20 王太子殿下の心にある人
「会場の皆の前でも言ったように、仮にエリノアが犯人だったとして、王城のメイド全員を君が買収することは不可能だよ。王城のメイドは身元を調べた上で母上たちが選んだ人材だ。十分な給金も渡している。一時の大金に目が眩むような人間はうちの城に殆どいない自信があるよ」
「…………理由は、それだけですか?」
「いいや。私は君を信じている。こんなにも愛しい婚約者の君を簡単に疑ったり見捨てたりしないよ」
そこまで言うと、ウィルフリッドがエリノアの膝の上で重ねられていた右手を優しく撫でる。ウィルフリッドの言葉やその仕草に、エリノアはじんわりとした熱が心の中に広がるのを感じた。
「何より、自分で用意した凶器でうっかり手のひらを怪我する間抜けな犯人はそうそういないだろうしね」
「……確かに。そうですわね」
自分が疑われないように態と傷を作る犯人はいるかもしれない。だがウィルフリッドが言うように、手のひらという日常生活が不便になるような場所を好んで傷付ける人はいないだろう。
「エリ、痛かったよね。僕が近くにいながら本当にごめん……」
ウィルフリッドが“私”ではなく、“僕”と言う言葉を使った。エリノアを“エリ”と呼ぶ時と同じように、ウィルフリッドがその表現を使うのはプライベートでエリノアと会う時や気が緩んだ時、それからふとした時や心に余裕がない時だ。今の状況やウィルフリッドの申し訳なさそうな表情からして、彼の心に余裕がないのは一目瞭然だった。
ふと、エリノアの頭に少し前に思い出した前世の記憶が過ぎった。
“エリ”と呼ばれた声の響きが、“瑛里”と呼ばれていたあの頃と重なって聞こえたのだ。
「う、いと……」
ハッとエリノアは口を噤む。だが、小さく呟いたエリノアの声を聞き逃さなかったウィルフリッドが、驚いたようにエリノアを見る。
「……エリノア……今、なんて?」
「え? ……えっと……」
「僕のこと、呼んだ?」
「あの……っ」
エリノアは頭をフル回転させる。前世のことを思い出したからといって、“ウィルフリッド”と“憂斗”を混同して呼んでしまったなんて、どのように説明すればよいか分からなかったからだ。
「やっと、僕をウィルと呼んでくれる気になったの?」
「えっ?」
どうやらウィルフリッドには“ウィル”と聞こえたらしい。幸か不幸か、エリノアは一安心する。
「た、偶々ですわ! 殿下があまりに悲しそうなお顔をされるから」
「あぁ、どうしよう。不謹慎だけど、嬉しいよ」
ガバっとウィルフリッドがエリノアに抱きつく。
「きゃ!? で、殿下!?」
「絶対に君を守るよ。僕は昔、君に約束したんだ! 必ず君を見つけて今度こそ君を守ると! 君と結ばれて、絶対に君を幸せにするんだって!!」
ギュッとウィルフリッドが抱きしめる腕に力を込める。本来ならば離れてもらうよう抗議するところなのだが、エリノアの頭の中にはハテナが浮かんでいた為、されるがままだ。
わたくしを見つけるとはどういう意味かしら? それに“守る”って? 今までも殿下から守ると言われたことがある気はしますが、“今度こそ”という言い方が気になりますわ。まるで前に一度、わたくしたちの間に何かあったような言い方。……引っかかりますわね。
「殿下、わたくしをどなたかと勘違いされているのではありませんか?」
「勘違いなんかしていないよ」
「ですが──」
エリノアが言いかけたとき、部屋の扉をノックする音が響き渡る。ウィルフリッドはエリノアを抱き締める力を緩めると、少し身体を捻って扉の方を向いた。だけど彼がエリノアを離す様子はなく、抱き締めたままだ。ウィルフリッドが入室を許可すると王家の騎士が報告にやってきた。
「ウィルフリッド王太子殿下! 短剣の鞘が発見されました!!」
エリノアは「えっ!!」と驚く。だが、ウィルフリッドは驚く素振りすら見せずに、真剣な顔で目を細めた。
「それはどこから出てきた?」
先程までとは打って変わって、低く冷たい声色で尋ねたウィルフリッドに騎士が息を呑む。
「身体検査を行った騎士によりますと、アイーリズ伯爵令嬢の太腿辺りに括り付けられていたとのことです!」
その言葉を聞いて、エリノアは襲われた直前のことを思い出していた。
ナターシャはドレスを捲し上げて、太腿の辺りから短剣を取り出していた。ドレスの下に鞘ごと短剣を隠し持っていたのは、素足のままでは自分の足を傷付けてしまう恐れがあるからだと、すぐ推測できた。だけど、証拠になり得るものをまだ同じ場所に隠し持っていたとは考えていなかったのだ。
「やはりナターシャ嬢が……」
呟いたウィルフリッドにエリノアは思わず尋ねる。
「殿下はこの結果が分かっていたのですか? ナターシャ様が鞘を持っていたと分かった今もそうですが、鞘が発見されたと聞いてもあまり驚かれていないようでした」
嵌められた本人であるエリノアは犯人に心当たりがあった。だが、ウィルフリッドは違う。
困惑の色が混じったエリノアの視線にウィルフリッドは微笑む。
「そうだね。こう見えて昔は推理モノのドラ……じゃなくて、推理小説をよく読んでいたんだ」
「?? 殿下が推理小説……ですか?」
エリノアの問い掛けにウィルフリッドが「あぁ」と頷く。
ウィルフリッドが学園や王城の図書館でよく調べ物をしているのはエリノアも知っていた。だが、推理小説を読んでいたことは初めて知った。
今回の騒動に関しては容疑者が少ないため、エリノアが犯人でない場合は自ずと答えが限られるのは確かだ。だが、そのエリノアの容疑を晴らすことが難しい状況だったことが、重要なポイントだとエリノアは感じていた。
「それに言っただろう? 君を信じていると。最初から私の中で容疑者はナターシャ嬢一択だったよ」
「えっ?」
つまり、殿下は最初からナターシャ様の自作自演だと思っていたということ?
エリノアの胸に温かな感情が流れ込む。無条件で自分のことを信じてくれる婚約者を愛しく感じて、それでいてとても頼もしかった。
「これで犯人がはっきりしたね。では、会場の皆に知らせようか」
その言葉を合図にエリノアはウィルフリッドにエスコートされながら待機していた部屋を出た。




