12.決戦(後編)
12話+エピローグで終わると言ったな!すまん、ありゃウソだった!
戦闘文字数が予想の2.5倍に膨れ上がったので、もう1話分お付き合い下さい…。
案の定、刃が通らない。
魔力が移動する感覚はあるため、恐らく硬化の魔術でも使っているのだろうとは推察できる。できるのだが、それでも感知できる魔力量から逆算した防御力と、リンデンの振り下ろす刃の攻撃力の差分を考えるとやっぱり納得いかない。
鎧とかそういうのが間に挟まっていても、金属に傷が付く威力ではあるはずだった。それなのに完璧なまでに刃を弾くのは素肌なのだ。どういう金剛の肌をしていたら赤みすら浮かばないほどの頑丈さを得ることができるのか。鍛錬がどうとかいう問題ではない。人外だ。普通に人間以外の何かだ。
踏み込んでいた足を一旦引く。目前が刹那蜃気楼のように霞んだ。もう驚くのもアホらしいが、あんまり拳の速度がアレ過ぎて空気摩擦との間で熱が発生して空気を歪ませているらしい。結構な風圧を被って細めた視界に、追撃の気配が映って即座に飛びのいた。
今まで使っていた「強い」という言葉がゲシュタルト崩壊を起こすほど、マリーゴールドは強い。
ただ気合いを乗せて拳を突き出しただけで、拳の直線上5メラトルの大方の存在が吹っ飛ぶ。10メラトル付近では地震を食らったように風圧で人がよろめき、20メラトル地点でさえ髪が鳥の巣と化す有様だ。唯一の救いは直線距離は長いが幅が狭いことだろう。図ったように軌道は一直線である。要はその分威力が上乗せされてるわけだが。
ちょっとどういう物理世界に住んでいるのか理解しかねる惨状だが、つまり満足な構えも見せないままの一振りさえ、驚きの破壊力を伴うということである。
加えて戦闘スタイルが彼女の凶悪さを増幅させている。
己が金像のごとき存在だと把握しているのだろう彼女は、自ら攻勢に出ることが少ない。相手の攻撃を弾くか否かで繰り出されるカウンターは、自らの防御を貫ける一手がまずないと知った上での暴挙だ。常人であれば身を削る最後の一手も、彼女にかかれば寄ってきた虫を叩くだけの簡単なお仕事。むしろ受けずに避けると、その分攻め手が遅れて無駄だよね!ということである。
なまじ躍りかかる相手を迎え撃つのに徹底するので、およその攻撃に反応しやすいのがネックだった。小細工への対応がしやすいようで、試しにフェイント混じりに投げた閃光弾は、観覧者たちの目を焼くに終わってしまった。阿鼻叫喚の場と化した会場の中心でざまあみろと舌を出したのは八つ当たりではない。なお、火薬の爆発に対してなんぞ反応もしねえ。
端まで下がって体勢を立て直そうとした矢先、ふいに覇王の全身が一回り膨れた気がした。毛穴が開くようなぞっとする感覚に身を屈める。
反射としか言いようのない動作は、リンデンの寿命を確実に延ばしたようだった。頭上を過ぎる烈風に押されて場外へ落ちそうになったのを堪え、這い蹲るように居場所を移す。
腰を伸ばそうとして留まった。なぜ上半身が滞在するべき空間に風が吹き荒れてるんだ。
「う、お、お?」
「仕損じたか。さすがだ」
「いや、さすがっていうか……何だこれ」
「?」
構えたままに小首を傾げても何にも可愛くないからな。いくらかの切り傷が付いたスカートの裾をはためかせながら、当然のようにそびえ立つ大樹は答えた。
「両腕をエックス状に振り下ろすと、乱気流が発生するであろう」
「しないよ?」
「するであろう。左右から異なる方向へ風が巻き起こるのだ。ぶつかり合って気流が乱れるは必定」
「だから、そもそも腕を振り下ろしただけで風は巻き起こらないよ」
なるほど、膨れたように見えたのは両腕を広げた一瞬の残像を捉えた結果だったらしい。
覇王と戦うにあたり幸運であったのは、動作そのものは見えずとも、予備動作や視線の配りは視認できる範囲であったことだった──辛うじてという修飾語は捨てがたいが。
この辺りが実戦経験の少なさだろう。実践を重ね、失敗を重ねて錬磨される動作の数々が、彼女は実力に反して洗練されていない。
ついでに言えば、追撃にパターンが少ない。ありとあらゆるフェイントを織り交ぜられれば手も足も出ない速度と膂力を持つにも関わらず、一辺倒とまでは言わないものの、何とか凌げる範疇である。
それらは皮肉にも、彼女がこの国において最強であったからこその幸運だ。硬度と粘度を兼ね備えた得難い金剛石であったからこそ、それを研磨するための砥石が存在しなかった。あるいは存在はしていたが機会に恵まれなかったのかもしれない。
予備動作を察知して回避できる存在がいない。回避しても有効な攻撃を与えられる猛者がいない。追撃など行わずとも、一撃で屠れる者しか相手にしたことがない。
マリーゴールドの強さとは、謂わば雷撃の一鎚にも微動だにしないほど、堅牢に、太く逞しく、まっすぐに伸びた大樹のようなものだ。絡まる枝はなく、寄り添う蔦もない。
世界に出れば、彼女を「どうにか」できる人間は案外いるだろう。大樹を直接に倒すことなく、じわじわ枯らしたり、養分を行かないようにしたりする、そんな絡め手。思い付く限り、そういった特殊能力を保持する輩はいくらか知り合いに存在する。
今は枯れ木と化した老婆の「平和ボケ」という言葉を痛感する限りだが、しかしそうであっても──。
「私にはそういうのはないからなあ……」
というのが重度の問題だった。
例えば鎌鼬のピノなら、風の魔術で取りあえず服を布切れに仕立て上げる嫌がらせをしつつ、足場を鋼をも断ずる自慢の鎌鼬で細切れにし、実質上の場外落ちを狙うだろう。
青鬼ヴァンリは「オニビ」と呼ばれる魔を操る精神操作士だ。覇王を芯まで乗っ取るまでは行かずとも、動きを阻害することは恐らく可能である。
完全破壊型の血塗れのルルル、破壊天使ジーノジーナはガチンコ勝負を持ち掛ける他ないが、どうだろう、防御はともかく破壊力の面では覇王と互角かもしれない。ならばガードを打ち抜く術があるだろうか。
リンデンは、言ってしまえばノーマル戦闘総合型の人間である。可もなく不可もなく、あらゆる事態に対応できるオールマイティ型。言い換えれば器用貧乏。
亜人を含み全人類を色々とランキングに仕立て上げた場合、どの項目でも平均よりやや上の椅子に鎮座するのがリンデンだ。例外として魔術攻撃力とか、そういう魔術絡みの項目は除く。ちなみに精神に対する魔術抵抗力の高さが特殊能力と呼べる域であるかは判断に悩むところ。
さて、このスペックで、覇王の防御を抜く術とはいかにや。
膂力は目にするまでもなくわかっていたし、素早い巨体だとは承知していたつもりだが、ここまで堅いとは思わなかった、というのが正直な感想である。
腰に結わえた袋から、いくらかの魔石を取り出して手の中に忍ばせる。小さな珠だ。剣のグリップを握る指の間に収まるほどの。
特殊能力保持者である妹の手による作である色鮮やかなそれらは、一般に出回るものより随分と小さい。やたら小型化に拘るのは故郷の国民性かな。
ちなみに家族割引を適用されてなおクソ高い。故に普段は量販物を使用しているリンデンだが、こちらの方が色々と「応用」が利くよう設計されているので、今回ばかりは浪費も仕方ないと財布の中身を見ぬ振りで誤魔化した。
得物を構え直したリンデンを見守るのは、覇王の余裕ではなく、警戒だ。見極めるように忍ばせた珠を注視していたが、やがて無駄を悟ったのか半身を引く。
背筋を流れる汗が、途端に冷えた。脈動するふくらはぎの筋を視界に映し。
「【氷は盾に】」
叩き付けるように魔石を発動した。
指の股に鎮座した青と鋼色の石が、簡略化されたキーワードに応じて力を形成する。
目前に形成される氷の円錐体。限界まで摩擦係数を削ぎ落とした等身大の堅牢な盾の側面を火花が流れるのが辛うじて見えた。
強化魔法にコーティングされた氷の盾にいなされた女は、しかし竦むことはない。刹那確かに捉えたはずの巨体はすぐさま消えて、高速で駆けるにはあまりに狭いはずの空間に溶けた。
ふと、聴覚が訴える危機。側面へ薙いだ手を翳し、悲鳴にも似た叫びを上げる。
「【赤い爆風】!」
溢れる2色の光が早いか、襲い来る身を突き刺すような覇気が実態を持つのが早いか。
側面から強襲した豪腕の生む鎌鼬を押し戻すかのように、赤い光は前方で爆発へと姿を変えた。2メラトルの高さで起こる高火力の爆薬を軽く凌ぐ爆発と熱は女の目を焼かずとも、例え目蓋に阻まれたとて、少なくとも女の視界を奪ったはずである。怯む仕種すらなかったが、ごく僅かでも速度を殺ぐことができ──てるんだろうかこれ。
勿体無いお化けを調伏して念のため発動させた予備が生きた。緑の光は暴風となり、跳躍したリンデンをフィールドの端へと連れ去る。
見慣れぬ魔石発動法を恐れたのか、追随はそこまでだった。筋肉の塊のくせにヒット&アウェイをマスターしているとは何事か。とはいえ助かるのはリンデンだが。
もう少し様子を見ようかと思っていたが、攻勢に出始めるのであれば話は別だ。生半な状態で凌げるような相手じゃない。
再度の仕込みがめんどくさいのでできれば使いたくはなかったが、背に腹は変えられない。腰元からチェーンを引っ張り出して腕に纏わせた。手首、肘のパーツに手早く装着し、固定する。
奇妙に植物と金属が組み合わされた繊細な造りの鎖には、そこかしこに魔石が埋め込まれている。
魔石の発動は、とにかく魔力を流し込める状態にさえあれば可能である。しかし、魔性を帯びたものを除き、金属は基本的に魔力を流す性質が薄い。苦心の末、弟が生来の器用さを発揮して作り上げたのが、ある種の生命体である植物を組み込んだこの鎖である。本来手に取らねば発動できない魔石だが、一々状況に応じて魔石を取り出す必要性がなくなる逸品だ。
ちなみに魔石と鎖を合わせ、これ一本で一財産になるほどの価値があるので、手癖の悪い知り合いはことごとく盗みを働こうと頑張ってくるのが悩みである。
「魔石にそのような使い方があったとはな」
「特別製だ。良いだろ」
魔石の応用、つまり、組み合わせによる威力の変化や強化は、一般の魔石では利かない。
リンデンの発案で妹に作成を依頼した。通常の魔石より内包可能な魔力が高く、組み合わせずとも威力強い。欲しがる輩が後を絶たないあたりに性能の高さが窺えると知れよう。作成方法詳細は、特殊能力で魔力を回路化してどうこうとまでは覚えているものの、それ以上を記憶しておいても意味はないし、正直聞いていてもよくわからなかったので知らない。
ただ、特別なアイテムだということが重要である。普段から使用するシロモノではないという事実こそが本質だ。
リンデンのこの戦い方は魔剣士に似ている。だからこそジャスミンとの手合わせの際、首元を飾る凶器の一撃に反応できた。
魔剣士との明確な違いといえば、魔術の使用回数。有限か無限か。小さな魔術の発動までアイテムの使用を必要とするリンデンが、魔石の使用を必要とするほど追い詰められた上で、魔剣士に長期戦で敵うことはないだろう。最大限に魔術を生かした戦法が脳内に収まっているからこそ、リンデンは魔剣士に苦手意識があると言っても間違いではない。
さて、覇王はジャスミンとの交錯がいかほどであるか。あまり回数を重ねていれば対抗策を打ち出しているだろうし、回数を重ねていなければ──。
「【土は鎧に】」
薄く広がった光が身体を覆う。目に見えぬほどの魔力皮と化した土で防御を上げるのは、覇王の攻撃に向けたものではない。そんな焼け石に水滴を垂らすような無駄に貴重な石を消費できるか。
再び覇王の巨体がブレる。剣を振り抜くと、硬質な音を立てて左前方で弾かれた。
「死ねぃ!」
「そういう場じゃないだろおいッ」
移動速度を殺されたマリーゴールドの手が伸びる。直線的な手刀に頬を裂かれながら一歩を後退する。
踏み込む覇王の腹に向いた凶器を突き出すが、掠りもせずに空振った。
──空振った?
重心が動く。僅かに左に傾いたのを視認し、反射的に刃物を腰下へと向けた。
リンデンへと向かっていた根のごとき右足が瞬時に反応。幾度も体感した金属を叩くような重い手応えが伝わることはなく、素早い巨体が獣の跳躍で飛び退る。
数瞬遅れて追い付いたリンデンの渾身の刃は、構えた腕に止められた。素早く丸太の下から覗かせる位置まで滑らせた肘に魔力を込める。
魔石の発動は早いだけでなく、魔術とは違い極度の集中が必要ないのが良い。
「【光の矢】」
「そのような小細工が効くものかッ」
広い顎を打ち上げた光は敢え無く霧散した。ツラの皮まで鎧より分厚い。
何かしらの物理攻撃により発生した衝撃刃に肩を抜かれるが、奥歯を噛んで後退したがる身を留め、刃のこぼれ掛けた武器を叩き付ける!
「【刃に寄り添う炎】」
小さな、小さな呻きが耳に届いた。炎を纏ったしろがねは硬い皮膚を鋭く焼いた。
身を削る凶器を排除すべく、悪夢のような手のひらが伸びる。その腕には微かな赤い痕。
確かな証拠を視認しつつ、更なる確認に今一度声を重ねる。
「【重複】!」
「小賢しいッ!」
盾と構えた上腕を掻い潜り逆腕を捉えた刃は、しかし大した成果を上げぬまま鎮火した。
火の魔石の効力は、他に比べ圧倒的に短い。長時間の加熱は剣の寿命を終わらせかねないので、それについては文句は言うまいが。
先立って付与した魔力皮が、余波で高熱を帯びた柄を握る手をガードできるだけの効力を発揮しているのに胸を撫で下ろしつつ、リンデンはニタリと人の悪い笑みを零した。
「奇遇だなあ、覇王。私も防御の方が得意なんだ」
「……なるほど、目聡い相手とはやり難いものであるな」
つまりは。
特殊能力に近しいほどの防御特化型なのだ。ただし、攻勢に移らず、迎撃の姿勢を取る間についてのみ。
魔術を伴わない素振りの一撃に、ダメージに繋がらずとも皮膚が赤くなるだけの衝撃を受けた。それはマリーゴールドにして、隠そうと思う程度に揺さぶりを覚えた事実だったのだろう。
次の一撃に、リンデンがこっそりと追加効果を相乗させていないとも限らない。威力によってはガードした腕が切り落とされる事態が起きないとは言えない。そんな心配から攻撃を避けた。あるいは無意識の行動だったのかもしれないが。ついでに言えばリンデンは無音の魔石発動を行えないので杞憂の一言だったのだが。
ニヤニヤと笑みを浮かべるリンデンに腹でも立ったのか、無言で正拳が突き出された。直径20セランチの円柱の衝撃波を慌てて避ける。攻撃にしてはお粗末なんだが、もしかして八つ当たりか。見た目にそぐわん若者らしい行動は、見た目にそぐわんからして止めるように。
「てっきりパワーごり押し型かと思ってたが、なるほどなあ、覇王にもアキルスの踵があったか。覇王も人の子ってことだな」
「ふん、我が攻勢に出なければ踵すら貫けぬ者が、偉そうな口をきく」
「まあそうなるな。戦略としては、守勢に回ってひたすら迎撃か? こっちとしちゃ困るけどなあ。いや、別に良いんだよ、それはそれで。戦略だしな。しかし困る反面、私は嬉しい」
不愉快そうに太い眉が寄せられる。
チェシャ猫の笑みを満面に乗せて、リンデンは声を潜めて豪語した。
「だって防御面を気にするってのは、真正面から戦ったら、私に勝てる自信がないってことだよなあ?」
──大気が動いた。
背筋に走った悪寒に任せ、咽喉を詰まらせそうになりながらも声を張り上げる。
「【石の壁】【重複】【重複】【重複】!」
そろそろ人外の動きに対し、少しは目が慣れた気がする。
一瞬にして左後方に回り込んだ巨躯とリンデンの間に分厚いモノリスが立ちはだかった。だがしかしその命や潔いほど短し。安らかに眠れ、石壁。
豆腐を砕くようなインパクトに散った石片を避けながら、続けざま重ねに重ねる。吹き飛んでは再構築を繰り返すそれを目暗ましに場を移そうとして、更なる予感に思い留まる。
急ブレーキを掛けたリンデンの目前を豪腕が突き抜けた。危ねえ、読まれてた。
降り注ぐ石片が傷口を抉って痛かったが、顔面を首からもぎ取られるより随分とマシである。即座に横薙ぎに振られる腕が盾を過去形に変える。
挑発があっさり効いたのは若さゆえか、真正面から折られたことのないプライドゆえか。
マリーゴールドを折ることができそうな心当たりと言えば、祖母であるカランコエ。際限ないおちょくり型だが、しかし素直さの目立つ覇王にはカランコエが好んで発する皮肉とか遠回しな表現は理解されなさそうだし、ど真ん中の挑発というのに耐性はなさそうだ。
続けざまの攻撃に、あらゆる種類の魔石がゴリゴリ削られる。進行を防ぐだけの任務を忠実に遂行して、土属性ラストの宝玉が消えた。更に水属性が消え、風が止み、反撃ついでに使用していた火属性が灰燼と帰す。
鎖に残るのは、無駄骨の体感が凄まじかったため使用を諦めた、精神、肉体異常系の魔石のみとなった。それすら半ばで引き千切られている。
落ちた鎖の一部を拾い上げる。無残な断面を見せる枯れ色の蔓に眉を寄せ、溜息と共に床に落とした。散った仲間を適当に足で集めて黙祷する。ああ、また弟妹に小言を言われる。
「手駒が失せたな。これまでか、コマ鼠」
誰がコマ鼠だ。好きでチョロチョロしていたのではなくて、チョロチョロしないと叩き潰されるんだから仕方がなかろう。愚鈍なトロルでも生命の危機となれば俊敏に動くだろうよ。
上がった息で反論ができない。持っていかれた脇腹の肉が不在を訴えて熱を発している。ウエストが1、2セランチは細くなっただろう。全世界の女性郡、喜べ。お手軽ダイエットがここに爆誕した。ただし美容と健康には非常に悪い。副作用としてついでに肋骨も折れるし。
同じところを狙われて抉られ、動かし続けて広がった肩の傷の具合を確かめる。指先の感覚は鈍いが、動かないことはない。
それより打ち合った衝撃で切れた掌からの血が止まらなくて、剣の柄がやたらと滑る。服の裾でおざなりに拭ってもあまり効果はみられなかった。仕方がないので適当に服を裂いて手のひらに巻き付ける。不格好な即席バンデージは、それでも素手よりはマシだった。
それにしても勝者の余裕が憎たらしい。不満露わに鼻を鳴らしても、負け犬が睨み付ける風情にしか見えないところがこれまた憎い。
堂々たる大樹は倒れない。よろける様すら見せない。その事実の前に、リンデンの負けは見えたようなものだろう。
巨躯の向こうに、顔を青褪めさせた雇い主と、何らかを喚く騎士の姿が見えた。
覇王の猛攻の余波でボコボコになった場外に、よくぞなお佇んでいるものだ。クインスはともかく、アキレアは今すぐ結界が作動しているらしい観客席に移ることをお勧めする。王が身を乗り出してハラハラしてて落ちそうで危ないから。
心配を掛けている、らしい。そりゃ、相思相愛の実りを賭けた決戦に負けが濃厚とあれば心配もする──と思うほど、リンデンは捻くれていない。純粋に、身を案じてくれているのだろう。
悪いことをしている気分で、複雑な思いのまま顔を歪める。笑みに似た顔面筋の弛緩。あえて言うなら面映いという感情が強い。
戦場で、こうも近場からじっくりと誰かに見守られることなぞ、ほとんどない。視線を固定していれば背後から刺されるのがオチだ。気は配るし助けには入るが、ひたすらに生還と勝利を思われるというのは、想像していた以上に。
良いところを、見せてやりたくなるものだ。
「樹を、仰ぐ癖があってな」
上澄みの呼吸を整える。喋らない方が早いとは思うものの、不思議と言葉が口を衝いて出た。
怪訝そうな気配に笑みすらこぼれた。気が触れたかと顰められた、高い眉間の山脈を落ち着いた気分で眺める自分がいた。
「大抵、大きな樹を仰いでる。自分の背より大きなものを探して、木陰の少し外側から、いつかその天辺に届くように、背伸びをしながら」
沈黙を保つ覇王の闘志が再燃する。戯言に付き合う傍ら、止めは全力で刺しに来るようだ。
獅子は兎を狩るのに全力を出すという。ならばリンデンは言葉に出されるよりは獲物として認められているらしい、と、どことなくずれた思考で満足した。少なくともコマ鼠ごときの食いでのない生き物にフルパワーのゲンコツは降り注ぐまい。
「そうして背が伸びて、天辺に手が届くようになったら新しい樹を探し出す。見付けたら、また同じように仰いで手を伸ばす。終着点のない不毛な癖だとは理解してるんだが、底近くから上がってきたせいかな。こればっかりはどうも直らない」
滑る剣の柄を握り直す。
両手に提げた得物の重みは、随分昔に慣れたものだ。負傷した腕でさえ待機するのに不都合はない。持ち始めた時分には、思う通りに振り回すことなど無理だと考えていたものだが。
まだ足は動く。痛むしきついが、腕も振るえる。血液は脳が痺れるほど深刻に足りないわけじゃない。思考は、むしろ冴えている。
今度こそ口元にはっきりとした笑みを刻んで、年輪を重ねた木肌色の瞳をゆるりと細めた。
「あんたは大樹だよ、覇王。でも、私はそれを凌ぎたい」
「……起死回生の奇跡でも起こすか?」
「枝を伸ばして花が咲き、成った果実を成果と言うなら、努力の実りは奇跡じゃないな」
「花付く枝を切り落とされて、なお大言を吐けるその意気は買おう。だが」
ざり、と砕けた魔石の欠片を擦り、太い幹が波打つ。
肺の酸素を押し出し、ゆっくりと一新させて、最後の一撃に備えるべく呼吸を収めた。
「満身創痍のその幹は、そのまま朽ちるが定めよ!」
剛雷の一喝と共に、砲丸が真っ直ぐに飛んできた。気付いた頃には振り上げられた手は既にリンデンに向けて速度を上げていて。
左手に握ったソードブレイカーを腕に添わせて差し出した。リンデンは得物に切れ味を求めない。硬度。できればそれと、靭性。攻防揃えた「剣殺し」は、何より強靭さが必要だったので。
肩の付け根から根こそぎもげるかと思った。剣はインパクトで無残に折れたが、腕が千切れるような未成年注意の現実は訪れなかったようだ。骨は砕けているようだが。
条件反射とはありがたいもので、無意識に身を引いていたらしいからこそその程度で済んだらしい。痛みにブツ切れたがる意識を手繰り寄せ、よろける足で後退する。ブーツが硬いものを踏んだ。それを目安に、もう一歩。
進行方向を反転させた覇王は、力強い一歩でリンデンに肉薄した。
「逃がすと──」
「【氷は戒める】」
武器としての形を失ったソードブレイカーを強く握ると、脳髄を痛みが駆け巡った。長らくの相棒は、最後の仕事にと柄を青く明滅させる。
仕込んだ魔石が開放され、覇王の足元を氷が彩った。腰まで絡み付く冷気に見開かれた鋭い目は、すぐに理解の色に染まる。
「ちゃちな切り札だ」
「そうかい? 私は随分助けられてるけどな」
振り被られた豪腕が、真っ直ぐにリンデンに向かう。腰の、足の氷は抵抗もなく崩れていく。
凍り付いた左手から剣が落ちた。ブレストプレートからいつの間にやら飛び出した、胸元に揺れるペンダントが太陽光を反射して──。
「【治れ】ッ!」
リンデンは全身で吼えた。ペンダントの核が光り輝く。手から、魔性を帯びた壊れかけの氷を伝い、解き放たれた魔力は伝染する。
マリーゴールドの足元で脈動する生命。魔力を伝えるべく生かされたまま鎖と化していた、過去には大樹の姿であったものの一部は、力を受けて進化する!
千切れた鎖であったものが瞬きの間もなく増殖する。地面を跳ねて伸びる幾筋もの枝。あるものは大地を割り根と化し、あるものは太陽を目指して空を目指す。
その進行を妨げる存在に、巻き付き、取り込み、ときに貫きながら。
「【風は刃を揺らす】」
残った剣の柄が輝いた。神秘性から程遠い湾刀は超高速で振動を起こす。傷に響くタチの悪い武器を全霊を込めて握り締めた。
腕を、足を、腹を。枝を伸ばした木に絡め取られた覇王の目が明確に焦りを帯びた。筋の浮いた腕が拘束を引き千切るには時間が足りない。氷に、岩にはない、クラックに対する強さ。強烈な靭性を誇る繊維質の前に、初動を伴わぬ単純な膂力は分が悪い。
「ッらあああああああああああああああああああああ!」
「──見事だ」
切り上がる剣。刃の接点で超振動による高熱が木を溶解させる。抵抗力のない、恐ろしく軽い一振り。
肉に到達する間際、覇王は満足げに微笑んで、賞賛を送ったのだった。




