2話・雪村美波はクラッシャー
「――すまんクラッシャー! ……? 夢か……」
聖白蘭病院の個室で、そんな夢を見ていた。嫌な夢だな。
17歳以下のサッカーU-17日本代表に選抜された俺が、今や戦うグラウンドは病院の中さ。やってられんよ。俺の見る夢はワールドカップで優勝する夢さ。
しかし、さっきの白血病の夢がやけにリアルに感じられて不快感がある。こんな病院に来たせいで気が弱っているようだ。今はユース代表サッカーのメンバー発表も控えている。ベッドに横になる俺は窓から見える夕陽を眺めた。
(……オレンジの夕陽を久しぶりに眺めた気がする。なんか眩しいな。眩しい……)
何故か気が晴れない俺は沈みゆく夕陽を見て呟いていた。
「……治らない病ならとっとと殺してくれ」
「わかったわ」
「え?」
背後には、くだものナイフを持ったセーラー服を着た、黒髪サイドポニーの女子高生がいる。そうだ、この女こそ俺が今日入院するキッカケを作った〈クラッシャー〉だ。俺はコイツを勝手にクラッシャーと呼んでいた。だってクラッシュされたし。
「君がクラッシャーと死ぬ間際に言ってくれたせいで、私は今日からクラッシャーという渾名が付きました。どうしてくれますか?」
「いや、まだ死んでないし。そもそも、フリーキックを直接蹴り返して来る女子高生なんてクラッ……」
「クラッ?」
「クラッと来るよな。ははは……そう、サッカー上手いなぁってクラッと来るよ」
「私はサッカーよくわかんないんだけど?」
コイツマジやばいぞ? 何でくだものナイフ持ちながら凄んで来るんだ? キッカケは俺のフリーキックミスが原因だが、そもそも俺一応被害者で検査入院する事になってるし。
だいたい、ユースサッカー日本代表の俺にこんな態度を取る女なんて見た事ねぇ! 有り得ねぇ!
「まぁ、落ち着けよ。えーと?」
「あ、名前? 雪村。雪村美波ね。美波でいいよ」
「あ、美波ね。雪村美波。とりあえずくだものナイフは置こうか。そう、それは危ないしね」
「いや、これから使うのに置けないでしょ」
これから使うってどういう事だよ! やっぱコイツ俺の言った通りのクラッシャーじゃん! いや、クラッシャーというより……?
「リンゴの皮剥きか?」
「リンゴ以外何を剥くのよ? みかんなら自分で剥けるでしょ?」
あーんはいいけど、この女近いな。やけに近い。男女の距離感というモノを知らないのか? 俺の周りでもこんな近くに来る女は見た事が無い。パクパクと剥かれたリンゴを食べた。そして、
「そもそも何を怖がっているのかな? 私がそんなに怖いの?」
「怖いと思ったが怖くは無い。もう俺もただの検査入院なんだから帰っていいぞ? クラッシャーの件は後で何とかする」
「クラッシャーの件はどうにかなるとも思えないけど……」
「むご」
突如、自分のバッグから取り出したふ菓子を口に詰めて来る。
「待て、何故俺の口にふ菓子を……ふがふが!」
「ふ菓子を食べてふがふが! とか君おかしいよ?」
「んあっ! ゴホッ、ゴホッ。お前ふざけんなよ? 俺はこれからサッカーでプロになるんだ。こんなふ菓子で窒息してたまるか!」
「元気出たじゃない。もう、死にたいなんて言うんじゃないよ。治殺なんて言ったらダメ」
「それは正解じゃない。略すな。治らない病ならとっとと殺してくれだ。別に俺は病じゃないがな」
一応、この女なりに俺を元気づけてくれているようだ。
やり方が強引だからムカつくけどな。
でもこの女……ビニール袋のお菓子とか多いな。
売店で買ったのか?
わけのわからないタイプの女だが、何故か気になる女だ。
顔は悪くないが美人というほどでもない。
ファンの女達に比べればそこまでのルックスでは無い。
(けど……安らぐな……)
そんなよくわからない感情が芽生えだしていた。
「ったく、ふ菓子で死ぬ所だったぜ。フルーツも好きだが羊羹が好きなんだよ」
「やっぱ和菓子好きなんじゃん。そこのフルーツに手をつけてないし」
美波は俺の親が買ってきていたフルーツの盛り合わせに目をつけていた。
おそらく、いや確実にあのフルーツをコイツは狙っている。
俺は食っていいぞというと、美波はみかんを剥いて食べだす。
(食べていると、この変な女もおしとやかに見えるな。まぁ生徒会副会長の柴崎さんとは比べられないが)
と、思っていると美波のみかんを持つ手が俺の口の前にある。
そして身体は密着状態にあった。
「ちょ! 待て! くっつくな!」
「照れ屋だね。キスするわけでもないのに」
「……キスなんてするか! つか、お前は俺の母親か?」
衝撃的な顔をして美波はこちらを向いている。
何か俺はとんでもない事を言ったのか?
「いや……私まだ独身だよ?」
「!? 当たり前だ! 真面目かお前は!」
すると美波は澄んだ笑みになる。
思わずドキッとしてしまった。
クラッシャーなのに……クラッシャーなのに……。
「君の性格めんどくさいね。よくそれでモテるのか不思議」
「モテても俺はユース代表ではあえて孤立しているからな」
「孤立して意味あるの? サッカーチームスポーツでしょうに?」
「俺は他のユース代表選手のように周りに勧められて入ったような選手じゃない。自分自身が納得しないとユース代表には行ってない。だから風邪だろうが熱だろうが試合に出て結果を残した。並みの選手とは違うという事さ」
「ふーん。よくわかりません」
この女に説明というのはする価値が無いと思った。
「まぁ、今回の件は元は俺の責任だ。クラッシャーの件も学園の人間が来たら伝えておく。俺が言えば問題無いはずだ」
「何、意外と心配してくれてんの? フフフ。君もいいとこあるのね?」
過去の日々を思い出しながら俺の存在をこの女に語ってやる。
これから俺はU-17サッカー日本代表に選ばれる。
当然だ。
俺はいつかA代表でも10番になる男だからな。
「……当たり前だ。俺は中学一年からサッカーにおいて各年代の10番に君臨してピッチで活躍した男だ。この栄光は途絶える事なく輝き続け、俺はヨーロッパのビッグクラブに行き日本にワールドカップをもたらす……?」
すると、すでに美波は俺の個室から出ようとしていた。
「人の自慢話ほどつまらないものは無いって言うでしょ? 元気そうで良かった。またねー」
「そだねーって、また来るのかよクラッシャー! ハッ!?」
扉を閉じる瞬間、クラッシャー美波は一瞬殺気に満ち溢れた目をしていたが、すぐに微笑んで手を振りながら帰って行った。妙な寂しさを覚えた。
そんな事を思いながらベッドに横になると、また誰かが入って来た。看護婦にしてはやけに幼い顔だと思っていたら、
「ク、クラッシャー美波……何故またここに?」
「売店に羊羹あったから買ってきたのよ。カロリーの補充よ」
「お前、そのビニール袋のお菓子なんだよ? 自分用か?」
「この病院の近所の特売セール品だよ。私は甘いものに目が無いのである」
「あぁ……そうなの。売店潰すなよ?」
「潰さないよ。けど私が行ったスイーツバイキングは確かに潰れてる店もあるけど、私がクラッシャーではないわよ? 店の在庫全て食べるわけじゃないし」
「んー……ならスイーツクラッシャーは認めようか?」
何故かまた俺は、スイーツクラッシャー美波と話す事になった。
「それにしても、美波は運動部でも無いのに凄いキックだったな。何かスポーツやってたのか?」
「いんや。今日は近所の喫茶店のパフェ一杯無料の日だったからね。毎月貯めた商店街のポイントで、私は喫茶店でパフェを食べるのが毎月の楽しみなの。だからあの日だけはメチャクチャパワーが出るの」
「あぁ……そんな理由」
うん。何となくそんな感じがしたから納得だ。すると、美波は俺の顔を間近でじっと見てる。キスが出来る距離で見てた。
「左目の下にホクロがある。弟みたい」
「弟? おれはお前の弟ではない」
「そりゃそだね。私の弟はたった一人ですから!」
何故か人差し指を立てて自慢気に言って来る所がムカつく。まぁいいさ。俺はこんなクラッシャー女とは今回限りの付き合いだ。俺の周りの女の子はおしとやかで美しいのだ。
「!? な、何だいきなり!」
いつの間にか俺の顔の前に美波の顔があった。焦る俺は突き放そうとしてしまい、美波は逆に押し返す形になり――。
『……』
二人の時間は少し止まった。
迂闊にも、唇と唇がぶつかってしまうハプニングがあった!
何故人生初キスがクラッシャーなんだ!?
俺は生徒会の柴崎さんが好きだったのに……って言ってる場合じゃない!
「す、すまん! 唇切れてないか? これは事故だ。いきなりお前の顔が目の前にあって驚いたから、つい突き飛ばすような事をしてしまった……それをまさか押し返されるとも思っていなくての事故だ」
「照れ屋さんだね君は」
しどろもどろで汗が吹き出している俺に、小悪魔のような笑みで美波は言った。迂闊にも一瞬、美波をカワイイとすら思ってしまった。これは事故の後遺症だろう。きっとそうだ。そうに違いない。
「……でなければこんなクラスで5番手ぐらいの女なんて好きになるわけが無い」
「私がクラスで5番手ぐらいの顔って事ね。つまり、トップクラスという事だ! イェーイ! ブイ! ブイ!」
「ち、近いから近いから!ブイブイ攻撃もやめてくれ! トップクラスってのは3番手まで5番手はトップクラスではないのは確定事項。わかったな?」
「それは君の確定事項であって、私の確定事項ではありません!」
またもや無意味に人差し指を立ててキメポーズしてるよ。
この女、見舞いに来たんじゃないのか?
何かメッチャ調子狂うし疲れたんだが?
とりあえず翌日にちゃんとした検査も受ける事になり、もう一日病院に泊まる事になった。サッカーも出来ない病院は退屈で、俺はあのクラッシャー美波の事をよく思い出してはイライラしていた。
あの女は俺の近くには存在しなかった異分子なのは確定事項だ。だからこそイラつくんだろう。ある意味、俺は美波と学校で会えるのを楽しみにしていた。
「ん?」
そして、俺の個室に何かの金属が落ちていた。
「落とし物。美波のか? あいつはカバンに犬のバッジ付けてたから、犬のドッグタグだな。この刻まれたツバサというのは犬の名前か。少しチェーンが錆びてきてるぞ? 犬のよだれか? このドッグタグのチェーンの錆から見て、もう死んだ犬だな」
美波が病室に落として死んだ犬のドッグタグのようだ。明日ここに来なければ学校で渡してやればいい。まぁ、明日も来られたら困るが。
「そうか、明日見舞いに来る仲間に渡せばいいんだ。そうすればあの美波に俺のペースを乱されずに済む」
しかし、俺は翌日に来たサッカーなどの仲間達にドッグタグを渡す事は無かった。何故か渡せなかったんだ。
(何だ? この違和感は?)
チームメイトもかわいい女の子達も、何か俺を刺激しない。
こんなに楽しいのに、まるで俺は一人でワルツを踊っているような錯覚すら感じていた。
少しずつ、俺は雪村美波に心を変えられ出していた。