途中の春
第一章 誰にも言えない関係
「ねえ、瑞稀」
玲は窓の外を見たまま言った。オレンジ色の光が畳んだ膝に落ちている。
「私たち、このままでいいのかな」
答えを待っていない声だと思った。だから私はすぐに返さなかった。ただ、隣に腰を下ろした。暖房の音だけが部屋を満たしていた。
玲の肩が、ほんの少し上下した。
「いいに決まってる」
私は言った。ありきたりな言葉だと分かっていても、他に言えることがなかった。
窓の外で、街灯がひとつ灯った。
「私、瑞稀のことが大好き。それだけは本当なの。嘘じゃない」
玲がこちらを向いた。目が赤い。いつから泣いていたのか気づかなかった。
「……なのに、時々怖くなる」
私は玲の頬に触れた。冷たかった。
「何が」
「分からない。自分でも分からないから、怖い」
誰にも言えない。友達にも、家族にも、職場でも。「パートナーがいます」と言えば、相手は確実に「彼氏さんですか」と聞いてくる。そのたびに曖昧に笑う。訂正する言葉が、いつも喉の手前で止まる。
玲はそういうことを、言葉にはしなかった。でも私には分かった。
「玲が怖がるのも分かるよ」
私は玲を抱き寄せた。シャンプーの香り。いつもと同じ、慣れた匂い。
「私だって同じ気持ちになることある」
「……そうなの?」
「そう。明日、玲が私から離れていくんじゃないかって。突然、何かが変わってしまうんじゃないかって」
玲は黙って私の胸に顔を埋めた。その体が、少しずつほぐれていくのが分かった。
「でも」と私は続けた。「玲と一緒なら怖くない」
「……根拠は?」
玲が、声の奥で笑った。
「ない」
玲がくすくすと笑う。やっと笑ってくれた。
「根拠なしに言い切れる瑞稀が、羨ましい」
「玲も同じだよ」と私は言った。「根拠なんてなくても、一緒にいるじゃん」
玲は答えなかった。でも、私の腕の中で、ゆっくりと目を閉じた。
私たちはしばらく、そのままでいた。
窓の外で、街灯がまたひとつ灯った。
第二章 家族
私には、玲が何をそんなに怖がっているのか、完全には分からない。
正確に言えば、理解しようとするたびに、何か大切なものがすり抜けていく感覚がある。
玲には、いる。両親と、三つ年上の兄。写真の中で四人が笑っている。温かい光の中に、私の入れない円がある。
私は中学二年まで家族と暮らしていた。
土曜日の午後三時過ぎ、バスケ部の練習試合先で顧問から電話を受けた。「すぐ病院に来てください」。その意味が、しばらく分からなかった。
父も、母も、妹も。交差点で信号待ちをしていたところに、脇道からトラックが突っ込んだ。三人とも即死だった。
私は遠い親戚の家を転々とした後、施設に入った。誰も中学生の私を引き取ろうとはしなかった。
それからずっと、人間はあっけなく逝くものだという感覚が体の底にある。朝に「いってきます」と言った人が、その夜に戻らない。そういうことが本当に起きる。
だから私は、玲との今を手放したくない。
玲が家族のことを怖れているのは、きっと、その家族を本当に大切に思っているからだ。
私にはその重みが、最後まで分からないのかもしれない。
でも、玲が隣にいる。今、ここに。
それだけで十分だと、自分に言い聞かせていた。
第三章 日常の中で
玲と出会ったのは、大学の入学式だった。
同じ学部、同じ学科。オリエンテーションで隣の席になった。
「一人?私も一人。友達になろうよ!」
満面の笑みで手を差し出された時、私は少し戸惑った。施設を出てから、人に心を開くのに慣れていなかった。でも玲の笑顔には、拒む理由を忘れさせる何かがあった。
友達として過ごした一年。二年生で一緒にアパートを借り、関係が変わったのは三年の夏だった。
*
「瑞稀、今日の授業終わったらどこか行かない?」
月曜の昼休み、学食で玲が言った。
「駅前に新しいカフェができたんだって」
「了解」
こんな他愛もないやり取りが、私は好きだった。
午後の授業を終えて向かったカフェは、木を基調とした落ち着いた店だった。窓際の席から、冬の夕暮れの中を人々が行き交うのが見えた。
「そういえばさ」
カップを両手で包みながら、玲が言った。
「来月、実家に帰るんだ。母さんから電話があって」
私の手が、一瞬止まった。
「そっか」
「……瑞稀は、どうするの?」
「バイト入れて、普通に過ごす」
施設を出てからは、正月だからといって特別なことはしていない。一人で過ごすのにも慣れた。そう思っていた。
「……瑞稀も、一緒に来る?」
「え?」
「私の実家。友達として、だけど」
友達として。その言葉が、小さな棘のように刺さった。
「……考えさせて」
「うん。無理にとは言わない。でも、来てほしい」
玲はそう言って、カフェラテを一口飲んだ。窓の外で、人の波が途切れることなく続いていた。
*
その夜、アパートで私は一人考え込んだ。
玲の部屋から、シャワーの音が聞こえていた。
玲の家族に会う。友達として。
その言葉の意味を、私はよく知っていた。
玲が風呂から上がってきた。隣に座った。しばらく二人とも黙っていた。
「……友達としてでしょ」
つい、口から出た。
「それは……」
玲が言葉に詰まる。
「ごめん。意地悪だった」
「ううん。……分かるよ、瑞稀の気持ち」
玲は私の手を取った。
「私だって本当は、ちゃんと言いたい。でも、まだ怖くて」
「分かってる。責めてるわけじゃないから」
「瑞稀は、私のこと弱虫だと思う?」
思わない、と私は答えた。「もし私に家族がいたら、やっぱり言えなかったと思うから」
玲は私の肩に頭を預けた。
「いつかは言いたい。ちゃんと、恋人として紹介したい」
「その時を、一緒に待ってる」
私は玲を抱きしめた。二人の未来がどんなものか、分からない。でも玲と一緒なら、何でも受け入れられる気がした。
たぶん、と心の中で付け加えた。
第四章 初めての訪問
結局、私は玲についていくことにした。
「本当に?嬉しい!」
玲の顔が輝いた。その笑顔を見たら、最初から断るつもりなんてなかった気がした。
十二月三十日。新幹線の窓の外を、雪景色が流れていった。
「緊張する?」
「少しね」
玲は私の手をそっと握った。人目があるから、すぐに離したけれど。
駅では玲の兄が迎えに来ていた。玲と同じ優しそうな目をした、背の高い人だった。
「いつも妹がお世話になってます」
穏やかな声だった。
玲の実家は、閑静な住宅街の二階建てだった。門に正月飾りが揺れていた。
玄関を開けた瞬間に、玲の母親が飛び出してきた。
「玲!おかえり!……あら、この子が瑞稀ちゃん?」
私の手を取って握手した。温かい手だった。
リビングには暖炉の火が灯っていた。クリスマスツリーの隣に、正月の飾りつけ。家族の声と笑い声が重なる空間。
これが家族だ、と思った。
温かくて、愛情に満ちていて、私が失ってしまったもの。
「瑞稀ちゃんは、ご両親は?」
食事の途中で玲の母親が聞いた。玲が顔色を変えた。
「中学生の時に、事故で」
私は落ち着いて答えた。もう慣れた問いだった。
「……ごめんなさい。辛いことを」
「お気になさらないでください」
テーブルの下で、玲が私の手を握った。黙ったまま、ただ握ってくれた。
*
夜、玲の部屋に二人で布団を敷きながら、玲が小さく謝った。
「ごめんね、母さんがあんなこと聞いて」
「玲のお母さん、優しい人だね」
私は本心を言った。
「玲がどんな場所で育ったか、分かった気がする」
「……」
「玲が私を選んでくれたこと、改めて考えた。こんなに温かい家族がいるのに、誰にも言えない関係を、私と続けてくれている」
「当たり前だよ。好きなんだもん」
玲の声が、少し震えた。
その夜、私たちは手を繋いだまま眠った。家族が隣の部屋にいるから、それ以上のことはできなかったけれど。
暗闇の中で、玲の指の温かさだけを感じていた。
いつか玲がこの家族に、私たちのことを話せる日が来るだろうか。「友達」ではなく「恋人」として、私を紹介できる日が。
その日を待っている。どれだけ時間がかかっても。
そう思いながら、眠れないまま夜が明けた。
第五章 すれ違い
年が明けた。
表面的には、何も変わらない。大学、アルバイト、二人で過ごす時間。
でも、何かが変わっていた。
「今日どこか行かない?」
「ごめん、今日はちょっと……」
玲の視線が、逸れた。
一度なら気にしなかった。でもそういうことが、続いた。予定を濁す。スマホを見る時間が増える。目を合わせない。
何かあったのか聞くと、「何でもない」と言う。
不安が、少しずつ大きくなった。
*
二月のある夜。
アルバイトから帰ると、部屋の明かりがついていなかった。
電気をつけると、玲がソファに一人で座っていた。
泣いていた。
「玲」
私は駆け寄った。
「……兄さんにバレた」
玲は絞り出すように言った。
「私たちのこと。正月に瑞稀が来た時から、気付いてたって」
「それで?」
「今日、電話があって。『玲、瑞稀さんと付き合ってるのか』って聞かれた。……否定できなかった。兄さんには、嘘がつけなくて」
玲は顔を覆った。
「兄さんは怒らなかった。ただ、『父さんと母さんには自分から言った方がいい』って」
「……玲」
「でも怖い。拒絶されたらどうしよう。家族を失ったらどうしよう」
体が激しく震えている。私は玲を抱きしめた。
「お兄さんが言ってくれたんでしょ。自分から言った方がいいって。それは応援してるってことじゃないの?」
「……そうかな」
「きっとそう。玲の家族は優しい人たちだった。分かってくれると思う」
その言葉が本当かどうか、私自身にも確信はなかった。
でも、玲に必要なのは今、確信ではなかった。
私たちは朝まで抱き合っていた。
*
次の日、玲は実家に電話をかけた。
私はリビングで待った。玲の声が、ドア越しにかすかに聞こえていた。
三十分後、玲が部屋から出てきた。
「父さんは……黙ってた。母さんは、泣いてた」
玲は震える声で言った。
「父さんは最後に、『少し時間をくれ』って。今すぐには受け入れられないって」
玲はソファに崩れ落ちた。
「父さんは『今すぐには』と言ったんでしょ? それは、いつかは、ってことじゃない?」
「……そうかな」
「玲の家族は、玲のことを愛してる。だから、きっと」
私は玲を抱きしめた。大丈夫、乗り越えられる、と言いかけて、やめた。
分からないことを、言葉にしたくなかった。
第六章 崩壊
一週間が過ぎた頃、玲の父親から電話があった。
内容は短かった。
『あの子と会うのはやめなさい。お前の人生を壊す』
電話を切った後、玲は呆然と立っていた。
「瑞稀、父さんが……」
「──聞こえてた」
私は努めて静かに言った。驚きはなかった。ああ、やっぱり、という感覚だけがあった。
「瑞稀には、家族がいないから分からないよ」
空気が止まった。
「ご、ごめん……違うの、そんな意味じゃ」
分かっている。悪意じゃない。
でも、きちんと刺さった。奥まで。
「……そっか」
笑えた。ちゃんと笑えたと思う。
やっぱり、と思った。私は"家族の外側"の人間だ。恋人であっても、最後には弾かれる側。
「ねえ、玲。私と家族、どっちかしか残せないって言われたら」
玲が息を呑む。
「……そんなの、選べないよ」
即答だった。
その答えが、もう答えだった。
「だよね」
胸の奥が、すっと冷えた。怒りはない。ただ少しだけ──惨めだった。
「……少し離れよっか」
私は言った。
「え……」
「玲が家族を失うのは嫌だから」
玲は、私の手を離した。その瞬間、胸の奥で何かが静かに崩れた。
「……少し、時間をくれない?」
玲が言った。
まただ、と思った。また私は、選ばれない。
「いいんだよ」
私は笑った。力強く言おうとした。でも声は少し震えた。
「玲は家族を大事にしなよ」
*
その夜、同じ布団に入った。
でも、触れなかった。
玲のすすり泣きが、背中越しに聞こえた。
抱きしめようと思えば、できた。でも腕は動かなかった。
また期待したら、きっとまた落ちる。
私はどうせ、途中の人間だ。家族という完成形の前では、恋人は簡単に負ける。
あの日と同じだ。午後三時。白い廊下に立ち尽くした日。世界はあっさり私を置いていった。
今回も同じだ。違うのは、置いていくのが玲だというだけで。
*
私は不動産屋に行き、新しいアパートを契約した。
ある朝、玲が寝ている間にベッドを抜け出した。荷物は最小限にした。玲と一緒に買ったものは、置いていった。
玄関で一度だけ振り返った。玲との時間が染み込んだ部屋。
もう戻らない、と思った。ここに私の居場所はない。そう決めた。
書き置きは一行だけ書いた。
『私はこれからも玲の幸せを一番に願ってる。 瑞稀』
*
玲は、瑞稀のいなくなった部屋で、長い間動けなかった。
書き置きを握りしめたまま、床に座り込んだ。
瑞稀の本、瑞稀が使っていたマグカップ、瑞稀の匂いがまだする毛布。
全部がここにある。瑞稀だけがいない。
玲はアパートを解約することにした。この部屋には、もういられなかった。
*
玲は何度もメッセージを送った。未読のまま増えていく。
電話にも出ない。
学校で廊下ですれ違うと、瑞稀は視線を逸らした。ただ、それだけだった。
玲はようやく気がついた。
自分が選ぼうとしていたのは、家族じゃなかった。安全だった。傷つかないための、逃げ場所だった。
今さら気づいても、遅い。
でも。
もう一度だけ、話したい。
玲は新しい部屋でクッションに顔を埋め、声を押し殺して泣いた。それから、勇気を出してメッセージを送った。
「一度だけ会ってほしい」
*
カフェは静かだった。平日の午後、客はまばらだった。
玲が来た。目の下に、少し影があった。
「……話って、何」
私の声は、自分でも驚くほど乾いていた。
「あのね、瑞稀」
玲の手が、テーブルの上で小さく震えていた。
「私たち、やり直したい」
私は何も言わなかった。
「あの後、考えた。……瑞稀なしの生活、耐えられない。それだけじゃなくて、私、ずっと間違えてた。瑞稀のことを、ちゃんと守れなかった」
「今だけじゃないの?」
私は言い放った。自分でも驚くほど、冷たい声だった。
「また家族と揉めたら、また揺れるんでしょ」
玲は答えなかった。ただ、静かに泣き始めた。
私もずっと、泣きそうだった。
「父さんに言った」
玲が言った。声が落ち着いていた。さっきとは違った。
「瑞稀とは別れないって。時間がかかってもいい、でも隠さないって」
「……」
「反応はなかった。電話を切られた。でも、言った。私、初めてちゃんと言えた」
私の目が揺れた。
「怖かった。本当に怖かった。でも、瑞稀を隠すことの方が、もっと怖かった」
沈黙が続いた。長い沈黙だった。
窓の外で、誰かが笑い声を上げて通り過ぎた。
「……もう一回だけ」
震える声で、私は言った。
玲は何も言わなかった。ただ、テーブルの上の私の手に、自分の手を重ねた。
私たちは二人とも、しばらく泣いた。静かに、人目も気にせず。
第七章 社会という壁
大学四年の春。就職活動の真っ只中で、私たちは再び同じアパートに住み始めた。
玲は小学校教員を目指していた。私は出版社を受けていた。
「面接で『結婚や出産の予定は』って聞かれた」
玲がソファに帰ってくると、最初にそう言った。
「何て答えたの?」
「今は考えていません、って。面接官の顔が曇った」
玲は深くため息をついた。
「本当のことなんて、言えるわけない。『パートナーがいます』と言えば、必ず『彼氏さんですか』って聞かれる」
私も同じだった。就職活動という場面で、また「普通」を演じることを求められた。
世間は敵にならなかった。ただ、簡単に味方にもならなかった。
*
五月、玲に内定が出た。地元の小学校だった。
「おめでとう」
抱きしめると、玲は力なく微笑んだ。
「……内定式で、いろいろ聞かれるかもしれない。先輩がそう言ってて。恋人がいる人は、とか」
「玲が無理だと思ったら、言わなくていい」
「でも、瑞稀に申し訳ない」
「何が」
「瑞稀のことを隠して生きていくのが、嫌なの」
玲の声は小さかったけれど、揺れていなかった。
「焦らなくていい。玲のペースでいい。私は待ってる」
「……ありがとう」
玲は私の胸に顔を埋めた。それ以上は、何も言わなかった。
六月、私にも内定が出た。調べると、その出版社にはまだ同性パートナーシップの制度がなかった。
私は、それをひとまず引き出しの奥にしまった。
玲がそれを知って、「一緒に考えよう」と言った。
「二人でなら、きっと大丈夫」
根拠はない。でも今は、その言葉で十分だと思えた。
*
卒業式の帰り道。桜はまだ蕾だった。
「父さんね」
玲が言う。
「まだ、分からないって」
私は頷く。受け入れるとも、拒絶するとも言わない。ただ、保留。その曖昧さが、いちばん苦しい。
手を繋いだ。玲の指が、少し強く握ってくる。まるで離される前に握っているみたいに。
「怖い?」
「うん」
玲は少し考えてから言った。
「また揺れるかもしれない」
「私も怖い」
初めて、そう言った。世界と戦えるなんて、嘘だった。本当は、二人とも弱い。
「でも」
玲が続けた。
「今は、隠さない」
未来の約束じゃない。今だけ。
私は頷いた。頷きながら思った。
あの冬、私は言った。世界中を敵に回したって、負けないと。
でも違った。世界は敵にならなかった。ただ、簡単には味方にもならなかった。
私たちは強くない。家族も、社会も、仕事も、全部思っていたより重たかった。
それでも。
手は、離していない。
桜の蕾が風に揺れる。
まだ咲いていない。春は始まりじゃなかった。冬の続きを、少し明るく照らしているだけだった。
私たちは、まだ途中だ。
でも途中というのは、歩いている、ということだ。
私は玲の手を握り返した。
それだけが、今の私たちにできることだった。
── 完 ──




