赤の章 「一夏」 3
花火大会当日。
私は押入れから浴衣を引っ張り出した。
黒地に牡丹の柄で、帯は薄桃色。
2年くらい前に買ったその浴衣は、以前付き合っていた人と一緒に夏祭りに行ったときに着ていたものだ。
髪はアップにして、自分で着付けをする。
帯はインスタントで付けられるものだったので、それほど苦労はせずに身支度を整えることが出来た。
「じゃあ、お母さん、花火見に行ってくるね」
なんだか、年甲斐もなく浮き足立っている自分がいる。
相手は高校生だから、これって犯罪になりはしないかしらなどと危ぶんだのだが、今日お別れするのだから別にいいか、と変に前向き思考になった。
会場に着くと、ポーチから携帯を取り出して電話をかける。
すぐに繋がった。
「杏奈さん、着いたの? 俺も今着いたとこ。河川敷の真ん中辺りにあるサッカーゴールの近くにいるから、わからなかったらもう一回電話して」
パチンと携帯を閉じると、私は人ごみを掻き分け、サッカーゴールへと向かった。
ルウの赤毛は遠くからでもよくわかった。
濃紺と白のストライプの浴衣を着て、携帯を覗きながらサッカーゴールの縁にもたれている。
浴衣着て来てくれたんだ。
あ、家を出るとき家族になんていったんだろう?
妥当なところで「友人と花火大会観に行く」よね。
そんなことを想像しながら、私はルウに近づいて声をかけた。
「ルウ」
呼ばれて振り向いたルウは驚きの顔を隠そうともしなかった。
「杏奈さん、それ、すげえいい」
「ありがとう。ルウもよく似合ってるわよ」
「杏奈さん和服似合うんだね。すげえ色っぽくなった」
そういってルウはちょっと緊張したような表情をした。
「あー、俺がもうちょっと大人だったら杏奈さんと釣り合うのになあ。これじゃあ、近所のお姉さんと餓鬼だよ」
そういって頭をガシガシとかいたルウを微笑ましく見つめると、私はルウに手を差し出した。
「会場混むから離れないようにね」
「えー、やっぱ餓鬼扱いかよ」
「違うわよ、私が離れないようにしっかり捕まえててね」
私がそういうとルウは困ったなあというような顔をした。
「杏奈さんずるいよね、天然でそういうこというんだもん」
そういいながら私の手を取るとルウはゆっくりと歩きはしめた。
ルウの手、意外にごつくて大きいのね。
屋台を冷やかし、花火がよく見えるポイントを探しているとき、にわかに雲行きが怪しくなってきた。
ごろごろとなる空、むわっとするアスファルトの匂い。
「夕立が降りそうね」
私がそういうとルウは渋面を作った。
「えー、まだ杏奈さんと花火見ていないのに、神様も意地悪するなあ」
そういったとき、空からポツリと雨が降ってきた。
「げ、本当に降ってきた」
その雨は本当に夕立の前触れだったようで、雨脚はあっという間に強くなった。
すぐにざあざあとした降りになった。
突然の土砂降りに会場は軽くパニックになり、人が右往左往する。
「杏奈さん!」
「ルウ!」
そのときお互いがお互いを離すまいと、しっかりと手を握り、ルウと私は広場を駆け抜けたのである。
急な夕立にあった私達は、屋根を探して河川敷をさまよった。
「屋台や仮設テントはどこも人で埋まっちゃっているから、どこかお店でも探すしかないわね」
そうはいっても河川敷の周りには民家しかない。
焦って周りを見回した私は土手の向こうにあるものを発見した。
「ねえ、あれ神社じゃない?」
見ると、青緑色のフェンスに囲まれた敷地内に小さな鳥居が立っているのを発見した。
二人でそちらへ行くと、小さいながらも屋根のあるお堂にたどり着いたのである。
「わあ、びしょびしょね」
「っあー、ひどい降りだったよね」
そういいながらルウは両手で髪をかきあげた。
オールバックになった髪の毛からはらりと一房落ちる。
髪形変わると意外に精悍な顔つきになるのねと私は感心した。
と、そのとき。
「っくしゅん」
ルウから可愛らしいくしゃみが聞こえてきて、思わず頬が緩んだ。
「そうね、こんな格好していると風邪を引くわね」
私がそういってルウを見ると、ルウの瞳に熱が宿っていることに気がついた。
「ねえ、杏奈さん、抱かせてよ」
「え?」
「風邪引かないようにさ、二人で温め合おうよ」
そういうとルウは私の後ろに周り、背後から私を抱きしめた。
「ちょっと、ルウ」
やんわりと否定の言葉を吐くが、実際は少し寒いなと思っていたところだったので、その提案にありがたく乗ることにした。
やっぱりわたしってずるいのね。
「杏奈さんも少し冷えてるね」
「ルウ?」
「今俺に出来ることをさせて」
そういうと、ルウは自分と私の身体をぴったりと密着させた。
「杏奈さん、柔らかい。それにだんだん温かくなってる」
「それはルウがくっついているからよ」
「俺のこと意識して温かくなってるんじゃないの?」
「じゃあそういうことにしておきましょうね」
「だからさ、杏奈さんがそうやって大人ぶるの、俺嫌いなんだってば」
ルウは私を抱いていた腕に力をこめた。
「杏奈さんのうなじ、いい匂いがする」
そういうとルウは私のうなじに顔を落とした。
肩口にルウの髪がはらりとかかる。
「あ、ルウ……」
瞬間、ぞくりとした感覚が背中を襲った。
ちゅうと音を立て、ルウが私のうなじに口付けたのだ。
たったそれだけなのに、なぜだかわからないけれど腰が抜けそうになる。
「ちょっと……」
出てきた声はかすれた吐息にしかならなかった。
「杏奈さん、俺……」
ルウの鼻にかかったような声が甘ったるく聞こえる。
「やめてよね、こんなところで」
かすれた声で私がそういうと、ルウはさらに手を進めてきた。
顎を上向かせられ、唇をなぞるように食まれる。
息をしようと僅かに口をあけると、するりと舌が侵入してきた。
顔を引こうとするが、意外に男らしい手に顎をつかまれたままだったので逃げることは叶わない。
くちゅり、と音が鳴る。
「ふっ……あっ」
どちらの唾液かわからないものをルウが舐め取り、体勢をずらしながらキスを喉元に落としてきた。
「ああ……」
私はもうかすれた声しか出なかったので、歯を食いしばり、口を閉じていることにした。
ルウが私の胸に顔を埋める。
そしてそのままぎゅっと私を抱きしめた。
しばらくそのままの体勢でいたあと、ルウはあと長い息を吐き出した。
「……はい、ここまで。じゃないと俺、ここで本気で杏奈さんのこと食っちゃいそうだから」
それは自分に言い聞かせるかのようで、でも私の胸から顔をあげずにルウは呟いた。
「あー俺、これからはもう年上しか見れなさそう。俺の人生狂ったら、杏奈さんのせいだからね」
そういって私の胸から顔をあげたルウを、そのとき、私は本気で愛しいと思った。
「はいはい、ありがとうね~」
そういってルウの頭をぎゅっと抱きしめた。
「なに余裕ぶってんのさ、さっきは感じてたくせに」
「ルウ可愛い」
「なにそれ、格好いいっていってよ、じゃないとまた襲っちゃうよ?」
「はいはい、格好いいわね」
「心がこもってない! もう一回!」
私は微笑みながら答えた。
「ルウ、格好いいよ」
「……もう一回」
「ルウは格好いいってば」
「ねえ、好きっていって」
「好きよ」
「俺も、ずるいけど優しい杏奈さんが大好きだよ」
ふと空を見ると、夕立は止み、瑞々しい空気が当たり一面を包んでいた。
ヒュルルルル。
遠くで花火をあげる音がする。
空を見上げると、タンポポのような花火が打ち上げられたところだった。
「うわあ、ここ、よく見えるわね」
「俺達、知らずに絶景ポイント見つけちゃったのかな」
二人で抱き合いながら、私達はその花火をずっと見つめていた。
――あれからルウとは会っていない。
花火を見終わったあと、私は正式にお断りをしたのだ。
もしかしたら、ルウが大人になったときにまたひょっこり出会うこともあるのかもしれない。
子供と大人の境にいた不思議な少年。
その危うい魅力にあるいは惹かれたのかもしれないわね。
あのペットショップはいつの間にか閉店してしまったようで、銀の子犬の行方はようとして知れなかった。
あの子犬、いい人の手元にいるといいんだけれど。
私とルウを結びつけたペットショップはもうない。
だから私も前に進むのだ。
これは大切な、私の夏の思い出。
<了>