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十一月というのは二学期が始まってからもう一か月も経った時期だ。
基本的に二学期って奴はもう一か月くらい経つと冬休みが始まるわけで、つまりテストが終わった直後くらいの中途半端な時期が今、転校生なんていうのは凄く珍しいだろう。
朝日高校はクラスが五つあり、通常コースと進学コースのそれぞれ文系理系で四つと、スポーツ推薦クラス一つがある。
僕はその文系進学コースである三組にあてがわれた。
教室の様相なんかは大して変わっていない。学校なんてどこもそんなもんなんだろう。
強いて言うなら校舎の数やクラス分けの方法がちょっと違うけれど、どこも大した差はなさそうだ。
二年三組に入ると教師含めて六十四の瞳が僕を見つめる。物珍しそうなものを見る奇異の視線って奴だ。それに関して恥も恐怖もない。意味ないし。
「それじゃ平くん、名前書いて」
女教師のなんとかが言うままに僕は黒板の前からチョークを取ってつかつかとそれを書く。
平和男。ヘイワオトコなんて仇名は散々言われたけれどタイラカズオだ。まあ訂正してもしなくても意味はないようなものだ。
ああ、意味がないことばかりでやんなるね。この人たちは僕の名前を見てどう思うんだろう。みんな好奇心で目が輝いているのが見えるよ。きっと聞いてみたいんだね。だから僕は言うよ。
「タイラカズオです。どうぞ好きなよう呼んでください」
少しだけクラスから笑顔が見える。ああ下らないことを考えているんだろう。くだらない。
なんて思っていると、突然クラスの真ん中くらいから女の子が一人立ち上がった。
「カズ坊!? ねえカズ坊だよね!? 私分かる!? 相島北斗だよ!?」
茶色い髪の、身長百六十センチくらいの女の子がそう叫んだ。叫んだと形容するのにふさわしいくらい大きな声で、僕に向かってそう言ったのだ。
くりくりっと愛らしい目をしている。子供じみた顔をしている。けれど、僕はその人を確かに知っていた。
「……姉さん?」
「その通り! やっぱカズ坊!? びっくりしたぁ! 死ぬかと思ったよ! 元気してた!?」
ぴょこぴょことはしゃぐ相島北斗、その姿に昔見た時のような勇ましい姿はなかった。
姉さんと呼び慕っているが血縁関係はない、一つ年上の幼馴染のはずだけれど、何で高校二年生をしているんだろう? 実は同い年だったとか? まあ何でもいい。
「それなりに元気だよ。じゃあ」
それだけ挨拶して、僕は先生の言葉も待たずに一つだけ意味深に空けられた席に勝手に座った。
休み時間はクラスメイト達の質問攻めだ。答えようが答えまいがどうでもいいから、適当に受け答えした。
「うん、元々この町に住んでいたんだ。だから小学生振りに戻ってきたわけだよ」
「前は赤石高校に行ってたよ。うん、賢いところらしいけど、その時近かったからさ」
「趣味は特にないかな。ぼーっとして、まあ勉強が趣味みたいなものかな」
大体答えたのはそれくらいだ。何が好きとかそういう会話は苦手だ。本当にそういうものの意味を感じないから。
やがて彼らは僕の呼び名をタイラだかカズオだかに決めた後、授業が始まると興味を失ったように去って行った。呼び名を決めることに意味があるのだろうか。
意味と言えば、授業の意味も甚だ不明だ。前の学校でとっくに習っていることを今ここで改めてさせられている。教科書も隣の佐藤君だかに見せてもらっているけれど、全然簡単な内容で何も言うことがない。
こんな疲れない勉強のためにとられる休み時間が可哀想だ。休む必要もないのに休み時間があるなんで、全く時間の無駄だ。
でも授業が終わってからの徒労感を拭うには、休み時間の十分は心地いいかもしれない。何より佐藤君に気を遣う必要もなくなる。
「ねえカズ坊」
「あ、姉さん。どうしたの?」
姉さんって呼ぶことに少しの抵抗がある。昔ならいざ知らず今は同じ教室で、しかもどう見ても彼女の方が年下だ。僕のがもう身長が十センチは大きいだろうし。
けれど今更どう呼べばいいのかもはっきりしないし、どう呼ぼうと意味ないから気にしない。
北斗は妙にそわそわしながら僕の机の傍から座っている僕を見下している。
「カズ坊はさ、どのあたりに引っ越してきたの?」
「お婆ちゃんちだから、昔の家と同じだよ」
「じゃあ近いね」
「うん」
僕が頷くと、奇妙な間が空いた。彼女は何も言わずにその場でぼーっと僕を見ているらしかった。
一体彼女はどうしたのか、と少し顔を見る。子供の頃と比べると、顔のパーツは変わらず愛らしいものだけれど、雰囲気がどうも柔らかくなっている気がする。
昔の彼女は好奇心の塊と呼ぶべき存在でいつもやんちゃばかりしていた。平気で虫を触るなんて当然のこと、犬の糞だって弄るし、怖いおじさんに声をかけるし、暴力だって厭わない。
僕もその頃は元気で、和女もその頃は元気だった。
「和女ちゃんは元気してる?」
「死んだよ」
一人目の妹だ。前の父親との、つまり僕の実の妹で名前が和女だった。つくづく変な父親だとネーミングセンスで分かる。きっと僕は父に似たんだろう。でも病弱な妹は誰に似たのか、と分からなくなる。
ふと北斗の顔を見ると、随分と呆けた間抜けな顔をしていた。
「どうしたの?」
「い、いや、なんで?」
「心臓が弱かったんだ。なんか大切な血管が生まれつきボロボロだったとか。僕もよく覚えてないけど」
北斗は本当に驚いている様子だった。きっと予想だにしなかったんだろう、誰だって想像できないしまさかこんなことが自分の身に降りかかるなんて、という気持ちでいっぱいなのだろう。
彼女は少し戦慄く唇を抑えようともせず、無理した様子で次の言葉を紡ぎ出した。
「じゃあ、私達がその分幸せにならないとね」
「え?」
こういう時に次の話をするのも大変だけど、いきなり前向きなのは正直ちょっと驚いた。しかも類を見ないほど真面目腐った顔で。普通こういう時はご愁傷様です、みたいなことを言うもんじゃないだろうか?
「幸せなんて言っても無駄だよ。人生はいつ終わるか分かんないんだから」
「いつ終わるか分からないから常に幸せになろうとするんだよ!? もうカズ坊は分かってないなぁ」
「分かってないのは姉さんだよ、幸せになろうとしてなれずに死んだら無駄じゃないか」
「人間そう簡単に死なないよ!」
「死ぬよ!」
むむむ、と互いに睨みあう。僕らは一体何の話をしているんだろうね?
「ちょっとカズ坊は悲観的過ぎるなぁ? 悪いことがあったらその分良いことがあるもんだよ、人生」
「それは楽観的過ぎるよ。不幸なことが多い人だって世の中にはいるだろうさ」
「だったら幸せなことが多い人だっているよ」
「じゃあ僕は不幸なんだろう」
「そんなことないって! どうしてこう、そんな風に考えるの?」
「やっぱり人生で経験したこととかそういうものの差だろうね」
「それは……そんなこと、ないと思うけど」
そんな話をしているうちにチャイムが鳴って教室に先生が入ってくる。
けれど北斗は席に戻らず、僕の前でまだ腕を組んでいる。
「ほら戻らないと」
「じゃあ、じゃあさ! 絶対に幸せになろうって思うんだよ!? それって大切なことだからね!」
そう言って彼女はやっと自分の席に戻って行った。
なんか変だ。
そう思うのは僕が昔の相島北斗しか知らないからかもしれない。まあ昔から今が楽しければ何でもОKみたいな適当なところはあったけれど、それにしても執着している気がする。僕のことが好きなんだろうか?
考えたところで意味はない。無意味、実に無意味。あくまで授業中なのだから僕は授業が有益かどうかを確認しなければならない。
ああ、ごめんね佐藤くん、何かあったら勉強教えるよ。教えられたらだけど。
次の時間もまた北斗がやってきた。
「ねえカズ坊……」
「姉さん、次は体育だから」
転校してきていきなりカズ坊!? なんて叫ばれた関係だから、北斗が来ると他の生徒が距離を空けてしまう。
そうすると体育館や更衣室を詳しく知らない僕は困る。けど北斗は離れそうにない。
「じゃあ分かって欲しいなぁ。幸せっていうのはきっとそこら中に転がっていて、ただ石ころみたいに気が付かないだけなんだよ」
「そんな石ころみたいな幸せ、有難味がないなぁ」
「ありがたいよ!? 片っ端から拾っていきたいものだよ!?」
そんなの多すぎて拾う気にもなれないと思わないだろうか? けれど彼女は全部拾ってにやにやと笑っているだろう、そんな姿が今なら簡単に想像できる。
そして昔の北斗なら、僕を無理矢理それに付き合わせるのだ。
「とにかく体育だから。姉さんも行ってきなよ」
「ううん、カズ坊が分かってくれるまで離れないよ!」
ちょっと怒った風にそんなことを言うけれど、理不尽でこっちの方が怒りたいよ。
「そんなこと言って、どうせチャイムが鳴ったら離れるんでしょ。ウエストミンスター」
「え、何それ?」
「あの授業時間切り替わりのチャイムがそんな名前なんだよ、確か。まあどうでもいいよね。意味ないよね。ごめん意味ないこと言って。でもそれだったら大体全部意味ないから話すだけ無駄だと思うんだよね」
「い、意味なくないよ! ウエストナントカー、憶えたから!」
たぶん、間違って覚えてそうだ。でもいいや、訂正しても正しく知っても、意味なんてない。
「憶えたとしてもどうでもいいよ。それじゃ体育なんだけど……」
「今は男子も女子も持久走だから一緒に走れるね!」
僕の学校では確か外周と内周みたいに別れていたんだけど、こっちはそうじゃないのかもしれない。
にしても昼休み前の体育っていうのは酷いね。持久走で疲れた体じゃすぐにご飯を食べる気になれない。
そんなことを今から考えながら、僕は憂鬱に過ごした。
実際、体育の時間は殆どただ走るだけで、しかも何故か北斗は僕につきっきりで走っている。
「分かる? 些細な瞬間も幸せなんだよ? 例えばさ、ほら私がこうやってカズ坊と一緒にいることだって一種の幸せだよ。誰もいなかったら寂しいもん」
「で、でもさ、ひ、一人が、いいって人も、いるんじゃない、かな? そしたら、その人に、とったらこれ、不幸、だよ」
苦しくなる胸を抑えながら僕は呻くように答えた。一応弁明しておくと、僕は北斗と違って先に何周かしているから、体力的にはたぶん僕らは普通の男女と同じだと思う。
「その考え方は卑屈だよ! 一人が良いって言う人は、そう考えるようになっちゃった時点でちょっと不幸だと思うな。でも大丈夫、カズ坊はみんなと一緒の方が楽しいって思えるように、一緒に幸せを掴んでいこう!」
「その、一緒に幸せ掴もうって、なんだか、プロポーズみたいね」
「プ!? そそそそんなわけないじゃん!」
そんなに否定することないじゃない、寂しい人。なんて思ったけれど声を出す気分でもない。にしてもなんだこの授業。喋っているのにいいのか? 教師の怠慢じゃないか。
「っていうか、そんな冗談よりも真面目に考えてくれる? 幸せ掴むこと」
「……だったら、最初言った通りだよ」
僕はなるべく息を整えながら、しっかりと言った。
「無駄なんだよ、無駄無駄、掴めようが掴めまいが無駄、幸せなんて無駄、無意味」
それを言うと、それきり北斗は喋らず、黙々と走り続けた。
北斗が何を考えているのか、どうしてそれで黙っているのかを考えると腑に落ちない。
けれどそれもどうでもいいことだ。考えるだけ無駄で、他人がどうしようと無関心。それが僕の生き方。
気にしない方が、最後はきっと幸せになれると思う。
それすらも、無意味だけど。
そしてすぐに北斗は先生の怒鳴る声に呼び戻されて、その授業の間は一度も僕と出会わなかった。




