十話︰きれいな薬物と経過観察について at 9 a.m.
今できる分の家事が全て片付いたので、朝ごはんの鍋と器を持ちアリアの部屋にお邪魔してみた。
彼女はすでに目覚めていて、ベッドの上で体を起こしており、空中になんか巨大な水球を浮かばせていた。
「……………………えっ何してんの?…………もしかして部屋の中で水遊びしたくなるくらい暇してた……?」
「あ、先生、おはようございます。ちょうどよかったです、そこに座ってください」
アリアは薬を作っていたらしい。魔力を薬物に換えられる彼女だが、成分の微調整時には水を溶媒として使うことが多かった。
この部屋には当然水槽は備えられておらず、魔法の水球を宙に浮かせて代用としているようだ。
アリアに言われるままにベッドの端に座ると、アリアが隣に腰掛けて俺のからっぽの右目をそっと撫でた。眼孔の奥に水が入り込んでくる。
「おぉ……!?」と思わず声が出た。
24時間何をやっても収まらなかった掻きむしられるような激痛がみるみるうちに和らいでいく。
溶かした薬は痛み止めと化膿止め。これだけ即効かつ強力な薬なのに副作用はごくごく軽度な眠気だけであるそうだ。
「す、すげぇ……!天才だよこの子……!世が世ならノーベル賞取ってるよこの子……!」
「の、のーべる……?…………よくわからないですけど他の怪我も見せてくださいね」
若干の気恥ずかしさとくすぐったさに悶えつつ、アリアに体中をまさぐられる。
アリアは包帯まみれの姿に似合わない流麗な手つきで黙々と手を動かしていた。
あの日から三日の時間が過ぎ去って、アリアの容態はかなり安定していた。
まだまだ激しい運動は厳禁だけど、普通に歩き回るくらいなら問題なくできるくらい。あと二日あれば抜糸してもよさそうな驚異的な回復速度である。体が丈夫でたいへんよろしい。
薬を塗ってもらうのが終わって、アリアが朝ごはんに手をつける。
お上品にちょっとずつ口に含み、もにゅもにゅ顎を動かす姿が可愛らしくて、なんか扉が唐突に開け放たれた。
「奴隷ー?この部屋にいるのかい?」
「げっもう起きてきた……!」
まだ睡眠薬を飲んでから三時間程度しか経っていないというのに、今日に限ってめちゃくちゃ早起きなお嬢様が目を擦りながら部屋に入ってきて、ぼーっと部屋の中を見回して──その視線がアリアの元に止まる。
「………………はっ。なるほどなるほど奴隷が消えてると思ったらアリアちゃんも朝ごはんのお時間でしたかぁ。鬼の分際で贅沢なことだねぇ」
「うわっ始まったよ……」
彼女の視線に含まれる意思は純粋な侮蔑。
これまでの発言でお察しのとおり、お嬢様はまちなかで鬼を見かけたら刺しにくるタイプの人間。肉体言語で語り合うことでお屋敷に匿ってもらうことは了承して頂けたが、本来の彼女は能動的でアグレッシブな差別主義者。
現代日本ならテレビに映せない系の人間であった。
「三日前は気絶していたし君と話をする機会はこれが初めてだね。いい機会だから言っておくけれど私が君の滞在を許可しているのは全てそこの奴隷に頼まれたからだ。それがなければ今すぐ君のことを叩き出してやりたいと考えている。欲を言えば殺処分したい。正直に言って君の存在は不快でならないんだよねぇ」
「………………お嬢様ぁ、『アリアの安全』は精神的なニュアンスも含めてますからね?不必要に煽ってくるなら二人で出ていきますよ?アリアの怪我も治」
「私は飯炊きを手放したくないから君にはできれば自主的に首を吊っていただけるとありがたいんだがねぇ……!薄汚い鬼の末路としてはふさわしいものだと思うんだが前向きに考えてくれたまえ……!」
俺の発言が聞こえないくらいヒートアップしたお嬢様がど直球な自殺教唆を繰り返す。
その言葉を受けたアリアは表情を変えぬまま、食べていた朝ごはんの器を下ろした。
「…………貴女が先生の言っていたお嬢様ですよね?ご挨拶が遅れてしまって申し訳ありません、私は西条アリアといいます。私と先生を拾ってくださったお礼を言わせてください」
ありがとうございます、とアリアは深々と頭を下げた。
お嬢様の動きがぴたりと止まる。
「あのままだと先生まで死んでしまうところでした。私のせいで。先生の命を救ってくれた貴女には感謝の念しかありません。…………それなのにご迷惑かけるのは申し訳ないのですが、できればここに置いて頂きたいです。ここを出たら先生に無理させちゃいますから。代わりに私にできることならなんでもお手伝いします」
だから、どうかお願いしますと、再び深く頭を下げる。
出会い頭に侮辱してきたクソ女に対してこの対応。齢14にして完成されきった精神性になんて立派な子なんだと戦慄を覚えずにはいられない。
同時に自分のことでめちゃくちゃ気を使わせてしまっていることを痛感して、罪悪感から逃げるようにお嬢様のほうに視線を向ける。
「えっあっえっ……そ、そこまで言うなら許してやらんこともないけど…………鬼のくせに意外といい子だな……」
明らかに困惑しわたわたする御姿がそこにあった。
どうやら敬愛すべき我が御主人はけっこうちょろい人のようである。