5 王太子殿下の好きな人
学園の校門を潜ったウィルフリッドは出来ていた人だかりを目にして、何時もと違う学園の様子に眉を顰めた。
「これは……なんの騒ぎだ?」
「ウィルフリッド殿下!!」
ウィルフリッドの元へ駆け出したナターシャが勢い余ってウィルフリッドの胸に飛び込む。
「おっ! と、ナターシャどうしたんだ?」
ナターシャを受け止めたウィルフリッドが彼女の肩を支えながら向き合う。
「わたくし、殿下の為を思ってエリノア様にお話を……ですが、エリノア様が聞き入れてくださらないのです」
目元に涙を浮かべてナターシャは訴えかけた。
ナターシャが言うように、エリノアは“ウィルフリッドに謝罪しろ”と言われた件を断った。だけど今この場に現れたウィルフリッドやアレックスには、話し合おうと歩み寄ったナターシャの勇気をエリノアが無下にしたかのように聞こえただろう。
ナターシャ様の狙いはこれだったんだわ。
可哀想な伯爵令嬢と傲慢な公爵令嬢の印象を周囲に植え付け、ウィルフリッドを味方につける。そうして王太子の婚約者にはナターシャが相応しいと学園の生徒たちに印象付けたかったのだろう。
わたくしとしたことが、完全にナターシャ様のペースに持っていかれてしまいましたわね。
だけど、これで婚約破棄は濃厚なものになっただろう。これだけエリノアへの悪い印象が集まれば、婚約破棄の話しをした場が公式で無くても噂の数の力によって事態は動かされる。エリノアは王太子の婚約者として不適切のレッテルをたった今、貼られたのだ。
まぁ、元々そのつもりでしたし、わたくしは構いませんが。……それでも胸がチクリと痛むのは何故かしら?
エリノアはそっと胸元に手を当てて、キュッと握る。
「エリノア様……」
ルーシーが心配そうにエリノアを見つめた。
この場において、エリノアを気遣ってくれる相手はもはやルーシーだけだった。
「ルーシー様、心配ありませんわ。わたくし、お先に失礼致しますわね」
エリノアはにこりと笑顔を作ると、くるりとウィルフリッドたちに背を向ける。
「待ってくれ、エリノア!!」
だけど、ウィルフリッドの声がそんなエリノアを呼び止める。
「ウィルフリッド王太子殿下、何か御用でしょうか?」
エリノアは半身だけ振り返って尋ねる。そっとナターシャの体を離したウィルフリッドがエリノアに近付いた。
「君と話がしたい」
「……っ」
真剣な声色にエリノアは一瞬言葉が出てこなかった。
「では、本日王城にてお話をお伺い致しますわ」
そう告げてエリノアが体を戻すと、再び歩き出そうと踏み出す。そんなエリノアの手をウィルフリッドの手が捕まえた。
「っ!? で、殿下?」
エリノアが思わず振り向くと、弱々しく歪められたウィルフリッドの表情が目に入る。その瞳と目が合ってエリノアは息を呑む。
「今、話したいんだ」
エリノアはこんなにも切実な表情のウィルフリッドを見たことがなかった。だからだろうか、エリノアは何も言い返すことが出来ない。
「今までのこと謝らせてくれ。エリノア、私は決めたよ」
「っ……なっ、何をです?」
何とか尋ね返したエリノアの耳元に唇を寄せたウィルフリッドが囁く。
「もう遠慮はしない。絶対に君を振り向かせてみせる」
「っ!!??」
耳元を擽った吐息にエリノアは思わず後退る。エリノアの首元から頭の先までを一気に熱が駆け上がった。
「な! ご……御冗談を!」
「冗談なんかじゃない。これからは君に対して素直な気持ちをぶつけるし、誰にでも優しくするのはもう止める。私には君だけなんだ。エリノア」
どうして……殿下はそんな顔をするの?
まるで愛おしい者でも見るような眼差しがエリノアに向けられていて、エリノアはひどく混乱した。
「そ、……そう言うことはナターシャ様に仰ったらどうです?」
耐え切れずにバッと視線を下げたエリノア。バクバクと激しく刻む鼓動に目が泳ぐ。
この感じ……わたくし、知っているわ。でもまさか! ……だって、わたくしは今までウィルフリッド殿下にときめいたことなんて一度もありませんのに!!
前世で経験したことがある胸の高鳴りにエリノアは戸惑う。そこへ更に追い打ちをかけるように、ウィルフリッドが言葉を紡いだ。
「嫌だ。私が好きなのはエリノアだからね」
「っ!? すっ、すすすすす、すきぃ!!??」
ウィルフリッドがぎゅっとエリノアを抱き締める。
その行動に「キャー!!」とオーディエンスから黄色い悲鳴が響いた。だけど、今のエリノアにその声は一切入ってこない。体がカチコチに固まったまま、懸命に思考を巡らせる。
好き? 誰が? 誰を??
え? 殿下が? わたくしを!?
「エリノアに勘違いをさせてきたのは私の責任だ。だから、これからは君に分かるように気持ちを伝えていこうと思う。婚約破棄はしない。だから旅に出たいなんて言わないでくれ」
な、何がどうなっていますの!?
「もうすぐ授業が始まりますよ。早く教室に入りなさい」
そんな教師の声がして生徒たちが散り散りになっていく。その場は御開となり、呆然と立ち尽くすエリノアと優しく微笑むウィルフリッド。そして、ワナワナと拳を握るナターシャ。それを見守るアレックスとルーシーが少しの間、その場に取り残された。