血 ※
動きたくなくて動かなかった。ではなく、動きたくても動けなくなった。に徐々に変わっていく祖母は、毎日俺に頼んできた。
「殺してくれ」
何度もだ。
「頼むわ、死にたい。殺してくれ」
常にだ。
食器を洗っていて、俺が包丁を握る度に「刺せ」と言って来る。
俺は俺なりに必死になって世話をしているつもりなのに、祖母からは少しも生きようという意欲が感じられない。
死にたいのはこっちだ。
職も、希望も、何もない。俺こそが生きる意欲の無い人間だ。そんな人間に面倒をかけなければならなくなった祖母のプライドは、どれだけ傷付いているだろう?
握っている包丁から視線を外して、ダランと座っている祖母を眺める。
「刺せ」
祖母が言った。
「分かった」
俺は答えた。
包丁を手に持ったまま祖母に近付き、ピタリと首元に当てた。もちろん祖母の首にではない。
ポカンと俺を見ている祖母は、虚ろな目でまだ「刺せ、殺せ」と言ってきた。
「ホンマに?」
静かに頷く祖母。
「刺して欲しいん?」
また頷く祖母。
俺は包丁を置くと、後ろにあった食器棚に向かって喧嘩を売った。
ガシャーン。
ガラス戸に向けた拳にガラスは深くは刺さらなかったが、食器棚のガラスは割れて足元に散乱した。そして滴る血。
本当に血ってポタポタと滴り落ちるんだな。と妙に冷静になれるほど痛みは全く感じなかった。本当に少しも痛くないのだ。
そんな手を祖母に見せながら、再び聞く。
「死にたいか?」
祖母はしっかりと俺の目を見て、大きく首を振ってくれた。
徐々に限界に近付いていく精神状態をどうにかしようにも外出すら出来ない。
当時は家にネット環境もなかったので介護について調べる事も出来ず、気分転換と言いばベランダでタバコを吸う事だけ。そんな僅かな時間目を離しただけでも下からは1人で立ち上がろうとしてこけてしまった祖母の「起こして」と唸る声が聞こえてくる。
何をどうやれば良いのかという知識がないのに、日に日に祖母は動けなくなっていく。
苛立ちばかりが募り、終にとんでもない所でストレス発散させる方法を生み出す事になった。
1階に降り、起こしてと言っている祖母を抱き起こして椅子に座らせ、落ち着いたところで発せられる「殺して」の言葉。
フフッ。
食器棚から皿を取り出した俺は、その皿を手に持ったままテーブルに向かって手を振り下ろす。
ガンッ!ガンッ!ガンッ!バリン。ガンッ!ガンッ!
掌は赤色の液体にまみれ、ビチャビチャとテーブルの上に滴る。
「ハハッ♪」
痛くないのだ。
祖母は俺が血を流している時だけは静かで、俺もこの時だけは色んな事を考えずに済んでいた。
ストレス発散方法として実に平和的だと思えていたほどなのだから、相当だ。




