台所の魔王様
「我の眠りを覚ましたのはそなたか」
今まさに料理をせんとしていた村娘、アーシャは目をぱちくりとしました。狭い台所の木の床にはスイカほどもある穴が空いています。後で直してもらわねばならないな、と思いました。
「そなたか、と聞いておるのだ、娘」
その穴のすぐ横に立つのは、一抱えほどある黒い球に、大きな一つ目と小さな口、細い手足、小さな羽、何本かの角が生えたよくわからない生き物。突然床下から飛び出してきたのです。
「ええと、多分私じゃないと思う……」
「なんと!」
生き物は小さな手をぶんぶんと振り回します。
「およそ三百年ぞ! 三百年の眠りを遮った挙句に知らぬふりか娘!」
「だから私じゃないってば」
アーシャは皮を剥き終えたジャガイモとナイフを置き、三つ編みをぴんと弾くとそちらに向き直ります。
「まずあなた、誰ですか?」
「我を知らぬと申すかああああ」
ころん、と生き物は床に転がり、ごろごろとしばらく転がってからもちり、と起き上がりました。
「我はかつては邪神とも崇められた力の化身、破壊のみを信条としこの大地を踏み荒らし炎を巻き起こし稲妻を走らせ、ばーん、ばーんって」
「簡潔にお名前を」
「長いぞ! 我の名は実に長い! おまけに大地の民には発音が不可能である故に、そう、魔王と呼ぶが良い」
生き物は……魔王は得意げに身を反らします。そして、アーシャは子供の頃に聞かされたお伽話をぼんやりと思い出したのです。
「あの、強い騎士様に追われてやられちゃった魔王ですか?」
「そなたの史観は歪んでおる!」
キイキイと魔王は声を上げます。
「良いか、我らは戦略的にこの大地に価値なしと認め、撤退行動を図ったのだぞ! そこをなんたら言う騎士団が卑怯にも背後から急襲をかけ……やられちゃった」
「やられちゃったんじゃないですか」
お伽話には確か続きがありました。魔王の息の根を止めることは誰にもできず、地面深くに封印が施されたのです。そして、魔王は恨みを抱きながら今でもそこで一人寂しく眠っている、というものでした。まさかそれが自分の家の台所とは思いませんでしたが。アーシャは口ごもります。
「……恨んでるんですか、私たちを」
「はあ?」
魔王はきょとんとした声を出しました。
「だって、封印されたんでしょ?」
「誰がだ。我は己から眠りに就いたのだ」
ぷい、と魔王はそっぽを向きます。
「ほとほと嫌になってな。我の……その、破壊しかもたらさぬこの、このな! 手! 手がな!」
ちまちまとした手をずい、と突き出され、アーシャは一歩後ずさる。その手には、特に鋭い爪も棘も何も生えていない、かわいらしいもののようでしたが。
「破壊の権化とか言われしこの手が呪わしいのだ。ふふん」
「ふふんって」
「ともかく、そなたらの言い伝えは間違いだらけだ! 魔王様はとてもかっこよくて悲劇的自己犠牲的であると知るが良い」
「はあ」
アーシャはまな板に向き直ります。
「あの、じゃあもういいですよね?」
「いいとは」
「特に恨んだりとかしてないなら、私、早く晩ご飯作らなきゃならないので。家族四人分」
魔王は突然ちょん、と跳躍して料理台の上に乗りまきた。
「うわ邪魔」
「まあ待て、何かの手違いのようだが、そなたのなんかが我を解放したのは確か。そこで、そなたの願いをひとつ叶えて進ぜよう」
じゃあそこをどいてください、と言おうとして、アーシャは口を閉じました。とにかく、この魔王と名乗る存在が人間ではないことは確かなのです。何かの力を持っていることは間違いない、そう思いました。
「ええと……じゃあ、うちをお金持ちにしてください、とかは?」
「それは無理ぞ」
「無理なんだ。なら、父さんの木こりの仕事が捗りますように、とかは?」
「無理よのう」
「何ならいいんですか」
「破壊」
アーシャは呆気に取られます。
「破壊?」
「言ったではないか。我のこの手は破壊しか生み出さぬ、と。木こりの仕事に手を出そうなどすれば、大木も粉々よ」
それは困るなあ。アーシャは唸りました。
「ええ、じゃあいいですよう……」
「腹の立つ住民を炎で跡形もなく消し去るとかがお勧め」
「跡形残してくださいよ、そんな仲悪い家ありませんし」
「やはり、破壊は要らぬ力か」
魔王の大きな目が床を見ました。
「何の偶然かこの時代に目覚めはしたが、我はまだずっと眠っていた方が良かったのかもしれぬなあ……」
三百年、と魔王は言っていました。アーシャは不意に思い出します。三百年の孤独。もしかしたら、その前から。破壊しか生み出さない存在とは、なんと悲しいことでしょう。アーシャは、なんだかこの小さな魔王がかわいそうなような気持ちになってきました。
「しかし、あまり寝すぎてもうしばらくは眠くならないからのう……」
「魔王様」
アーシャは思い切って声を掛けました。
「あの、このジャガイモを破壊するのはどうでしょうか」
「ジャガイモ? ああ、その白き野菜か。我の時代にはなかったものだが」
大きな目が瞬きます。
「炎で焼けかすも残らぬほどに」
「残してください」
「では重力でぺしゃんこに」
「そこまではやめてもらえると」
「むむ、ならば風で切り裂くか」
「そう」
アーシャは顔を輝かせました。
「そういうのですよ」
「そこな板ごとずんばらりと」
「まな板は残して」
むむ、と魔王は腕を組みました。
「なかなか難しいのだな」
「できますよ、魔王様なら」
「そうか、よし。では下がっておれよ娘」
魔王は手をぶん、と振ります。ひゅっ、と耳元で音が鳴った気がしました。ぴし、と壁が小さな音を立て、猫が引っ掻いたような微かな傷を残します。そして、山のように積んであったジャガイモはひとつ残らず……小さな屑かサイコロか何かのようになっていました。
「あ、ああー」
思わず声を上げます。
「切りすぎたか」
魔王も、しまったと思ったらしく、しょんぼりと肩を落としました。
「やはり我の力は破壊しかもたらさぬ……駄目だな」
「いいえ、いいえ」
アーシャは決然と、湯を沸かしていた鍋に向かいました。塩と、屑のようになった芋を放り込みます。
「大丈夫。見てて」
芋は小さくなった分、茹で上がるのも早いはずです。しばらく後、アーシャは芋をざるにあけました。ほかほかと湯気が立ちます。魔王は床に下り、じっとその様を見ていました。それから、アーシャは芋をフォークで潰し、油と牛乳を取り出し、手早く混ぜます。
「ほら、できた。潰し芋ですよ」
「ほう!」
魔王はぱたぱたと羽を羽ばたかせると、アーシャの側に浮かびました。
「これは糧か」
「はい」
アーシャはまだあつあつのそれを木の匙でひとすくい取ると、魔王に差し出しました。
「魔王様が『作った』ものです」
魔王は大きな目でそれをじっと見ました。恐る恐る匂いを嗅ぎ、そしてぱくりと匙に噛み付きます。
「我がこさえたのか、これを」
細かな牙の生えた口が、何事か言いたそうにむぐむぐと動きました。
「美味いな。塩味が効いておる。そなたはなかなかの料理人のようだ」
「魔王様の下ごしらえもなかなかでしたよ。あの量のジャガイモを切って茹でて潰すの、結構大変ですもの」
本当はシチューに使おうと思ってたんだけどね、とアーシャは内心で呟きます。まあ、他の野菜でどうにかすれば良いのです。料理は臨機応変。
「魔王様、破壊だけじゃないじゃないですか。壊しても、そこから作れるんですよ」
「そうか……」
魔王はぷるぷると小刻みに震えていました。
「我も、こうして平和裏に力を使うことができたのだな」
声音はただただしんみりとしており、アーシャも思わず胸の奥がじんと熱くなるほどでした。
「娘よ。名をなんと言う」
魔王がアーシャに向き直ります。
「名前? アーシャといいます」
「ふむ、良い名よな。アーシャ」
アーシャは、魔王の目を初めてまっすぐに見ました。黒い大きな目は、意外に澄んで輝いておりました。
「我をここに置いて、そなたらの仕事を手伝わせてはくれぬか」
アーシャは台所を少し見渡します。遠くでは父さんが斧を振るっては街に売る木を切っているでしょう。母さんは街の市で卵や野菜を売り捌いて、その代わりに何か必要なものを買って帰ってくるはず。兄さんは近くの風車小屋で働いています。決して豊かな暮らしではありません。
「お仕事ですか」
「我の力が強大に過ぎる故、そなたらの生活にそぐわぬことは百も承知。しかし、我は先の芋を食べて、なんというか、ほら、その、ぐーっと思い知ったというか、なんかすごく思ったというか」
「痛感」
「それ。痛感したのだ。我はこれまで破壊のみに甘えていたのではないかと。何かこの力で他にできることがあるのではないかと、希望を抱いてしまったのだよ」
アーシャは、小さな魔王を見下ろしました。もしかしたら、自分はとんでもないことをしてしまったのではないか、という思いがよぎります。それでも、彼女はこのよくわからない生き物を見捨てることはできませんでした。
「……父さんに頼んでみないと決められませんよ」
「おお、何度でも頭を地面に擦り付けようぞ」
アーシャはふっと笑います。
「そしたら、まずは晩ご飯を片付けないと。しっかり作って、いいとこあるんだって見せてやらないとだめでしょ?」
「その通りよ! アーシャ、そなたはなかなか頭がよろしいな。気に入ったぞ」
「はあ、それはどうも」
アーシャは、麻袋から野菜をどさどさと取り出します。
「さあ、作りましょう、魔王様。五人分の美味しいシチュー!」
魔王は、うむ、と頷いて嬉しそうにぱたぱたと羽ばたきました。
こうして、アーシャの家には奇妙な居候が加わることになったのです。その後の顛末は、まだ別のお話。