19 神官の治療
容疑者として最有力候補だったエリノアは真っ先に身体検査を受けることになった。身体検査は入念に行われ、それぞれキアーズ子爵家と王家の騎士が担当した。尚、女性という点が考慮され、エリノアとナターシャの身体検査は女性騎士が行った。
手のひらを怪我していたエリノアだったが、治療の時間を与えられる暇などなく、腕の拘束が解かれてからは小さなポケットに入れていたハンカチで傷口を押さえていた。見事な刺繍が施されていた白のハンカチは身体検査が終わる頃には真っ赤に染まっていた。
せっかくのドレスもハンカチで押さえる前に滴った血液で所々真紅の水玉模様が出来上がっている。
エリノアの身体検査が終わると、入れ替わりでナターシャの身体検査が行われる。その際、部屋を出たエリノアはナターシャが抵抗する姿を目撃した。
「離しなさいっ! 何故わたくしが身体検査を受けなければならないのっ!! わたくしは被害者ですのよ!!」
「アイーリズ伯爵令嬢、貴女の身の潔白を確かなものにするためです」
「そんなの必要ありませんわ! エリノア様が加害者であることは一目瞭然ですものっ!!」
ナターシャと騎士のやり取りをエリノアは冷めた気持ちで眺めていた。
エリノアだって身に覚えのない容疑を掛けられた被害者だ。今回の件は恐らくナターシャが仕組んだことだと考えたエリノアだが、確かな証拠はない。寧ろ、エリノアに不利な状況証拠のみが残されているのが現実だった。
ナターシャがこれほど騒いでいる理由は彼女が短剣の鞘を隠し持っているからかもしれないが、単純に他人に身体を見られたり、触られるのが嫌だからということも考えられる。
エリノアだっていい気はしなかった。それでも自分の身の潔白の為に受け入れた。だが、身体検査を受けた全員が短剣の鞘を持っていなかった場合、やはりエリノアが容疑者と疑われることになるのだろう。
「エリノア様、こちらへ」
王家の騎士に声を掛けられ、エリノアは不安を抱えたまま案内役の騎士の後を付いて行く。騎士はとある部屋の前にやって来ると、ノックをして扉を開けた。
中は少し狭い部屋だった。そこにソファーに腰掛けたウィルフリッドの姿があり、彼はエリノアが入ってきたことを認識するとサッと立ち上がった。
「エリノアっ!!」
バッとエリノアに駆け寄ったウィルフリッドは、そのままの勢いでぎゅっとエリノアを抱きしめる。反動で少しよろけたエリノアだが、バランスを保って倒れないように耐えた。彼女はあっと言う間にウィルフリッドの腕の中に包まれた。
「っ! 殿下!? いけません!! わたくし、手もドレスも血まみれなのです。殿下のお召し物が汚れてしまいます!!」
離れようと身を捩るエリノアにウィルフリッドは「服が汚れるくらいどうだっていい」と答えた。
「私より先に身体検査を受け始めたはずのエリノアが、この部屋に来るのが遅かったから、何かあったのではないかと心配していたんだ」
告げるなりウィルフリッドはエリノアから少し身体を離す。
「さぁ、早く手の治療を」
ウィルフリッドはエリノアの腰を抱きながらソファーまで誘導する。そうしてソファーに腰掛けながら、ウィルフリッドの言葉に引っかかりを感じたエリノアは首を傾げて尋ねる。
「あの? ……“私より”というのは?? ……まさか、殿下も身体検査を受けられたのですか!?」
「あぁ。王城からここまでずっと君と一緒に居たんだ。王族といえど、容疑者の一人として疑いを晴らしておこうと思ってね」
告げると、ウィルフリッドが部屋の隅に立っていた騎士に目配せをする。すると騎士は一度外に出て、それから間もなく男性を連れて戻って来た。男性の服装を見て、彼は神殿に勤めている神官だとエリノアはすぐに分かった。
「っ、神官様が何故ここに!?」
「私が手配した。出血の具合からして、君の手の傷が深いように見えたから」
神官は神に仕える特別な職業だ。この世界の神官は神に祈りを捧げることで、聖なる力を少しだけ神から分け与えられる。それは怪我や病気を癒やしたり、穢れを祓うといった不思議な力だった。
たちまち怪我や病気が治るようなモノではないが、一度神官の治療を受ければ、少しだけ怪我や病気が癒やされる。それでも全ての怪我や病気が完治出来る訳ではない。だが、毎日神官の治療を受ければ、自然に治るのを待つよりも早く、そして怪我は跡が残ることなく綺麗に治るのだ。
「ですが、……わたくしは今、容疑者ですのに。……犯罪者は神官様の治療を受けることが出来ない筈です」
「その通りだ。だけど、エリノアはまだ容疑者だろう? 犯罪者と確定したわけではない。それに私は君が無実だと信じているから問題ないよ」
そう言ってにこりと微笑むウィルフリッド。信じているから問題ないだなんて、屁理屈もいいところだわ。とエリノアは思わずクスリと笑う。
「さぁエリノア、神官殿に手を出して」
ウィルフリッドに促されてエリノアは神官に怪我をした手を差し出した。
「それでは、カレンデム公爵令嬢、失礼します」
断りを入れると、神官はエリノアの手に自身の手を翳した。すると神官の手のひらから眩しくて温かな光が溢れて、エリノアの手を包み込む。エリノアはスゥーと痛みが引くのを感じ、心地よさに包まれたところで光が止んだ。
神官は温められた清潔なタオルでエリノアの血だらけだった手を拭う。それによって傷口がハッキリと認識できるようになり、パックリと切れていた赤の線が薄らと閉じかけていた。
神官は慣れた手付きでエリノアの怪我した手を消毒すると、ガーゼを当てて包帯を巻いていく。
「暫くはあまり怪我した手を使われませんように。現在は聖なる力によって、傷口が軽く塞がっている程度ですので、力を入れてしまわれますと、また傷が開いてしまう可能性があります」
「分かりましたわ。わたくしの為にここまでしてくださり、ありがとうございます」
会釈とともにエリノアは神官にお礼を伝える。
「神官として務めを果たしたまでです。それでは、これにて失礼させて頂きます」
神官は立ち上がって一礼すると部屋を出ていった。
身体検査を受け終え、怪我の治療も終えたエリノアは、張り詰めていた緊張の糸が切れたようにホッと息を付く。
「エリノア」
ウィルフリッドに呼ばれてエリノアが振り向くと、心底泣きそうな顔の彼がそこに居た。
「ウィルフリッド王太子殿下……」
「ははっ、先程まで殿下と呼んでくれていたのに、また王太子殿下に逆戻りか? 今は二人だけだから、ウィルと呼んでくれて構わないんだよ?」
自嘲気味に笑うウィルフリッドにエリノアは何故だか胸がキュッと締め付けられた。そして、こうなった経緯が頭を掠めたエリノアは眉を八の字に歪めて俯いた。
「……殿下は、どうしてあの状況でわたくしを信じてくださったのですか? 殿下が身体検査の話をするまで、会場にいる誰もがわたくしを疑っていましたわ」
いつになく弱気なエリノアにウィルフリッドもまた胸が締め付けられた。そんなウィルフリッドの脳裏には、前世の瑛里の姿が浮かんでいる。
大切な人に悲しい顔をさせたくない。今度こそ彼女を守り切る。それは、ウィルフリッドが前世を思い出した時に決めたことだった。
「それは勿論、君がそんな事をする人じゃないと分かっているからだよ」
なるべく優しい声で、ウィルフリッドは言葉を紡いでいく。
「エリノア、顔を上げて?」
その声にエリノアはゆっくりとウィルフリッドを見上げた。エリノアの瞳には、ウィルフリッドのもどかしそうな表情が映り込んでいた。