潜む牙 Chapter.8
「たっだいま~★」
努めて朗々としたテンションで、冴子はホーリーアベニューに在る教会へと帰還した。
相変わらずの喧騒に彩られた食堂が、一間を置いて異なる賑わいへと擦り代わる。
わっと集まる子供達の好奇心は、皆、安堵の転化だ。
「おーおー? どうしたキッズ? おみやげでも期待したか? うん?」
「さえこおねえちゃん、ドコ行ってたのー?」
「動物園★」
「え~、ずるーい」
嬉々としたジェラシーを、明るく笑ってワシャワシャと撫で回す。
「お姉ちゃんは仕事なのよー? って、およ?」
わざとらしい挙動に、冴子はポケットを叩いた。
子供達が怪訝そうに視線を注ぐと──「ふむ?」──そこから取り出されたのはチョコレート。
途端にワッと涌く歓喜。
そして、またまた「ありゃりゃ? ポケットを叩くと?」と、別ポケットを叩く。
無垢な期待の中で、チョコレートが増えた。
種を明かせば、区役所の食糧庫から掻っ払って来た品だ。自分達の嗜好で生産した物であろう。
人間を貪り喰っておきながら、間食に甘味とは片腹痛い。雑食にも程がある。
獣人共に食わせるぐらいなら、子供達へ与えた方が有効というものだ。
ともかく冴子はポケットを叩いて、易い手品で好奇心を集めた。
斯くして増えたりチョコレートの個数。
子供達の垂涎が集中する。
「ホラ、みんなで分けな?」
許しを得たキッズ達は、御預けを喰らっていた犬の如く欲望を解放した。
目的の品を授かると、冴子そっちのけに奥のテーブルに集まる。まるで宝物を見たかのように瞳を輝かせながら。
「やっぱチョコレートの人気は、時代を越えて絶大だわね。冴子お姉ちゃん、ちょっとジェラるぞ?」
などと自嘲めいておどけながらも、その子供らしい現金さを見れば嬉しくもなる。数体の獣に弾丸を消費した価値もあるというものだ。
「ミス冴子、何処へ行っていたのです?」
不意に背後から心配を帯びた声が浴びせられる。
ジュリザであった。
「ん? チト区役所へ」
「区役所……」自然体の返事を脳内反芻して、ジュリザはハッと推察する。「まさか!」
「入国手続きでーす ♪ 」
悪びれずに明るい笑顔。
「な……何を考えているのです! 区長に……いえ〈牙爪獣群〉に喧嘩を売るなど!」
「心配しなさんなって。仲良くお酒をゴチになっただけだから──」一転して凄味を押し殺した声で添える。「──数発の弾丸を払ってね」
「嗚呼、もしも〈牙爪獣群〉に目を付けられたら……」
蒼白に染まるジュリザを、無責任にも見える楽観が受け流した。
「大丈夫よぉ? 使えそうなヤツは、みんな殺ったから」
嘘ではない。
確かに主力と思わしき勢は叩き潰した──ラリィガとかいうインディアン娘が。
「だからと言って、無謀無策過ぎます!」
「進展、させたいんでしょ?」
「え?」
この時、ジュリザはようやく気が付いた。
先程から冴子は彼女を見ていない。
その視線が愛でているのは──子供達だけ。
「虎穴に入らずんば虎児を得ず──虎の尾を踏んで元凶を引き摺り出せるなら、幾らでも踏むわ」
「そんなやり方……危険過ぎます!」
「火の粉は、私が被る」
「ですが万ヶ一、此処を洗い出されたりした日には……」
「……そん時は、一匹残らず撃ち殺す」
その横顔は、ジュリザに軽く戦慄を覚えさせた。
こうした時の夜神冴子は、氷れる刃のように鋭く冷たい表情へと染まる。
とりわけ、その瞳は殺意を宿すのであった。
殺意……だろうか?
はたして、憎悪にも感じる。
普段の楽観ぶりを見ればこそ、そのギャップはコントラストとして暗く映えた。
いったいどちらが本当の彼女なのであろうか?
否、おそらくどちらもなのだろう。
だとすれば、闇は深いのかもしれない。
心底に燻らせる闇は……。
「……それで、何か解りましたか? あの〈獣〉について?」
「ん? 何にも? でも、進展はあった。とりあえず〝クイーンズ区長殿〟は無関係──ともすれば、此処クイーンズの〈牙爪獣群〉とは無関係みたいね」
「そう……ですか」
落胆隠せぬジュリザを一瞥し、冴子は本心を押し隠した。
本当ならば、質疑に構えたい相手はいる。
最も〈キーパーソン〉としてキナ臭い相手が……。
然れど、それは現状流さねばならない。
依頼主の立場もあるだろう。
いずれは切り出すにしても、それは現状ではない。
意向は、可能な限り尊重するつもりだ。
しかしながら──「貴女にその気があれば、いつでも信徒として迎え入れますよ」──思い出すに、何故だかゾッとするものを感じるのは気のせいであろうか。
「ああ……それから、もう一丁。区長の牙は折っておいた」
「え?」
「あなた、御礼参りをさせない方法って知ってる?」
「相手の良心を呼び起こす……でしょうか?」
現実知らずの能天気を耳にして、冴子は渇いた微笑に肩を竦める。
「そんなんで済むなら〈怪物抹殺者〉なんて廃業よ」
「では?」
「相手に思い知らせるの──『コイツには絶対勝てない』『コイツに拘わると痛い目を見る』『コイツが怖い』ってね。骨の髄まで徹底的に」
「暴力……ですか」
返す声音には、軽い軽蔑が含まれている。
「人聞き悪いわね? 心を折るだけよ。目には目を……でね」
「暴力では何も解決しません」
「無力でも何も解決しませ~ん」
残酷な正論であった。
殊にジュリザのような博愛主義者には。
それでも、こう指摘せずにはいられなかった。
「……野蛮ですね」
「はい、野蛮ですよォ~?」
まただ。
また、おどける。
そのおどけの下には、常に〈牙〉が隠匿されている。
然れど、それは哀しい〈牙〉だ。
痛々しいまでに自己犠牲を問わぬ〈牙〉──。
少なくともジュリザには、そう見えるのだ。
暗い想いが漂う中、ふと冴子が沈黙を破った。
「あ、そう言えば……アニスとアントニオは?」
「……え?」
「いや、あの子達には情報提供で世話になったしねぇ~? 特別にキャンディーも掻っ払って──コホン──持って来てあげたのよ。他の子には内緒だけど」
「あの子達は……」
「うん?」
雨が降る。
石壁越しの外界に雨が降る。
ベッドに腰掛けながら、冴子は窓を洗う不浄を眺めた。
意思無き瞳は、それを認識していない。
古城での軟禁生活へ置かれて、どれほどの歳月が経過したのであろうか?
此処が何処かは知らない。
外国に間違いはないが……。
どうでもいい。
興味すら湧かない。
魂は死んでいた。
妹を撃ち殺した。
母を撃ち殺した。
許されざるべき大罪人と魂は堕ちた。
虚脱に漂う意識の中で、此処へと連れ去られた。
死んだ心には抵抗も何も無い。
相手の正体すらも、どうでもいい。
だから、されるがままに連行された。
そして、現状へと至る……。
世は〈闇暦〉なる時代へと移行したらしい。
傍らに付き添う霊獣は、悲しき想いで見守り続けた。
片時も離れた事は無い。
然れども現状の彼女が、その存在を──温もりを感受する事など出来ないだろう。
心が……魂が……死んでいた。
それでも見守り続けた。
待ち続けた。
きっと還って来る──そう信じて。
「早い話、君は〈サン・ジェルマン症候群〉に陥ったのだよ」
正面に座す端麗なる紳士〝ハリー・クラーヴァル〟は、聡明に分析論を示す。
「徹底的に残酷な体験を受けた事によって〈魂〉が絶望に死んだ──或いは、精神が現実を拒絶するようになった。それは肉体にも影響を及ぼし、細胞が〝経年〟に対する新陳代謝を放棄してしまったのだよ。宛ら、伝説に在る不死の男〈サン・ジェルマン伯爵〉のように」
どうでもいい。
死ぬも生きるもどうでもいい。
慟哭に狂いたくも涙すら渇き果てた。
死なぬというなら、それすらも〈罰〉と背負い続けよう。
自責と哀しみと絶望を永遠に繰り返す牢獄だ。
眼前の娘から『生きる』という気力が喪失している事を感じたハリー・クラーヴァルは、憐憫の一顧を刻む。
「自分が許せない……かね?」
「………………」
返事は無い。
それが〝答〟だ。
だからこそ、呈した。
「もしも君が『己を許せぬ』と言うのであれば、その魂を生き抜いてみないかね? 人々の救済の為に」
「……救済」
唾棄したくなる言葉に、ピクリと反応を示す。
その機微を嗅ぎ取ったハリー・クラーヴァルは、曰くの品をコトリと卓上へ置いた。
鈍きと眩さを等しく反射する輝き──例の銀銃だ。
「外界は〈闇暦〉という新時代を迎えた。世界各国各地を〈怪物〉達が支配統治する現世魔界だ。そして人々は、そうした異常な環境で苦しみ喘いで生かされている。何時、殺されるかも分からぬ絶望の中でね」
「……だから?」
「希望が必要だ」
「だから?」
「決して〈怪物〉に屈せぬ者──如何なる理不尽にも抗える強き魂──そうした〝人間〟が存在する事を知らし示せば、多少なりとも〝人間の尊厳〟を見失わずに抱けるだろう。それは〝生きる希望〟にも成り得る」
「だから何だってのよ!」
徒に刺激された感情が、思考放棄という防波堤を決壊させる!
「希望? 強き魂? そんなもの、私に何の関係があるってのよ! ふざけないで! そんな重荷を背負う義理は無い! 関係無い! 私が向き合わなければいけないのは〈私の罪〉だけ! 問題を摩り替えないで!」
「どうせ死ぬつもりなら、役立って死ぬ──合理的だろう?」
「私の人生を利用しようっての!」
「ああ」
「──ッ!」
冷淡な声音で言い捨てるハリー・クラーヴァルに、荒ぶる気性は二の句を呑んだ。
「君が投げ捨てる〈命〉を必要とする人々がいる──ならば、私が買い取ろう。君の〈罪〉諸共」
「……いくらで?」
「報酬は、君の生きざま……君自身の生き方だ。その軌跡を贖罪の証として」
冴子は鼻で笑う。
馬鹿馬鹿しい詭弁だ。
安い騙しにも程がある。
「贖罪? だったら、無理ね。償えない」
「ならば、修羅地獄を歩み続けてもらおう……君自身が償えたと思えた時まで」
「そんな日は来ない」
「来ないならば、死地をさ迷えばいい」
自棄の木枯らしを、氷壁が聳え囲う。
冴子の興醒めを、軽く封じる冷淡さであった。
「罪を背負った者が辿るべき道は、ふたつだ。罪悪感に屈して負念の奴隷となるか──或いは、それに抗い続けて生きるか」
「知った口ね? この苦しみを味わった事も無いクセに……」
「私は前者だ」
「……え?」
「かつて親友を殺めた──そうした過去に囚われた身だ」
「…………」
「君には、後者であってほしい」
この男の過去を追及する気は無い。
他人の〈咎〉など、自分には関係の無い事だ。
向き合うべきは、己の〈咎〉だ。
だがしかし、注がれるコバルトブルーの慧眼は、寂しくも哀しい色を帯びていた──夜神冴子には、そう思えた。
微かで不確かな共感が、意固地な心の軟化を促す。
暫くの沈思を噛み砕くと、彼女は落ち着いた抑揚に切り出した。
「……ひとつだけ頼みがあるわ」
「何かね?」
「この服──」刑事時代のフォーマルスーツへ、共に目を落とす。「──そのまま使える物にして欲しい」
「合理的とは言い難いが?」
これからの〝闘いの日々〟に於いて、タイトスカートのスーツなど動き難い事は明白であった。
それは命取りにも成り得るハンデだ。
それでも儚い咎者は訴えるのだ──寂しくも優しい愁いに。
「私の〈罪〉の証だから」と。
そう、自分自身を忘れないように……。
あの瞬間を一生背負って闘えるように……。
その想いを汲めばこそ、ハリー・クラーヴァルも慈しむ苦笑に約束したのであった。
「分かった。実戦的な性能へと新生させよう──私が知る〈錬金術〉の全てを行使して」
雨が降る。
石壁越しの外界に雨が降る。
自室のベッドへ腰掛けながら、冴子は窓の外を眺めた。
いつもと同じ部屋──。
いつもと同じ行動──。
いつもと同じ景色────。
さりとも覚醒した意識をフィルターとすれば、覗ける情景は病んでいた。
黒雲は晴れず、その泥濘に巨大な単眼を据えた黒い月が鎮座する。
決意を固めるまで気付けなかった。
どうして気付けなかったのだろう?
こんなにも異質な情景に……。
「この漆黒の下で、今日も慟哭や悲嘆が生まれている」
闇から生まれ落ちる無数の雫は、そのまま人々の涙に思えた。
いま、この瞬間にも、それは生まれ落ちているのであろう。
だから、銀銃を手に取り眺めた。
「〈ルナコート〉……か」
これからは、コイツと命運を共にする事となる。
死ぬも……生きるも…………。
ややあって、ふと傍らに気配を感じた。
温かくも柔らかい気配を。
「え?」
懐かしさに戸惑う。
そう、懐かしい。
とても懐かしく、そして、頼もしい安らぎであった。
「戌守……さま?」
見えぬ灯火が優しく胎動する。
嗚呼、どうしていままで気付けなかったのであろう?
いつでも傍に居てくれた。
いつでも寄り添い、見守ってくれていた。
自分は孤独であっても、独りぼっちではなかった──。
それを改めて自覚した冴子は、ようやく微笑みを甦らせる。
「戌守さま……これからも、一緒に居てくれる?」
心へと流れてくる躍動は、歓喜にも似た同意であった。
だから、零れる涙は哀しみではない。
ハリー・クラーヴァルからの師事を受け、夜神冴子は歳月を過ごした。
膨大な専門知識を蓄え、殺傷目的の体術に磨きを掛ける。
時として──殊に雷雨の時は──ハリー・クラーヴァルは姿を現さなかった。
だが、そんな時でも自主的に鍛練は欠かさない。
後日にハリー・クラーヴァルからオーバーワークを注意されるのが常ではあったが、不思議と成長意欲は暴走した。
これから臨む地獄には、常人離れした能力が必要だ。
そう……我が身〝人間〟でありながらも〈怪物〉と化した戦闘技能が!
そして、時は来た。
世に〈怪物抹殺者〉が現れたのは、闇暦二十七年の事であった。
雨が降る。
暗黒の魔界に雨が降る。
教会の窓を叩く雨音が、柔らかな誘いに冴子の意識を目覚めさせた。
樫卓に突っ伏した体勢で、いつの間にか眠っていたらしい。
開かれた人員リストには、確かに二人の名が記されている。
〝アニス〟と〝アントニオ〟……。
その名前を乱暴に潰す赤いバツ印が、揺るぎ無い現実だ。
ふと気付けば、卓上に何かが転がっていた。
数粒のミントタブレットだ。
──どうせ、私の言葉は誰にも伝わりませんから……。
ようやくにして儚い吐露の真意が汲める。
彼女の傍で〝被害者リスト〟を想起できなかった理由が解った。
「そうされていた……か」
──さーこおばたん……。
心に響く無垢な呼び声に、冴子は淡い微笑みで応えた。
──さーこおばたん、もんたーすれた……。
「……そうだぞ? 冴子お姉ちゃんは強いんだぞ?」
優しく潤む瞳が、じっと掌を眺める。
その手に遺された小さな温もりを……。
やがて、冴子は顔を伏せた。
英気を養うには寝るに限る。
眠れるタイミングには、しっかりと睡眠を摂っておく。
体調管理もプロの仕事だ。
隠る嗚咽を聞く者は、姿見えぬ霊獣だけであった。
雨は止まない……。
──冴子さんは〈怪物抹殺者〉だから……きっと敵討ちをしてくれると思って…………。