10 ナターシャの目論み
遡ること数日前。
アイーリズ伯爵令嬢、ナターシャ・ベル・ファンシーは荒れていた。
「どうしてなのっ!」
そんな叫び声と共に傍にあった花瓶が投げ飛ばされる。
パリンッ! と割れた陶器に「きゃぁ!」とメイド数人の悲鳴があがった。癇癪を起こしている主人を目の前にナターシャ付きのメイド達はビクビクしながら彼女を諌める。
「お嬢様、落ち着いて下さい」
「落ち着いてなどいられないわ! 昨日、ウィルフリッド殿下があの女に婚約破棄を言い渡したのよ!?」
あの瞬間、漸く自分が王太子の婚約者候補になれる! と、ナターシャは期待に胸を膨らませた。嬉しくて嬉しくて王城から帰宅後すぐに両親に報告し、今日は朝早くから学園に登校すると生徒たちに王城での出来事を少々色付けして言いふらしに回った。
「それなのに! 今日学園に来てみれば殿下は婚約破棄などなかったかのように振る舞うだけでなく、あの女の肩を持ったのよ! しかも、わたくしとの昼食も勉強会も全てキャンセル!! どうして!? ずっと順調だったのにっ!!」
エリノアに代わってナターシャが王太子妃になる。学園に入学してからはそのためにウィルフリッドに近づいて動いていたナターシャ。彼女にとってウィルフリッドからの拒絶は予想外だった。
「お嬢様、旦那様がいらっしゃいました」
「っ! お父様が!?」
メイドの言葉に即座に父親を部屋に通す。
「ナターシャ」
「お父様っ!」
バッと父に抱きついてナターシャは瞳を潤ませる。
「聞いてください!! ウィルフリッド殿下が急にわたくしとの昼食や勉強会をキャンセルされましたの! 殿下は今までわたくしに優しくしてくださっていたのに!! こんなの可笑しいわ! きっとエリノア様が何か手を打ったのよ!!」
「そうだろうな。恐らくエバンス公爵家の立場を利用したのだろう。……あぁ、ナターシャ、可哀想に。こんなに目を赤くさせて……」
よしよしと、大振りな宝石がついた指輪を嵌めた手がナターシャの頭を撫でる。
「心配はいらない。ワシとお母様に任せなさい」
「本当に?」
「あぁ。社交界を利用すればエバンス公爵令嬢に関する噂を流布することなど、容易いことだ」
ニコッと笑いかけるふくよかな身体の父親をナターシャはぎゅっと抱き締める。
「お父様、大好きよ」
「なぁに、可愛い娘の願いを叶えるのが父親の役目だ。それに、お前が王太子妃になれば我が家も安泰だからな」
伯爵家を大きくする。その為には娘に何としてでも王太子妃になってもらう必要があった。ニヤリと含みを孕んだ笑みを浮かべたアイーリズ伯爵はこれからのことを考えていた。
♢♢♢♢♢
エリノアとウィルフリッドのお茶会から一週間が経った。
学園でのエリノアの噂はウィルフリッドの仲の良さを羨み応援する者と、ナターシャに嫉妬してウィルフリッドに婚約破棄を言い渡された悪女だ! という者に二分化していた。いや、正確には婚約破棄に関する噂を支持する者が多かった。それはお茶会や夜会といった社交界で囁かれている噂が浸透しつつあることが大きな要因だ。その噂はいつの間にかエリノアの嫉妬から、エリノアがナターシャを虐めているとまで話が膨れていた。そして、じわじわとその噂を支持する者の数を増やしていたのだ。
それでも学園の生徒たちにエリノアとウィルフリッドの仲を支持する者がいるのは、実際に二人の仲を目撃しているからだ。
「エリノア」
「何でしょう? ウィルフリッド王太子殿下」
昼休み。ここ最近ではいつものメンバーになっているエリノアとルーシー、そしてウィルフリッドとアレックスの4人は一つのテーブルで顔を突き合わせていた。
「プライベートなんだから“王太子殿下”ではなく“ウィル”だろう?」
チラリとウィルフリッドがエリノアの顔を覗き込む。整った顔立ちのウィルフリッドにそんなことをされては例え彼に気がなくとも、世の中の女子は大抵顔を赤らめる。エリノアもその一人だった。
「っ! …………ウ、ウィルフリッド殿下」
「ウィル」
「……で、っ、殿下」
「…………。まぁ、いいだろう……」
少し不服そうにため息をこぼしたウィルフリッド。二人のやり取りを見ていたルーシーとアレックスはクスクス笑う。
「エリノア様ったら、照れてますわね」
「なっ、ルーシー様っ! 何度も申していますが、そう言うのではありませんわっ!」
「ふふふっ。必死なエリノア様はとっても可愛いらしいですわ」
「もうっ!」
ルーシーはこうしてエリノアとウィルフリッドの仲をからかって楽しんでいる。だが、ルーシーが純粋にエリノアとウィルフリッドのことを応援してくれているのが伝わってくるため、エリノアはそれ以上怒ることも出来ない。
「ウィルフリッドがいつになったらエリノア様から以前のように親しく呼ばれるようになるのか、見物だな」
アレックスはアレックスでエリノアとウィルフリッドの関係性を楽しんでいるようだった。学食で昼食を共にする度に繰り広げられているこのやり取りは定番になってきている。
「ところでウィルフリッド殿下はエリノア様の名前を呼んで、何とお声がけするつもりだったのですか?」
ルーシーの問いかけに「あぁ、それはね」とウィルフリッドが口を開く。
「今日も王城でエリノアとお茶をしようと思って。その誘いだ」
「そんなのお約束がなくとも最近は毎日殿下が時間になるとわたくしの元へ訪ねていらっしゃるではありませんか」
あの日のように王城の庭ではないものの、エリノアの休憩時間になるとウィルフリッドが王妃教育を受けている部屋を訪ねてくるのだ。
「君が急に訪ねてこられるのは困ると言うから、こうして事前に尋ねることにしたんだ」
ニコッと微笑むウィルフリッドにエリノアの胸がドキッと高鳴った。
「そ、そうでしたの……」
整った顔立ちのウィルフリッドの微笑みは心臓に悪い。顔が良いというのはそれだけで罪だ。とエリノアは思った。少し火照った顔を誤魔化すようにエリノアは食事を続ける。
そんなエリノアたちの席はいつも生徒たちの視線が注がれている。羨望や嫉妬の他にも様々な感情を孕んだ視線の中にはナターシャの視線も含まれていた。
あの日以降、ナターシャがウィルフリッドに声を掛けてくることはない。ただ密かに笑みを浮かべてナターシャはエリノアたちを眺めていた。