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敵は本能寺に

作者: 七生

明智光秀は大いに頭を悩ませていた。

うーむうーむと唸りながら、首を傾げたり捻ったり。

日没からすっかり夜が更けるまでの間、そんな様子でイライラと身体を揺すり続けているにも関わらず、悩みの種は一向に解決する気配はなかった。


時は天正十年。

弱肉強食下克上の戦国の世もほとんど終わりを迎え、もはや天下が統一されんとする日がすぐそこまで見えてきているようなこの時期に、その天下を手中に収めつつある稀代の武将、織田信長の腹心の一人である明智光秀は深い深い溜息をついていた。


「ああ、参ったぞ。どうすればよいのだ……」

頭を抱えても揺すっても妙案は出てこない。この事態を一挙に解決してくれるであろう斥候からの報告も全くもって届く気配はなかった。

決断力がなく、優柔不断だと誰に言われるまでもなく自認している光秀だったが、この夜もその例に漏れず事態は変わらずただ時間のみが費やされていく。

辺りはすっかり夜の闇に包まれ、間をおいて焚かれている篝火だけがぽつりぽつりと橙色の光の輪を地面に落としている。もはや時間はほとんど残されていなかった。


「光秀様、そろそろ兵どもに下知を下しませぬと……」

傍らに控えていた鎧姿の男が恐る恐るといった様子で光秀に声をかけた。しかし光秀はそんなことは分かっているとでも言いたげに、顔をしかめて男を睨み返すだけ。

光秀の優柔不断を知る男はそれと悟られぬよう微かに溜息を吐くと、再び気配を消すように腰を下ろした。


明智光秀は重大な決断を迫られ思い悩んでいたのだった。

主君、織田信長を如何にして討つか。


討つかどうか、ではない。反旗ならば、昨日の夕方に既に翻している。

信長の命に従い、毛利勢を攻める羽柴秀吉の援軍として中国へ向かう途上にあるはずの光秀が、こうして軍を率い、桂川を渡って京の市中へと足を踏み入れようとしている時点で造反の意ありと見做される可能性は非常に高い。

反旗を翻すということであれば、それは昨日の夕方に光秀の居城である丹波亀山城から京を目指して出立した時に既になされてしまっているのだった。


それでは、光秀は一体何を悩んでいるのか。

「信長様の居場所はまだ掴めぬのか?」

無駄だと知りつつ、側近に対して今夜何度目かの問いを光秀が発した。しかし返ってくる答えも今夜何度も聞いたものだった。

「申し訳ありません、光秀様……。京に放った手の者が八方手を尽くして調べてはいるのですが、本能寺の近辺のどこかにいるというところまでしか……」

明智光秀は主君信長に対して弓を引くという一世一代の決断を行い、実際にそこ腰を上げたにも関わらず、肝心の信長の正確な居場所が掴めていないのだった。


信長の天下統一事業は既に最終局面に入っている。残る地域を討ち従えるために信長の配下の武将達は各地に散り、結果として今現在信長が滞在している京をはじめ、機内は手薄と言っても過言ではない状態になっていた。

武田は滅亡寸前、上杉の脅威も遠く、中国は秀吉が着々と戦を進めている。わずかな供回りのみを連れての信長の行動は軽率と言えなくもないが、周囲の状況を見ればそこに危険などあるはずもなかった。最も近しい部下の一人、明智光秀の裏切りを除いては。


千載一遇の機会が、目の前にぶら下がっている天下が、ハラハラと指の隙間からこぼれ落ちていくような感覚を光秀は味わっていた。

このままここで時間を無駄にし、夜が明けてしまえば全てが水泡に帰してしまうだろう。一万余を数える兵は人目につくなどという規模を遥かに超えているし、その情報はすぐに市中の信長に伝わるに違いない。この企みに気付かれてしまえば、安全な場所に退こうとする信長への追撃は至難を極めるはずだ。いくら畿内が手薄とはいえ、光秀の裏切りが明らかになれば軍をとって返す者も出てくるだろう。

「それだけは避けねばならぬ……今日の夜明けこそが唯一の機会なのだ」

光秀は奥歯を噛み締めながら東の方に目をやった。京の都は夜の闇の中眠ったように静かに佇んでいる。


町のさらに奥、東山の向こうからはまだ暗かったが、あと数刻もすれば空が白み太陽が顔を出し始めるだろう。その前に、全てを終えなくてはならない。

「光秀様……もはや時間が……!」

京の市中までここから半刻ほど。夜明け前に事を終えるのであれば、今がその刻限であった。しかしまだ信長の正確な居所は判明していない。部下の声の響きにも、これまで以上に深刻なものが混じり始めていた。

「決断のしどころか……」


これ以上時を費やせば、機を逃すだけではなく己を信じて付き従ってきた配下の兵たちの心をも逃しかねない。普段より決断力のなさを自戒し続けている光秀にはそれが誰よりも理解できた。大将にとって、時に果断な決断ほど求められるものはないのだ。

ここが天下の分け目だといよいよ心を決めた光秀は、傍に控える男に告げた。

「諸将を集めよ。下知を下す!」


居並ぶ武者たちを前に、光秀はあらためてその顔を見渡した。これまで長い年月、いくつもの戦をくぐり抜けてきた配下の者たち。この一世一代の大勝負は、光秀のみならずこの男たちの命をも賭して為すしかない。失敗するわけにはいかなかった。

光秀は再び京の都の方角に目をやった。あの町のどこかに主君の織田信長がわずかな供回りのみを連れて滞在している。夜が明ける前にその場所を取り囲み、討つことができれば天下は光秀の手の中に転がってくるはずだ。


胸の中に様々な想いが去来する。信長に仕えるようになった時のこと。信長の下で戦った日々。そして――。

主君を討つという常ならざる決意をした理由は死ぬまで心に秘めておけばよい。今はただ、一人の男として目の前に訪れた類稀なる好機を掴むだけだ。


こういう時こそ兵たちにはハッキリとした命令が必要だったが、信長の正確な居所は未だに掴めていない。本能寺の近くのどこか。果たして探し出せるのだろうか。

こんな時、冷静にして果断なる織田信長ならどうするのだろう。ふと脳裏に浮かんだ疑問を光秀は頭を振って追い出した。自分は今からその信長を討つのだ。

時には己の心の弱さ、優柔不断な曖昧さも武器になるのだということを信長に見せてやろう。


今はともかく兵を京へ、本能寺の周辺と進めるのだ。行くぞ、者共!

固唾を飲んで配下の武者たちが見守る中、光秀は軍配を振り上げて京の都を指し示しながら声を上げた。



「敵は本能寺nearly!」



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