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今晩も部屋に千沙がやってきた。
「お兄ちゃん」
「起きてるよ。おいで」
起きてるよ、というか起きていたのだが。
今日は全く、人生というものについて考えていた。
真優良は選び取ること、自分自身で生きることということを言っていた。齢十六歳のぼんぼんの小娘にしては殊勝なことだが、果たしてそれが本当にできるかどうかは疑わしい。
僕はそこまで強気にはなれない。僕らは成人もしていない、責任を取ることもできない社会的に脆弱な存在だ。選んだところで何もできないし、なんなら選ぶこともできない。
なら、何ができるのだろうか。
僕の答えは何もできないというものだ。意味がない、無駄、無意味、そんなものだ。
ちょっと悲観的だけれど、僕は性格がねじくれているわけじゃないから、素直にそれを悲しいと思う。
真優良は色々考えて、親に反骨して今の気持ちになったんだろうけど、それは無駄なんだ。悲しいことだよ、本当に。
無力さ、その虚しさを実感しつつ、何故千沙がここに来るかを少しだけ考えて、僕は寝た。
「カズ坊、おはよう!」
まだ出かける前から玄関口でそんな大きな声が聞こえた。
タイミングとしてはもう祖母が妹を送りに行って、僕も家を出るところだからよかったが、それより前に来ていたらちょっと面倒臭いと思う。
僕は靴を履き、腰を上げて、ガラス越しに見える北斗を睨みながら戸を引いた。
「なんで来たの?」
「一緒に行こうと思って!」
と北斗は親指を立てて笑顔を見せる。
きっと僕は嫌な感じの顔をしていたんだろう。
自転車をゆっくり漕ぎながら、北斗が聞いてきた。
「ねー、まゆっちどうだったー?」
前後に並んでいるから、前を進む彼女の声は凄く間延びしている。でも後ろを見ながら運転されるよりかはマシだ。
「いい人っぽいねー」
僕は率直過ぎて何でもない感想を述べた。
「どんな感じにー?」
ゆっくり、確実にカーブを曲がった後、ちょっと考えて答える。
「人間ができてるー」
十六歳の子にしては色々抱えていたから、色々考えていて立派だと思いました。
そんな陳腐な感想でしかない。それ以上彼女に感情を抱くことはないだろう。
「個人的なのはー?」
「背が低いー」
ちんまりしていて可愛いと思った。これも陳腐過ぎて言うまでもなく無意味だ。
「つまらないー!」
「なんだったら面白いのさー?」
「……抱き枕にしたい、とか?」
「犯罪だよ」
北斗は楽しそうに笑っているけれど、こっちとしては冗談じゃない。そんなこと冗談でも言おうものならお縄頂戴。
「でもさー、まゆっちも忙しい方だから、話せるうちに話ときなよー?」
「考えとくー」
と言ったので考えると、話そうが話さまいが大した意味はないので、話す必要はないとする。はい考え終了。
やっと校門に辿り着いたところで、その脇に噂をすれば影が差した。
「忙しいって聞いたんだけど?」
真優良はもの悲しげな表情でこっちを見ていた。誰かを待っているような立ち位置だけれど、僕に声をかけなかったので他の人なんだろう。
が、通り過ぎたところで『待って』と声がしたので振り向くと、案の定その待ち人は僕達らしかった。
彼女はもう人目もはばからず小走りで止まった僕達に近づいてきた。ああ、また佐藤に変なことを言われるんだろうなと思い憂鬱になりつつ、まだ伏し目がちでいかにも悲しそうな真優良に声をかけた。
「で、なに? 僕? それとも姉さん?」
「あんたよ……」
「ふーん。じゃ姉さんは先に行ってていいよ。というかこの辛気臭い顔を見るに、あまり聞いてほしい話はしなさそうだから」
「うーん……じゃあ、そうするね?」
と北斗はちょっと困った表情に無理矢理笑顔を混ぜたような顔をして、自転車で走って行った。
「じゃ、僕らも行こうか。歩きながら話そう」
「うん」
真優良はなかなか目を合わせようとしなかった。一体何を話すとなれば、昨日の自信家がこんないじめられっ子みたいな反応をするんだろうか?
自転車を押して歩くと、その数歩後ろを真優良がついてくる。
「で、なんの用?」
「……その……うーん」
明らかに口籠っていて、後ろを確認すると話すか話さないか悩んでいる様子が見えた。
「遠慮なんて無駄だし、話さなくて悩むのも無意味だから正直に全部言ってよ」
「でも」
「いずれ話そうってなるなら、話して。永遠に黙っておくと約束できるならもう行くけど」
言いながら、僕は何故か自分がイライラしていることに気が付いた。僕は何に怒っているんだろう?
「……でも」
「分かった。じゃあ行くね、ばいばい」
「待って!」
自転車に腰掛けたところで、思い切りズボンを引っ張られた。バランスを崩して危うくこけそうになる。今イラッと来た理由は、普通に危なかったからだろうね。
ちょっと胸がバクバクしているけれど、気にせず僕は真優良を睨んだ。
「じゃ、話して」
「……分かった。単刀直入に言うわ」
「うん」
少しだけ、また間が空いた。でも確かに彼女は話し始めた。
「……家族のものが、っていうか父親が、あなたの家を調べてね」
「ふんふん……どういうこと?」
「私が、放課後にあなたと喋っている日が二日も続いたから、それで気になったって」
「過保護だね、君の父は」
金持ちの道楽というものだろうか。実の娘が男と一緒にいるだけで気になるものなのだろうか? うちの実父も義父もそんなことはなかったと思う。貧乏暇なし、これ真理。
「それでなに?」
ますます真優良の口は堅くなっていく。けど、僕の家の事情を真優良の父が調べたということは、その事情が真優良の耳に入ったのだろう。
「……実のお父さんが死んだことも、義理のお父さんが死んだことも、妹さんが死んだことも聞いて」
「うんうん」
大体僕が雑談倶楽部の人に話したことだ。そこまでは。まあ、一日、二日で調べられることとは思えないけど。
「……義理のお父さんとのいろんな問題とか、今もお母さんが、義理の妹さんに虐待しているとか」
「うわ、それは」
僕ですら確認しきれていない事実である。その人、僕よりも僕の家の家庭事情に詳しいんじゃない?
「……やっぱり本当なの?」
真優良は、泣きそうな顔で聞いてきた。本当か、と聞かれると僕だって間違いなくそうだよ、とは言えない。
「たぶんね。まあ話に具体性が欠けているからハッキリ言えないけど、大体合ってるよ」
ようやく自転車を停める。あとは校舎に向かうだけのはずだが、真優良はそこで止まっていた。
「なに? 他にも何か言われたの?」
「……赤石高校で主席だったとか」
「座学だけね」
輝かしい過去の栄光である。でも勉強できたって意味がないというのが事実。世間一般でもよく言うよね、勉強だけじゃ意味ないんだよ。
「それで、その……」
「まだ口籠ることがあるの? 家族のことずけずけと言われて躊躇われると怖いなぁ。実は僕が不治の病で三日後に死ぬとか?」
冗談を言ってみたけれど、あの調査力ならありえなくはない、と考えてちょっとビビった。
けれどそんなことではなく、真優良は少しだけ恥ずかしそうに答えた。
「……優秀な人間だから、是非婿養子にしたいとかなんとか」
「あらま」
一番言いにくそうなその話題は僕の家庭ではなく真優良の家庭の問題にあった。想像つかないわけだ、僕の家庭は叩けばいくらでも埃が出るからね。
「婿養子ってあれだよね? 僕が君と結婚して、宝物院和男になるわけだ。いやぁ、改めて思うけど凄い名字だよね。一文字から三文字になるのはちょっと変な気分だ」
「そこ?」
「他の話した方がいい?」
真優良は黙って首を横に振った。こういうナイーブな話題は取扱い注意だ。
とはいっても、結論は彼女の中で出ているだろうし、先延ばしにしても意味はないだろう。
「お父さんにはどうやって断る気? あと、お父さん、家庭の事情は気にしていないの?」
「ああ、えっと、お父さんはむしろ才能が家に潰されるくらいなら救い出すとか言って妙に乗り気なのよ。あと、断るかどうかは、まだ悩んでて」
「うん?」
断るかどうか悩むというのは、つまり僕と結婚するかどうか悩んでいるということで、それはつまり僕と結婚しても良い可能性が少なくともゼロではないということだから、彼女が奇妙なことを言われて平静を保てなくなっていると想像がつく。
「悩むの? 君」
彼女は頬を染めて、少し俯いた。
「そもそも、まあ年上の方が好きだし、っていうのはあんまり関係ないけど、やっぱり自分よりも頭がいい人の方がいいなっていうのはあって、だけでもないんだけど、そもそも私って普段から本音とか言わないから、そういう出会いの機会がなくて、ちょっと男女の付き合いの一つや二つは経験した方がいいかなーって思ったから、その機会の一つになったらいいなって思っただけよ!」
なんか明後日の方向に視線をぐるぐるさせながら言っていた真優良は、突然最後になって僕を怒鳴った。狼狽しているとはっきり分かる。もう何が何だかわかってないんだろう。
こういう時、僕は年上の男性としてちゃんと彼女を落ち着かせねばなるまい。
「いいかい真優良、君は疲れているんだ。碌に会話も成り立たないろくでなしの男と二日連続放課後に話した挙句、その人の大変な家庭事情を知り、挙句気になる恋愛ごとの話題を持ち出されて混乱しているだけさ。今日はすぐに帰って八時にお風呂に入って九時には布団に入って、朝はココアとクロワッサンで優雅な朝食を迎えてからお父さんともう一度話してごらん? きっと今、自分がとても馬鹿げたことを言っていると悟るよ」
「馬鹿にしないで! 私だって自分で何を言っているかくらいわかってるわよ!」
「出会って二日の男に生涯添い遂げなくちゃいけないってことも?」
「……だから、悩んでるって」
「ま、悩むだけ悩めばいいよ。どうせ雑談倶楽部で話すんでしょ? どれだけ甲斐性なしのろくでなしか分かるようになるよ」
そこまで言って、僕はようやく歩き出した。ちょっと急がないと遅刻しそうだった。
そして、案の定、佐藤に絡まれた。
「なんでお前ばっか真優良様と喋ってんだよ!」
お昼休みにそんな小言と食事を受け入れなければならない僕は、その幸福の割に合う不幸も食っている気がするんだけど。
「君だって赤石高校でトップ取るくらいの学力があれば話せているよ、きっと」
「それだったら俺だって赤石高校に通ってるよ! ってか無理に決まってるだろそんなもん! 俺は今、お前にこんな口を利いていることにちょっとビビってんだぞ!?」
どうかビビッて話しかけてこないようにしてくれ、と思うくらいには今の佐藤が鬱陶しい。
「そんなに話したいなら話しかけに行けばいいじゃないか。今だって一年の教室にはいるんだろうし、放課後雑談倶楽部とかにもいるんだし」
「いやお前な……、そんなんしたらキモがられるだろ。ファンとして超えちゃいけないラインは弁えているつもりだ」
「お前は年下の女の子をなんだと思っているわけ?」
「いや、年下でもアイドルはアイドルだろ?」
「いやアイドルじゃないし」
「似たようなもんだ。それはお前が知らないだけだ」
佐藤があまりに真剣に、真顔でそういうものだから、もしかしたらそうなのかもと思ってしまう。彼女はアイドル級の人気があるのかもしれない。
「……じゃあ、僕がとにかくラッキーなのかな?」
「そうだよ! それがわかりゃいいんだよ!」
「分かるだけでいいの?」
「もう、分かるだけでいいよ、この際」
「じゃあ結局、何が言いたかったわけ?」
「お前があんまり嬉しくなさそうだからな。これからは真優良様と会話する度に、ああ僕は真優良様と会話ができて幸福です、って思え。いいな」
「ま、試みるよ」
そんな非常に下らない意味のない会話をした。




