くちづけ
「ヤン!」
また振り上がるゲオルクの腕を睨みつけ、エヴァは背中のヤンを振り払う。もうひと太刀をヤンに受けさせまいとしたのだ。
ヤンはそのままごろりと寝転ぶ。
「ヤン!!」
エヴァは正気を捨てた。
ゲオルクを切り刻み、アンの魔法は腕輪で弾く。ヤンの持つエルフの魔法剣を、エヴァは文献で知っていた。血溜まりに沈むヤンの手から、力なく落ちたその剣を、エヴァは素早く拾い上げる。
騎士団で学んだ魔法剣の発動方法を応用し、エヴァは帰らずの魔剣に力を込める。
「ヤンの血がついてるから、いけるはず」
狂気の中に呟いて、エヴァの瞳が真っ赤に燃える。剣が赤黒いもやを出し始めた。
それからは疾かった。血煙の中、エヴァはその場を制圧した。
守りの腕輪が光って熱くなっている。まだ生きている奴がいるのか。
「ああ、ヤンの息がまだあるのね」
凄惨な光景の中、独り立つエヴァは、場違いにもヤンとの楽しかった日を思い出す。
ある夏の日、清涼な川床で魚を捕まえた。最初はうまくいかず、2人とも手をすり抜ける魚の不思議な感覚に目を丸くしたものだ。
またある秋の日には、ヤンが花冠を作ってくれた。濃い色の秋の草花が、エヴァの黒髪に映えていた。
冬には雪遊びをしたし、春にはウサギやリスの赤ちゃんが巣穴から顔を出すのを見て楽しんだ。
それは、ゲオルクとアンに出会うよりも前のことだ。両親同士が親しくしていて、2人は気がついたら一緒にいた。
2人はとても仲が良かった。そのままずっと一緒にいるのだと思っていた。
でも、何もかもが変わってしまった。
エルフは去り、両親は惨殺され、信じた者に裏切られた。
ヤンは?
ヤンはどうだったのだろうか。
ヤンは、はっきり何かを告げてくれたわけではない。けれども、共にいる気持ちはきっと本物だった。それが恋かはわからない。家族愛かも知れない。だが、確かに愛だった。そうエヴァは思った。
しかし、ヤンは死んでしまったのだ。何も告げぬまま。まだ僅かに息はあるが、所詮は虫の息だ。もう長くは持つまい。
エヴァに腹を刺されながらも、刺した女を庇って死んだ。
復讐が終わった。
愛してくれた男は死んだ。
仲良くしてくれた同僚も死んだ。
腕輪を便利な道具と割り切って、エヴァは気持ちを切り替える。死んだカレルとペトルを埋めようと、ヤンの魔剣を血ぶりする。
それから膝をついてヤンの腰から血で滑るベルトを外し、剣の鞘をとる。
魔剣の鞘だけあって、しみひとつついていない。この乱戦の中にあって、不気味なほどに綺麗なままだった。
エヴァは静かに剣を拭って、鞘に収める。
「ヤン」
エヴァはその名を繰り返す。
ぼんやりと目だけを動かしてエヴァを見るヤンを見下ろして、エヴァは空虚な表情を作る。
エヴァはそっと魔剣をヤンの傍に置く。
エヴァは唇を引き結び、2人の同僚の骸へと向かう。魔法で一息に穴を掘ると、風を使ってそっと2人の遺骸を埋める。
そこへ、ふらふら近づくヤン。背中とお腹から流血している。なぜ立てるのか。どうして足を運ぶことができるのか。
死んでしまうから。
自分は、もう。
だったら。
と、ヤンはエヴァに想いを伝えることにした。その想いだけで動いていた。
「エヴァ、俺は」
ヤンは霞む視界に愛しい少女を捉えながら、苦しい息を漏らす。
ヤンの言葉はそこまでだった。
けれども、もう見えていないその瞳には、愛の真実が揺れていた。
ヤンの真心を知り、エヴァは息を呑んだ。
「今更言われても何の意味があるのか!」
と憤るエヴァ。
「何故今になって言う?何故私に殺させた?」
エヴァの瞳に涙はない。
「どうして!」
エヴァは叫んで、そして沈黙した。
ヤンは声にならない息を吐き、同時に口から血が溢れる。足の力が抜けてゆく。
だめだ、まだ。
もう少し。
ヤンは力を振り絞り、エヴァの元へと辿り着く。エヴァは立ち尽くして動かない。
ヤンは見えない目でエヴァを見つめる。
エヴァはヤンの瞳の奥底を覗き込む。美しい青い目。いつかの青い空みたいな。2人で呑気に小鳥を見上げた、あの広い広い空。
ヤンはエヴァにとって空だった。自由で、大きくて、見守ってくれる存在だった。
ヤンは、エヴァがいま何を考えているかわからない。耳も殆ど聞こえないのだ。エヴァの叫びも、ただ遠い曖昧な音として響いてきた。
それでも、ヤンには、エヴァが自分を見て何か告げようとしている事は感じられた。それがとてもとても、嬉しかった。
この世を去るその瞬間に、何にも変え難いエヴァから声をかけて貰えた。それなら、もう少しだけ、欲張っても良いだろう。
ヤンは、エヴァへと震える腕を伸ばした。力は入らず、矢の刺さった肩傷からは血が流れて地面に落ちる。
そんな姿にも怯まないエヴァを、ヤンはますます愛しく思った。
ヤンは、勇気を出してエヴァを抱きしめる。
血だらけで近づいてきたヤンをただぼんやりと眺めていたエヴァは、なされるがままに弱々しい腕に抱かれる。
ヤンの鼓動は、最早微かにしか感じることが出来なかった。
次の瞬間、エヴァはヤンに、キスをされた。
エヴァの口の中には血の味が広がり、それでも嬉しい我が身を自嘲する。
力が抜けてずるりと地面に崩れ落ちるヤン。
尚も呆然と立ち尽くすエヴァ。
嬉しさのあまり、想いが通じた幸せに、それなのに自分が独り残される悔しさに。
エヴァの体が急に冷たくなる。
身体の周りに吹雪が巻き起こる。
腕輪が光る。
腕輪は熱を持つ。
今までよりもさらに熱く。
暴走だ。
ヤンの血をその身に取り込んでしまった為に、二つの魔力が同時に存在してしまった。それで腕輪の魔法が上手く働かなくなったのである。
行き場を無くした魔力の波が、辺りを巻き込んで奔流となる。
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