9 ウィルフリッドとエリノアの距離
「エリノア、ここ最近ずっと気になっていたんだが、いつものように“ウィル”や“ウィルフリッド”もしくは、“殿下”と呼んでくれないか? その……“ウィルフリッド王太子殿下”は距離を感じる」
「……それでよいのです。わたくしはわざとそのように呼んでいるのですから」
告げると、ウィルフリッドの表情がビクリと動く。
「それは、私が婚約破棄すると言ったからか?」
表情を暗くしたウィルフリッドがエリノアに問い掛ける。どこか辛そうな声色にエリノアは一瞬返事をすることを躊躇った。
「……えぇ、そうですわ。ですからウィルフリッド王太子殿下もわたくしを“エリノア”や“エリ”と呼ばれることはどうかお控え願います」
「エリノア、君を傷付けてしまったことは謝る。だが、本当に君と婚約破棄したかったわけじゃないことは信じて欲しい」
「……そんなこと確かめようがありませんわ。それに、わたくしの目にはウィルフリッド王太子殿下がナターシャ様を好いているようにしか見えませんでしたもの」
「だから本当に……っ!」
何かを言いかけたウィルフリッド。しかし、エリノアの落ちた視線を目にして、彼女に心底愛想を尽かされていることに気が付く。
ウィルフリッドは席から立ち上がると向かい合って座っていたエリノアの前へ傅いた。
「え……? ウィルフリッド王太子殿下!? お、おやめください!!」
何事かと戸惑うエリノアにウィルフリッドは構わず続ける。
「私は……どうすれば君にこの想いを信じてもらえるだろうか?」
ウィルフリッドは顔を上げてエリノアを見つめる。
「どうすればと言われましても……困りますわ。第一、ウィルフリッド王太子殿下はナターシャ様が好きなのでしょう? 好いてもいないわたくしと結婚するより、好いたお方と一緒になる方が幸せに決まっていますわ! その方が素敵だと思いませんか? ですから、お慕いする方と結ばれる為にもわたくしとの婚約を破棄するべきですわ!!」
「違う。前にも言ったが、私が好きなのは君だ! エリノア!!」
「っ! そんな筈は……!」
そんな筈はない。
そう思うエリノアだが、ウィルフリッドの真剣な眼差しがエリノアを見つめている。二人は何度か似たような会話を交わしているが、ウィルフリッドは変わらずエリノアが好きだと答える。
だったらあの日々は? ウィルフリッド王太子殿下がナターシャ様と仲睦まじく過ごされていたのは何故ですの?
エリノアの頭にそんな疑問が生まれる。エリノアはそれをグッと呑み込もうとして、でもやめた。
「……でしたら、ウィルフリッド王太子殿下がナターシャ様と仲睦まじく過ごされていた理由をお伺いしても?」
「それは……」
呟いたウィルフリッドが頬をほんのりと赤くする。エリノアがこんなウィルフリッドを見るのは久しぶりだった。
「君に、……優しくて誠実な男だと思われたくて、困っている者に声を掛けて手を差し伸べたんだ。最後まで見放さずに面倒を見ようと頑張っているうちに、いつの間にかナターシャ嬢のペースに…………」
「……え?」
わたくしが関係していましたの??
キョトンとエリノアは目を丸くする。
「……彼女にあそこまで距離を許してしまったことは、失敗だと反省している」
口元を手で隠して、少し恥ずかしそうにウィルフリッドが視線を逸らす。どうやらウィルフリッドは一度決めるとやり遂げるまで真剣に取り組み、周りが見えなくなる一面があるらしい。だとしても、エリノアがあの日々を心細く感じながら過ごしていたことには変わりない。
ウィルフリッドはエリノアに良く見られたくて行動していたが、その過程でエリノアを、エリノアの気持ちを見ることが出来ていなかった。彼女の心を置いてけぼりにして、間違った方へと突き進んてしまったのだ。
「ウィルフリッド王太子殿下」
エリノアが名前を呼ぶと彼の視線が再びエリノアに向けられる。
「わたくしは王太子殿下がわたくしを好きだと仰った言葉をまだ信じることが出来ません」
告げるとウィルフリッドの表情が少し歪む。
「しかしながら、ここ数日の様子を見ていれば、ウィルフリッド王太子殿下がわたくしと話すために時間を作ろうとされていることは良くわかりました」
今までナターシャと共にしていた昼食も学園や王城でナターシャの勉強を見ることも止めたウィルフリッド。そして、今まで溜めていた公務を早急に片付けたばかりかエリノアと昼食を共にするようになり、こうしてお茶会の席まで根回しした。
ウィルフリッドが今までナターシャと過ごしていたことも事実だが、エリノアとの時間を優先するようになった。それもまた事実だった。
エリノアの言葉を聞いてウィルフリッドの瞳に希望の色が宿る。
「ですが、わたくしがお慕いする方と結ばれたいという気持ちに変わりはありません」
「っ! まさか、エリノアにはもう既にそういった殿方がいるのだろうか?」
ウィルフリッドの瞳が再び翳る。
「あ、……いえ。そういう訳ではありませんわ」
否定したエリノアにウィルフリッドがホッと息を吐く。
「ウィルフリッド王太子殿下がナターシャ様ではなく、わたくしを好いていると仰るのなら、わたくしが納得出来るまでお時間を頂けますか? 気持ちを整理させたいのです」
「……あぁ、勿論だ」
ウィルフリッドが頷く。
「それでも、わたくしがウィルフリッド王太子殿下の婚約者でいられないと感じた時は婚約破棄して頂けますか?」
「なっ! 何故だ!?」
「……わたくしの夢はお慕いする方と結ばれることだからです。貴族社会でそのような我儘が許されるとは思いません。ですからその時はやはり、未来の旦那様を探す旅に出たいと考えます」
それはエリノアが貴族という身分を捨てでも叶えたいことなのだと、ウィルフリッドはエリノアの真剣な眼差しを通して理解する。
少しの間を置いて、ウィルフリッドが「……分かった」と頷いた。
「本当ですか?」
まさか、こんなにあっさり了承してもらえると考えていなかったエリノアは驚きで目を見開く。
「あぁ。私が君の心を落とせば何も問題もない。そういうことだろう?」
「えっ? お、おおお、落とす!?」
予想外の言葉に顔を赤らめながら更に驚くエリノアの手をウィルフリッドが掬い上げる。
「エリノア、これからも改めてよろしく頼むよ」
そう言うと、ウィルフリッドはエリノアの手の甲に優しく口付けた。