフィリッポだった。
フィリッポは周りの女子学生達に綺麗な笑顔でもってご退席を願った。
「ここは杏奈さんの席なんです。もうすぐ授業が始まりますから、どいてくれませんか?」
そういわれては女子学生達も引き下がるしかあるまい。
えー、もっとお話したかったのに~、などという彼らを気にせず、フィリッポは席を立って私を迎え入れた。
な、なんで席に座るだけなのにこの素敵外国人からエスコートされなきゃならんのか?
席に座るとき、「なにあの女」、「ブス」といった言葉が聞こえたが、聞かなかったことにして席に座った。
ちょうどそのとき、瀬崎先生がやってきたので、私は気持ちを切り替えて授業に向かうことにしたのである。