27 迷子の気持ち
「あの、殿下はいつ前世の記憶を?」
「6歳の時だ。丁度、エリノアに会う半年くらい前かな? 最初は夢だと思ったけど、初めて君に会った時にあれは前世の記憶だと理解したんだ」
「そんなに前から……?」
ウィルフリッドはエリノアが前世を思い出す一年程前から前世を知ったことになる。それも口振りからして、ハッキリと思い出しているようだった。
「わたくしは7歳の頃にぼんやりと思い出した程度でした」
「そうだったのか」
エリノアがぼんやりとはいえ、幼い頃に前世を思い出していたことは、ウィルフリッドにとっては意外なことだった。
「ごめんなさい……」
エリノアは俯くと、ポツリと謝罪の言葉を零した。
「殿下は前世のわたくしとの約束をずっと前に思い出していたのに、わたくしは昨日まで憂斗の事も約束の事も忘れていました。とても、大切な約束だった筈なのに……」
エリノアは抱きしめられているウィルフリッドの胸を押し返す。案外あっさり離してもらうと、体の前で自身の手を重ねてキュッと握り込んだ。
「気にする必要はない。前世の記憶を持っている方が珍しいことなんだ。それに君は思い出してくれた。そうだろう?」
「ですが、わたくしは最低な女です。今なら分かります。殿下が本気でわたくしを、お慕いしてくださっていること……」
エリノアはウィルフリッドと過ごしてきた時間を思い返していた。今思えば、幼い頃からウィルフリッドは誰にでも優しかったが、エリノアの前ではとても緊張する傾向があった。それは前世の憂斗の姿と重なる。そして、婚約破棄騒動後のウィルフリッドはエリノアを優先し、エリノアを愛おしそうに見つめることが多かった。それは瑛里だった頃にも見たことがある姿だ。
夜会でエリノアを救った時のように、堂々とするウィルフリッドがいる一方で、今でもエリノアを前にすると緊張することがあるということは、エリノアへ気持ちを伝えることにかなりの勇気を必要とした筈だった。
「それなのに、……わたくしは“お慕いする方と結ばれる為に、未来の旦那様を探す旅に出たい”と、殿下の気持ちを踏み躙るような事を言いました」
「エリノア……」
気にする必要はない。と言いたいウィルフリッドだったが、軽率に発言をすることが躊躇われた。
それは、エリノアが昨日からずっと悩んでいる事で、エリノアを浮かない顔にさせている原因だと察したからだ。
「殿下と過ごす時間が増えてから、わたくしの気持ちに変化はありました。……わたくしは恐らく、殿下を……お慕いしている、のだと思います」
初めてウィルフリッドに対する気持ちを言葉にしたエリノア。それはとてもぎこちなく、小さな声で紡がれた。
だが、それをしっかりと耳にしたウィルフリッドは驚きすぎて、「えっ? 本当に!?」と即座に聞き返す。ウィルフリッドにとっては夢ではないか? と疑うほど嬉しい言葉だった。
そんなウィルフリッドに戸惑いながら「ええっと、はい……」と恥ずかしそうに答えるエリノア。だけどその次に続く言葉が、浮かれそうになっていたウィルフリッドを再び現実に引き戻す。
「ですが、それはエリノアとしての気持ちなのか、前世の瑛里として憂斗を慕っている気持ちなのか、……分からないのです」
ウィルフリッドは前世を思い出してから今日まで、随分と時間があった。その中で憂斗としての人生とウィルフリッドとしての人生、その両方をひっくるめて瑛里とエリノアが好きなのだと理解した。
だが、昨日思い出したばかりのエリノアは違う。まだ混乱の最中にいて答えが出せていないのだ。
ウィルフリッドは優しく「エリノア」と名前を呼ぶと、彼女の肩を抱き寄せて再び自身の胸の中に閉じ込める。
「私がエリノアを好きな気持ちは伝わったんだよね?」
「は、はい」
「エリノアと王城の庭でお茶会をした時、私がナターシャではなく、エリノアを好いていると納得できるまで待つと言ったこと、覚えているかい?」
言われて、エリノアは婚約破棄騒動後にウィルフリッドが手配したお茶会を思い起こす。
「勿論です」
「だったら今度は君の気持ちがウィルフリッドと憂斗、どちらに向いているのか、それを君が見つけるまで待つよ」
エリノアが驚いて「えっ?」と顔を上げると、優しい瞳をしたウィルフリッドと目が合う。
「ゆっくり考えてくれて構わない。勿論、私はその間もエリノアの心を落とすつもりで君と接するけどね」
フッと笑うウィルフリッドがエリノアを見つめる。恥ずかしさと申し訳なさでエリノアは堪えきれず、そこから視線を反らした。
「ですが、それではいつまで殿下をお待たせしてしまうか分かりません……」
「構わないよ」
「1ヶ月かもしれませんが、半年、1年……いいえ、3年掛かるかも……」
「いくらでも待つさ」
「それはいけませんわ。殿下は王太子なのですから。国王陛下や王妃殿下は勿論、国民たちは殿下が学園を卒業したら、程なくして婚姻されることを国の安定の為にも望んでいるでしょう。婚約者がいながらいつまでも婚姻の話が上がらなければ、わたくしたちの関係が上手くいっていないと不信に思われてしまいますわ」
そう、これはエリノアとウィルフリッドだけの問題ではない。王太子殿下の婚姻には国の事情も絡んでくる。
貴族や王族の婚姻はそこに本人たちの意志はさほど重要でないことが多い。勿論、互いに思いやって婚姻を結ぶカップルもいるが、その大半は家のために親が決めたものだ。
「本来であれば、わたくしの気持ちも殿下の気持ちも関係なく進められるものです」
「確かにそういった例もあるが……」
「殿下にはご兄弟もいらっしゃいませんし、何時になるかも分からない事に付き合っていただくわけにはいきません。期間を設けましょう。それまでにわたくしの答えが出なければその時はやはり婚約破棄を──」
「エリノア」
いつの間にか早口で話していたエリノアの肩をウィルフリッドが掴む。
「婚約破棄はしないよ」
「ですが──」と反論しかけたエリノアの唇にウィルフリッドの人差し指が当てられる。
「前にも言ったけど、私が君の心を落とせばなんの問題もないんだ。エリノアが答えを出すのにどれだけ時間が掛かろうと、それは君が心配するとこではないよ」
「……っ……」
ウィルフリッドの仕草や眼差し、そして言葉にドクンッとエリノアの胸が高鳴る。
「私たちが婚約者でなくなるのは、私たちが夫婦になる時だ。だから、これからも婚約は継続だ」
するりとウィルフリッドの手が滑り落ちて、エリノアの手を掬う。
「その時が来るまで、私は婚約者としてエリノアのそばにいる」
そう告げると、ウィルフリッドはエリノアの手の甲に口付けた。その瞬間、ぶわっとエリノアの体が熱を持つ。
ウィルフリッドはそうまでしてエリノアのことが好きなのだと、この時にエリノアは思い知らされた。