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投げ出したモノ 6つ

作者: 糸吉 土成

人間、生きていれば『投げ出して』しまうモノは、ひとつやふたつはあると思う。


自分は6つ投げ出した。


その、投げ出したモノを、書き連ねてみた。


読んで不愉快な気分になる方も、いると思う。


こういう人間がいるのだな。と、言う程度に捉えてもらえればと思う。

〔剣道〕


小学校2年生の時に始め(させられ)て、中学校3年生の時、投げ出した。


始め(させられ)たきっかけは、父から

「野球か柔道か剣道を始めろ。」

と言われた事だった。


実に面倒な事を言ってきた。と、思った事を覚えている。


飛んでくるボールは取れないし、打てない。


投げ飛ばされるのは、痛い。


そう考えると野球と柔道は、辛い。


剣道は防具を着けるから痛くないのでは?と、考えて、剣道を始める事を選んだ。


浅はかな考えは、幼き頃から変わらない。


当時居住していた地元の剣友会に入った。


習い始めの頃は、竹刀の持ち方とか打ち方とか、まだラクではあるのだが、防具を着ける頃から辛く感じた。


面は重いし、着けた時に頭全体がきつくて痛い。


面を竹刀で打たれた時は、面を着けているのに痛みを感じる事に驚いた。


小手は、もっと痛かった。


痛くないのは胴だったが、打ち損ないを脇の下に受けると痛かった。


有効打突を避ける為にアームブロック?した時も、右上腕が痛かった。


武道の防具は直接的な怪我を避ける為のモノで、打たれて痛みを感じない様では武道の意味を成さない。と言う内容を聞いた事がある。


言ってる事はごもっともだが、痛いのは辛い。


打たれた痛みも辛かったが、中々上手にならない事も精神的に辛かった。


小学校3年生の時、転校(転居)して、一時は止めていた。


転校(転居)先の剣友会に入る事になったのは、小学校4年生の時だった。


その剣友会は以前いた剣友会と違い、地元ではトップクラスの強さを持っていた。


当然、練習も厳しかった。


それでも、中学2年くらいまでは「周りに流されながら」続けていた。


中学校の部活も剣道部を選んだ。


周りに流されただけの選択だった。


中学3年の時、本当に嫌になり投げ出した。


部活をサボり過ぎて除名処分にされた。


ちなみに、剣友会は既に辞めていた。


両親からは色々言われたが、嫌なモノは嫌だと言いきった。


高校入学後、両親は剣道を再開する事を望んだが、拒否した。


何とか2級まで取れたが、8歳から始めて15歳の頃に2級と言うのは上達の見込みは無かっただろう。


同級生は1級か準1級を取っていた。


剣道の防具は値段が高い。


両親に対しては、高い買い物をさせて、それを無駄にさせた事自体は申し訳なく思う時もある。





〔落語〕


始めのきっかけは、中学2年の時、部活とは別の必修のクラブ活動で「落語研究」を選んだ事だった。


別に落語好きだった訳ではない。


喋る事が好きだった私は、何か喋る事が出来るクラブ活動を希望していた。


唯一、該当していたのが落語研究クラブだった。


ちなみに、中学1年の時も落語研究を希望したが、この時は希望者が少なくクラブ自体が無かった。


実際の落語実演は、中学2年、3年の文化祭で行った。


演目は「子ほめ」


一般的な前座噺である。


中学2年の時は、「客」に受けた。


だが、その「受け」は、PTA等の保護者等からの同情?に似た受けであることに、当時は気付かなかった。


中学3年の時は同じ噺をしたが、全く受けなかった。


その時の「客」は生徒が中心。


そこに同情は無かった。


落語の番組は、高校の受験勉強そっちのけで見続けたりしていた。


上手になりたい。と言う気持ちはあったのだと思う。


あったのだと思う。と言う表現になるのは、落語の番組自体は見続けていたが、必修クラブ以外で落語の稽古をしていた訳ではない事実からである。


それでも、それなりにハマっていたはずだったが高校入学後、アマチュア無線を始めたのと引き換えに投げ出した。


咄家を目指そうか。と、考えた時期も多分あったと思う。


落語を喋る?以外に書道とか着物の着付けとか色々覚える事があると聞いて、興味が今一つになった記憶がある。





〔アマチュア無線〕


アマチュア無線の興味は、小学校の頃からあった。


小学生向けの電気の図鑑で、アマチュア無線の項目があった。


『国家試験を受けて、免許を取る事が必要』と、書いてあるのを見て、当時は諦めた。


高校入学後、帰宅部だった自分はアマチュア無線部から

「名前だけ貸して欲しい。」

と、声を掛けられた。


部員を入れないと、廃部にさせられてしまうと聞いた。


実際、アマチュア無線部と言っても免許を持っている先輩は1人だけで、他の部員?は、部室を休憩所に使っていた。


名前を貸すくらい、別に良いか。と、思い、入部した。


部室は暇潰しに使って良い。と、言われた。


部室に置いてある無線機を見て、小学校の頃の興味が再燃?してきた。


元々は落語研究会を創設しようかと考えていたが、賛同する者はいなかった。


電話級(現第4級)アマチュア無線技士の免許を取ったのは、高校1年の時。


ハンドマイクで

「ハローCQ、CQ」

などと交信する事の楽しみにハマると、落語への熱が薄れていった。


要するに、私は「喋りたかった」のである。


部活自体は、定期的に行う位に活動したがコンテスト等は参加しなかった。


喋る事に加えて、無線機自体を操作する事へも満足感を感じていた。


この頃は、月に1度は秋葉原に通っていた。


当時の秋葉原には、無線機関係の店舗が複数存在していた。


店舗に置いてある無線機を操作するためだけの目的で、秋葉原に通った。


進路を決める時、無線関係の仕事を希望した。


数学、物理が不得意な私は、就職活動が少しでも円滑に進むにはどうしたら良いか考えた。


第1級陸上特殊無線技士の免許も奇跡的に取得出来た。


無線機を使って喋る仕事を希望しているのに、整備に特化した資格を取得しても意味の無い事に、その時は気付かなかった。


高校卒業後、無線関係の仕事に就くことは出来た。


数学、物理が理解出来ない者には苦痛すぎる世界だった。


業務研修は、私を含めて57人。


私の業務研修の成績は、57人中57番目だった。


免許を持っていれば何とかなる。と、思ったが、どうにもならなかった。


それに加えて、手先も不器用で要領も悪い事が重なり、精神的に苦痛だった。


「お前、本当に免許持ってるのか?」

と、言われた時は、自業自得とはいえ辛かった。


いつの間にかヤル気に欠けた存在になり、上司、先輩、同僚、後輩、全てを呆れさせた。


居心地が悪くなって、7年勤めたところで退職した。


それは、アマチュア無線に限らず「無線」そのものを投げ出した結論だった。


退職手続きを終えて社員寮から出た時、

「憧れた無線の仕事ともお別れか。」

と、柄にもなく干渉に浸った記憶がある。


アマチュア無線部自体は、私が高校を卒業した後に廃部になったらしい。


私自身、高校卒業後、学校に遊びに行く事はあったが、アマチュア無線部には関わらなかった。


結構、好き勝手やって最後は無責任に投げ出した典型とも言える。





〔プロレス観戦〕


最初に勤めた会社の退職が迫った平成10年の正月。


たまたまプロレスマニアの同僚がプロレス観戦に行くと聞き、私も連れていってもらう事にした。


場所は東京ドーム。


5000円のスタンド席から見えるリングは、本当に小さかった。


正月の東京ドーム興行に為、試合内容自体は大いに盛り上がった。


それまでテレビでしかプロレスを見ていなかった為、何か新鮮なモノを感じた。


当時の私は無線への熱?も冷め、無趣味の状態だった。


これを趣味にしても良いかもしれない。と、思った。


『趣味 プロレス観戦』


表記的にも、別に悪い印象は無いと思った。


2度目の会社に転職後、月に一度はプロレス観戦に行った。


特に団体は特定せず、仕事が公休日の時に開催している団体を観戦した。


毎月1回、後楽園ホールに足を運んでいた時期もあった。


東京ドームでの観戦の時は、双眼鏡を持参した。


プロレス観戦自体と全然関係無いが、昔、一緒に観戦した者から、何らかの批判を受けた。


「コイツと同じ趣味なんてまっぴら(後免)だ!」

と、考えた。


それ以後、プロレス観戦には行っていない。


たまには行こうかな。と、考えた時もある。


コロナ禍も重なり、完全に足も気持ちも遠退いた。


「何らかの批判」が無ければ、まだ続いていた趣味なのだろうかと考える時もある。





〔アナウンス〕


2度目の会社に勤めていた時、

「何か習い事でも始めようかな。」

と、考えた。


当時は、まだ、プロレス観戦が趣味だった。


残業続きの仕事。


たまの公休のプロレス観戦。


そんな生活に、何らかの変化?を求めていた。


昔、無線の仕事をしていた。


でも、無線への憧れではなく、喋る事への憧れだった。


ある日、何気なく見た雑誌に、某民放ラジオ局が主催するアナウンススクールの受講生募集の広告が目に入った。


広告には、『プロへの近道!』表記されていた。


このアナウンススクールに通えば、喋る仕事に就けるかもしれない!

と、安易な考えが頭の中を駆け抜けた。


早速、スクールを主催しているラジオ局に問い合わせた。


講義は毎週火曜日の夜7時から9時。


受講期間は半年。


受講料は30万円。


金額的に安く無い。


それに加えて、毎週火曜日の夜は残業を断らなくてはいけない。


受講料に関しては、親が何を言うか心配だったが、

「お前の貯金から出すなら、別に問題無い。」

と、あっさり言われた。


剣道の防具で大金を出させて損をさせた過去があったので、その点は心配だったが、すんなりと了承してくれた。


自分の貯金ではあるが、

「そんなくだらない事にカネを使うなんてもったいない。」

と、言われると思っていた。


会社には、アナウンススクールのパンフレットを見せて、

「仕事と全く関係ないけど、どうしても通いたい。」

と、伝えた。


火曜日は定時退社する代わりに、その他の日は残業に就くことを条件に了承を貰った。


発声、発音には自信があった。


その自信を打ち砕かれるのに、差程時間は掛からなかった。


スクールの講義自体は、とても楽しかった。


当時の受講生仲間とも、色々な話も出来た。


講義終了後、居酒屋で軽く飲む事もあった。


その時に撮ってもらった写真を見て、「楽しそうだな。」と親から言われた事もある。


その通り。

楽しい時間は過ごせた。


喋る仕事への扉が開く事は無かった。


アナウンススクールを受講すれば、喋る仕事への道が開けると安易に考えすぎていた。


30万円の高額の受講料の為か判らないが、講義修了後、1回だけ無条件でオーディションを受ける事が出来たが、箸にも棒にも掛からなかった。


講義修了生を対象とした追加講義も複数回受けた。


追加講義を受けた者を対象にしたオーディションを受ける機会にも恵まれたが、そこでも結果は出せなかった。


いつの間にか、投げ出していた。


滅多に入る事の出来ないラジオ局のスタジオに入れたり、現役のアナウンサーの方から講義を受けたりと、貴重な体験をする事は出来た。


ちなみに、その時の受講生は、私を入れて20人。


その内、喋る仕事への扉を開ける事が出来たのは、たった1人。


その方は、今でも現役のアナウンサーとして活躍されている。





〔詩吟〕


これも、2度目の会社に勤めていた時、会社の上司から無理矢理勧められて始めるコトになってしまった。


元々は会社の常務が始めていた。


上司自身、詩吟には興味は無かったと思う。


気に入られる為、目的達成の為には手段を選ばない人物が、常務に気に入られる為に詩吟を始めるのに、差程時間は掛からなかった。


更に周囲に気に入って貰う為に、周りの人間を勧誘し始めた。


上司の勧誘は、執拗だった。


私は最初、前述したアナウンススクールが多忙である事を理由に断った。


アナウンススクールが修了した直後、上司から詩吟の某流派の入会書を記入する様に言われた。


「アナウンススクールが多忙なので、それが終わったら入会を考えても良い。」

と、言った覚えはあった


入会するとは言って無かったのだが、無理矢理入会させられた。


入会して2~3年位は、何かとちやほやされた。


それで良い気分になっていた。


ちやほやされたと言っても、全面的に甘やかされていた訳でもない。


雑用全般を押し付けられた。


二言目には「若いんだから。」


これが個人的には気に食わなかった。


雑用全般と表現したが、その作業は温習会での雑用が主だった。


会場準備位は良しとしても、会場係を任される事は面倒で苦痛だった。


演者を舞台裏に待機させていても、出番直前に勝手にどこかに行ってしまう者には怒りしか無かった。


コンクールに出場した事もある。


優勝者は、毎回決まっていた。


既に出場者それぞれに持ち点があって、持ち点が高い者から入賞する仕組みになっていると、後から聞いた。


持ち点は芸歴の長さで決まる。


昨日、今日始めた人間が入賞出来る可能性は無い。


ハッキリ言って、芸事のコンクールは出場する意味が無い(と個人的に思う)。


コンクールの理不尽さに加えて、自分が所属していた流派内の扱いにも不満が出てきた。


単にちやほやされる期間が終わっただけの話なのだが、ヤル気を失う原因にもなった。


2度目の会社を非円満退職で辞めた後、詩吟の流派も退会扱いにさせられた。


退職後、元上司にわざと目立つ様に温習会に顔を出した事もあった。


一観客としての温習会は、あまり面白く無かった。


会場係をやらなくて良い事は、優越感を感じた。


顔を出したのは、流派の会長等、お世話になった方への挨拶代わりの様な意味合いだった。


流派の会長は再入会を勧めたが、

「今は、その時期では無いので。」

と、言葉を濁している内に、温習会から足が遠退いた。


数年前、電車に乗っている時、物凄い表情で自分を睨み付けている御婦人がいた。


所属していた流派の会長の奥さん(副会長)だった事に、後で気付いた。


直接確認はしなかったが、多分、間違い無いだろう。


ある年のコンクールが終わった後、他流派のお偉いさん?から

「しっかり続けなさい。続けて良かったと思う日が来るから。」

と声を掛けられた事がある。


投げ出した私には、その日は来なかった。

私を知る者は、

「お前が投げ出したモノは6つでは済まない!」

と、指摘を受けるかもしれない。


そうかもしれないが、私が投げ出したと自覚しているのは、剣道、落語、アマチュア無線、プロレス観戦、アナウンス、詩吟の6つである。


物事を『投げ出す』事は、今まで関わった物事との関係を断つ事を意味する。


そして、今まで関わった人々との人間関係も失う。


単純に人間関係を失うだけでは無く、信頼関係の破壊にも繋がる。


『恩を仇で返す』とは、この事だと思う。


この6つの項目に今現在関わっている方が、この文章を読んだとは思えない。


もし、関わっている方がいるのであれば、

「あなたは投げ出さないで。そして、投げ出そうとしている人を止めてあげて。」

と言いたい。


「投げ出す訳無いだろ。」

と、強い返事が出来る人程、注意が必要だと思う。


私自身、投げ出す事は無い。と、思っていた事を投げ出した事実がある。


最初から投げ出す気満々でいた物事があった事も付け加えておく。

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