17
眠った時間がいつかも分からないのに、起きた時間は朝の四時と散々だった。
どうも最近は寝覚めが悪い。
真優良と無謀な冒険に出てからだろうか、それとも家に課題を残してしまったからだろうか。
隣で真優良は髪だけを布団から出して眠っている。ちょっと面白い姿だ。
それを無視して起きて部屋を出る。廊下、階段と通ると、もうそこには厨房や客を出迎えるカフェの部分が見えている。
僕が今着ている服はマークが持っていた浴衣みたいな、ホテルにあるバスローブみたいな風通しのいい和服だ。だからこの時間のこの季節には、少し寒すぎる。
誰も起きていない時間だ。ここでぼーっとしていても何の意味もないだろうし、後で眠くなるだろう。
けれどもう一度眠る気にはならないのは何故だろう。普段ならすぐに二度寝なんだけどなぁ。悪い夢を見たわけでもなし。
真優良のせいだろうか、と考えると陰鬱な気持ちになる。あんな我儘お嬢様に気分を害されているとしても昂揚されているとしても、どっちにしても嫌な感じだ。所詮は自分がただの平凡な男であると思い知らされて嫌になる。
やはり僕は只の男なのだろう。家族の死や優秀な頭脳のために、悲劇のヒーローなりなんなり自分を飾り立てて見ていたが、あんな右も左も分からない見た目と家柄が良いだけの小娘にかどわかされる程度の小男なのだ。
あはは、小男と小娘で釣り合うじゃないか。
そうだ、もっと自分を小さく見るべきだ。色香に惑わされる守銭奴の小男、今も真優良の美貌に魅かれて、家族を捨ててまでこんなところで阿保みたいに料理を作るのだ。
あははっ! 馬鹿だ馬鹿だ! 最低の馬鹿がここにいるよ!
耐えきれず、ついには声に出して笑ってしまった。僕は狂ってしまったのだろうか。
情けない情けない。精神が脆弱だからこんなことで狂うんだ。でも狂ったって自分で分かるならきっと狂ってないんだよ。自分が変なら変態じゃないっていう変態理論的に。
ますます可笑しくなってきた。でも朝っぱらからこんなに笑ってたら近所迷惑だから抑えよう。近所の平和も考える僕は真正のヘイワオトコだなぁ。変身して戦えるかもしれない。
笑い疲れて溜息を吐くと、もう何も面白くなくなった。
急に虚しくなる。やっぱり狂ってなんてなかった。ただ笑いたくなっただけなんだろう。
すると眠気まで一緒にやってきた。体中が疲れた休ませろって叫んでいるみたいだ。疲れているくせに活発に疲れをアピールしてくるあたり、僕の体っぽくて好きだなぁ。
僕は本当に無駄なことばかり考えている。こんなだと、この世界が無駄なんじゃなくて僕が単に無駄を信奉しているだけかもしれない、なんてちょっとした希望が見えてくる程だ。
でも今の気分は、無駄なことなんて考えてないで寝よ寝よ、って感じだった。
ふわぁ、と軽やかな欠伸をしながら、やっぱり両腕を上げると肌寒くて自分の体を撫でていると、階段の上の辺りに金色の髪が見えた。
笑い声で起こしてしまったかもしれない。どんな皮肉軽蔑の言葉が来るかと思いきや、彼女は猛烈に階段を降りてきた。物理攻撃とは予想しなかった。
しかもグーで殴ることはなく、なかなかマニアックにベアハグと来た。握力や腕力が弱い真優良にしては非効率的な技だけど、こっちは痛くないから堪えない。
とはいえいつまでもこうしているわけにもいかないから、ひとまず謝ろう。
「謝るから」
けれどその言葉は真優良が言っていた。
「ごめん、だから、見捨てないで……」
「え?」
「行かないで! ごめんなさい、何でも言うこと聞くから、何でもするから、一人にしないでよ……」
「え、え、え」
ますます僕を締め付ける両腕の力が強まった。
もう肌寒さはない。胸のあたりが少し真優良の涙で濡れているのと、震える真優良がちょっと気になるだけだ。
いや、むしろ体は熱いかもしれない。
「出て行くなら、せめて私も連れてってよ……和男がいなきゃ、こんなとこいないから……」
思考停止している間に真優良は、なんかどんどん変なことを言っている。
僕はこういう経験がないのでこういう時どうしたらいいか分からない。やっぱり学校の勉強ができるだけじゃ意味ないんだね。こういう時に対応できてこその能力なんだろう。はぁ。
「大丈夫、どこにも行かないから」
ようやく真優良は顔をあげた。今までずっと、僕を束縛するのに夢中だった腕は少し緩んだ。
その希望に照らされた表情の輝き、振り解いて『嘘だよバーカ』なんて言ってみたい気持ちに駆られたのは僕が性格の悪い下種野郎だからだろう。でもしないから許そう。
「そもそもね、真優良。ちょっと風に当たりたくて出てただけだから、君、随分恥ずかしいこと言ってたよ?」
こういえば彼女は顔を真っ赤にして全部忘れろ、なんて言うかと思ったけど、ただ真優良は安堵の溜息を吐いて、手を放すだけだった。
「……それならそうと早く言いなさいよ」
「思考停止してて」
「そう、もういいわ」
言いながら真優良はわざわざ解放した手で、僕の手を改めて握って階段を昇り始めた。
おとなしく着いていくと、真優良は前を向いたまま言う。
「……いなくなって気付いたわ。あなたがいなきゃダメみたい」
「それは……気のせいだよ。一人が嫌なだけさ。僕がいなくても、義三さんとかがいれば何とかなるよ」
素早く、上手な答えを返せただろう。それに真優良はしばらく答えなかった。
階段を昇り終えて、改めてまじまじと見られて、それから彼女はようやく呟いた。
「かもね」
素敵な笑顔だった。そこから寝室までは、もう手を繋がなかった。
朝六時にマークに起こされた僕と真優良は仕込みと呼ばれる作業に呼び出された。
長い時間開く店だけあって、あと日本食に妥協したくないというマークの意見らしいけれど、本当にこのお店の方向性が分からない。
彼が用意した仕事は僕らにもできる簡単なもので、また店長だけれど小学校の時の英語の先生みたいに優しく陽気に教えてくれるおかげで嫌な気分はしなかった。
ここで言いたいのは、真優良が武士メイド服を着たことだ。
白いエプロンと藍色の帯が織り成す和洋折衷メイド服、それを真優良は頭のフリルのついたカチューシャをいじらしげに撫でながら、照れつつ言うのだ。
「似合う?」
もう完全に別人だった。
「な、なにさ、それ?」
若干恐怖も交えながら僕が恐る恐る尋ねると、彼女は得心行ったように反応して、こほんと咳払いして、やり直した。
「似合いますか、ご主人様?」
真優良はそうやって笑顔を向けてくる。
「ご主人様?」
もう一度首をこくりと曲げて彼女は呟く。唇が一言ずつ動くのを見ても理解不能。
「はぁ?」
「はぁ、とは?」
「人間っていうのは限界を超えた現象を目の前にすると思考が空回りして停止させる機能があるんだよ。僕は今、それと対面していて何がどうしたらいいか分からなくなったんだ。我儘でやかましい金持ちの小娘が急に僕に向かってご主人様だなんて……」
「……ご主人様は私のことをそのように思っていらしたのですね……?」
真優良は演技がかった喋り方で、悲しげな眼で僕に訴えかけてくる。およよ、と泣きそうだ。
けど、次はからっと明るい笑顔に戻った。
「私だって生まれてからずっとメイドと一緒に生きてきたんだから、それくらいできるわよ。ただ、武士の方は勉強しなくちゃできないけど」
そんな真優良はメイドだけの役としてここでウェイトレスをするらしい。本来ここで働くには姫華さんとかみたいに武士とメイドの役二つともできないと駄目らしいけど、彼女は僕の付き添いとして特別扱いらしい。
そして、義に厚い武士メイド喫茶は開店した。
土曜日ということもあって普段より客入りが良い、とは姫華さんの話。
美味しいと評判の和食を注文する客もいるが、メイドさんとラブラブしたいからか今までの不味い洋食を注文する酔狂な客もいた。
それが僕の仕事の開始だ。
「メイドさんとお絵かき仲良しオムライス一つ、運命の赤い糸をメイドさんと結ぶラブラブスパゲティ一つ」
「そのメニュー名シンプルにできませんか?」
「できません」
姫華さんは言い切って、また客の相手をする。
しかし作る人が一人しかいないのにそんなメニューを二つ言われても困る。料理を作る経験はあれど、作って仕事する経験はない。
契約書を交わしていないから、お金が貰えるとしても手抜きできるけど、その分労働環境とかについても強く言えない。ああ、責任感が意外と強い僕にとってこれは最悪の環境かもしれない。
そんなこと思いながら同時進行でオムライスとナポリタンを作り上げ、最初の料理はまずまずの出来だと自信を持つ。
さて、ここで真優良の初仕事だ。彼女にはメイドさんとして、仲良くお客様とケチャップでお絵描きする仕事をしてもらう。
雑談倶楽部でおしゃべりを学び、生まれてからずっとメイドさんと接し、他の人と上っ面の付き合いを繰り広げてきた真優良ならきっと姫華さんのようにお喋りできるはず。
そんな我が子を送り出す気持ちで、僕はオムライスを渡した。
初披露目ながら、真優良の外見は滅茶苦茶目立つ。日本人の血も入っているけど見た目は金髪碧眼の美少女、それが武士メイド服を着て笑顔で接してくれるのだ。外国人だもの、おっかなびっくりしてしまうよ。
「お待たせ致しました、ご主人様。メイドさんと仲良くお絵描きオムライスでございます」
あんな笑顔を向けられたことはない、と言うほどの媚笑、なんかヤキモキするのは、まあ僕の性格が悪いからだと思いたい。独占欲、男として器が小さいなぁ。
満々のケチャップを握りしめ、真優良はお客様に言われた通りに陳腐でコミカルなキャラクターを、手を合わせて卵の上に描いていく。
ああ、嘘だろう僕よ。こんなに心が揺さぶられるなんてそんなバカな。
いやもう認めるべきだ。所詮僕のような小男はたった数日、ちょっと油断する姿を見ただけで、安易に好きになってしまう惚れっぽいその辺の男の一人なのだ。
僕は真優良が好きなのだろう。
はぁ、恋がこれほど嬉しくないとは思わなかった。もっと甘酸っぱくて素敵に無敵な経験だと思っていた。
だからこそ、恋してしまうことが、浅はかで情けなくて、認めたくないものだと思わなかった。
仕事が終わったら言ってみようか。
真優良、悲しいことだけど、僕は君が好きみたいだ、なんてね。
「このオムライス、ウマー!」
妙に店内がざわついた。ちょいと身を乗り出して見てみると、どうやらお客はメールか何かしているらしい。
そんな騒ぐほど美味しいとは思わないけど、昨日のナポリタンを思い出すと、まあ天と地ほどの差はあるだろう。
だがそれは嵐の前触れだったのだ。




