ここは地の果て世界の果て。
薄暗い石壁が広がる静寂の世界。
いや、静寂の世界に時折聞こえる声は人か魔物か・・。
だが男に迷いはなかった。
真新しい本を片手に詠唱を続ける。
男はこの魔物の巣窟で禁断の秘術を試みていたのだ。
魔力の高まりと共に張り詰めてゆく空気。
その魔力に呼応する様に男の足元が怪しく光を帯びてゆく。
その足元には魔法陣があった。
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赤く澄んだ空には、今日も二つの蒼い月が煌々と輝いている。
その月に照らされる薄汚い建物があった。
泡立つ沼地に浮き漂うその建物は、古く苔むした外装からまるで廃屋の様にも見える。
だが、それは廃屋ではなかった。
緩やかな月の光が煤けたガラス窓から室内を淡く照す。
そして、その光に照らされた室内にはぼんやりと人影が見えた。
「あ~…今日も順調に蒸し暑いな~」
纏わりつく様な湿度が室内に充満している。
悠久の時間が流れるこの世界で、今日も私はダラダラとしていた。
廃屋の様な事務所の床に寝転びながら私は幾度目かのアクビをした。
「あぁ~…今日も無駄に暇だなぁ~」
ソファーに腰掛けたロアは、私を一瞥すると呟くようにぼやく。
「あのさぁ…お姉ちゃん。
暇だからって床に転がるのどうなのかな?
ついでにパジャマのままで仕事するのはどうかと思うけど…
ここ一応職場なんだしさ」
「ロアは無駄に真面目だね~。
別にいーじゃん。
床の方が少しヒンヤリするんだし。
着替えるのもメンドクサイし。
どうせ今日も仕事無いでしょ?」
そう、私がこの事務所に就職してから3年。
未だ一件の仕事もない。
まぁ職業柄それほど需要がある仕事じゃないのはわかってはいたけど、
ここまで仕事が無いとは思わなかった。
理想と現実はなかなか一致しないものだと実感する。
仕事が無い以上ただ待つしかない。
「だるぅ~ぃ…」
うだる暑さと気だるさ、ついでに有り余る時間。
ロアは『家庭で出来る呪術・応用編』を読んで時間を潰している。
ロアのヤツは毎日どうでもいい本ばかり読んでいる。
その知識が役立つときが来るのかどうか…。
そんな事をボンヤリと思いながら、私は新たな床の冷たさを求めて転がる。
いつも通りの変わらない日常。
『ゴガッ!!』
ゴロゴロと床に転がる私の頭に、予期せぬ一撃が見舞われた。
「げはっ!!いっだーっ!!いったぁ…いてて…」
勢いよく開かれた所長室のドアが私の頭に直撃したのだ。
私は予想外の一撃に頭を抑えた。
「ウリン! いつまでもそんなとこで転がってないで仕事よ仕事!」
所長室のドアを開けて現れたのは、腐敗と惨禍を司る女神ラミエス。
この事務所の営業所長でもある彼女は何かを手にしていた。
その手に持っていたのは形成中の魔法陣。
蒼く輝く魔法陣はグネグネと不完全な形状をしており、
魔法陣から滴る液体が床を濡らす。
「それって…まさか…召喚の魔法陣?!
蒼の魔法陣って事は…人間界だよね?」
私は思わず声を上げた。
「召喚?!やったぁ!!もー毎日毎日暇だったんだよねー!
これが本物の魔法陣なんだ~初めて見たな~」
「やっと…仕事が…」
本に目を落としていたロアも顔を上げて目を輝かせる。
教科書の挿絵でしか見た事のない魔法陣の現物を前に、ロアも興奮を抑えきれな様だ。
「正解っ!人間界からお呼びが掛かったわよ。
あー…久しぶりの仕事だわー。
アナタ達にとっては初めての仕事になるわね。
今までゆっくりしてた分しっかり働いてもらうわよ」
ぐにゃぐにゃの魔法陣を、クルクルと指で回しながらラミエスは微笑む。
「ねぇねぇ…ラミちゃん。
それって一人用の魔法陣みたいだけど…私とロア、どっちが行くの?」
魔法陣の形状に気づいた私はラミエスに聞く。
「そうねぇ…レベル的にはウリンの方が一つ上だけど…
スキル的にはロアの方が上なのかなぁ?
でも、どっちも仕事も人間界も初めてだからねぇ…。
どうせなら二人一緒に行っちゃおうか?」
「どうやって?その魔法陣じゃ一人だけしか転送されないでしょ?」
「ふふふ…裏技使えば何とかなるわよ」
私の問いにラミエスは意味ありげに親指を立てる。
「…所長…ところでその魔法陣いつ完成するんですか?」
ロアの質問にラミエスはぐったりとした魔法陣を眺める。
「もうすぐ完成みたいだから、時間的に15分ってとこかしらね」
「ラミちゃん、それってあんま時間無いって事じゃない?」
「そうねぇ…全然時間からアナタ達、急いで用意した方がいいわよ」
ラミエスは他人事の様にさらっと答える。
その一言で私達は慌てて荷物を纏め始めた。
ロアは更衣室のロッカーの中から通販で買った、黒蜥蜴のレザースーツを引っ張り出しイソイソと着替え始める。
普段から手入れをしているのかカビも生えてない。
愛用の2本のダガーナイフを腰のベルトに下げ、着替えや本を鞄に詰め込んでいる。
私もそれに習い自分のロッカーを開けるが…。
中にあるのはホコリとカビで覆われたヨレヨレの過去に服だったモノ。
それ以外は…どうでもいいガラクタで溢れていた。
「ぐは…マジか…こんな時に限って…ロア、アンタなんか着替え持ってない?
私に似合いそうなカッコいい服がいいんだけど」
「そんなのあるわけないじゃん。
普段から変なモノしかロッカーに入れてないから、いざっていう時に困るんでしょ?
いつも言ってるじゃん。
いつ呼ばれてもいい様にしておいた方がいいって」
「じゃあいいよ!…これだけは持っていこうっと…」
私はロッカーの奥にあった唯一使えそうな戦鎚を引っ張り出した。
就職祝いにママから買ってもらったモノだ。
「でもお姉ちゃんそれで大丈夫なの?」
「何が?」
「何がって…パジャマのままだけど」
「うーん…着替えを取りに帰る時間も無いし…このままでいいや」
「…お姉ちゃんがいいならいいけど…」
記念すべき初仕事にしては気合の入らない格好だけど、
まぁ、動きやすい格好と思えば…そう自分を納得させる。
「あなたたち早くしなさいよー」
ラミエスの声が聞こえる。
ロアは大きな鞄を私は戦鎚をズルズル引き摺りながらラミエスの元に戻る。
「あら?ロア、それって確か通販で買った黒蜥蜴のレザーよね。
闇も吸い込む様な漆黒が悪魔っぽいオーラが出てていい感じじゃない?」
「ですよねーですよねー?
いつの日かこんな時が来るかと思って『なりきり魔神コスプレフルセット』買っておいてよかったぁ」
ロアは少し照れたようにくるくると回る。
そんなロアを横目にラミエスは視線を私に移す。
「ところでウリンはいつも通りの随分ラフな格好って言うか…。
荷物もウォーハンマだけ?」
「え?やっぱダメ?社会人として失格?」
「うーん…社会人としては終ってるけど、
ダメっていうか…先方に失礼じゃないかしら?」
ラミエスは少し眉間に皺を寄せる。
「別にパジャマでもいいんじゃないですか?時間も無い事だし。
なんかグッタリとしたっていうか…そんな雰囲気的なものっていうか…
…うん…お姉ちゃんらしい…っていうかそれはそれでっていうか…
本人もそれなりに満足してるみたいだし」
ロアは初めての人間界に気が焦っているのか、どうでもいい褒め方をして会話を急がせる。
「いや…別に満足してるわけじゃないけど…それ褒めてるのかな?」
「私なりに褒めてるんだからさ、気にしないでお姉ちゃん」
何となく言いくるめられた感があるけど…時間も無いし、ここはスルーしておく。
「ま、いいわ。
じゃ裏技の準備しよっか」
「そう言えばラミちゃん、裏技って何?」
私は素朴な疑問を投げかける。
「一人分の転送で二人を転送する方法。
つまりもう一人を装備品扱いにしちゃえばいいの。わかるかしら?」
「さっぱり!」
私は即答する。
「召喚ってね、召喚される対象の装備なども一緒に転送されるの。
もし体だけ呼び出されちゃったら、
向こうの世界で何にも身につけてない状態で呼び出されちゃうと困るでしょ?」
「確かに…いきなり全裸だと倫理上色々とヤバイけどさ。
で、結局どうするの?」
「まぁ、説明するより実践実践~♪ サクッとやってみよっか」
ラミエスは適当な縄をロアの首に巻く。
「はい、出来上がり。
ウリンがこの縄をしっかり掴んでおけばロアは装備品。
ちょっとデカいストラップって事で一緒に転送されちゃうって訳よ」
「…え?これだけ?終わり?」
不安な要素しかないチープな裏技に私達は一瞬言葉を失う。
「あの…所長…えと、これ根本的にどうなんでしょう!?」
「大丈夫!転送中にウリンが縄から手を離さなければ、異層空間ではぐれる事はないわ」
「いや…でも…これ…万が一でも異層空間ではぐれたら…?」
「空間にすり潰されるんじゃないかしら?やった事ないからわからないけど」
不安げなロアの質問にあっさりと答えるラミエス。
「さ、ウリンしっかり縄を掴んでね」
私は縄を握り締めるが、どう考えても失敗というか…なんかのフラグが立っている気がする…。
「所長…何か首に縄っていう時点で色々不安なんですけど…これホントで大丈夫ですか?!」
「大丈夫だと思うわよ…召喚裏技辞典に載っていた手法だし。
でも一応先に謝っておくわね ごめんね」
「なんで謝るの!?これダメなの?やっぱりダメなんじゃないの?!所長っ!!」
いまだに不安が残るロアは焦っている。
当然だ、こんな適当な方法で転送されるとは思えない。
もし逆の立場だったらと思うと私も不安だ。
「だから謝ったでしょ。
アタシだってこんな手法使うの初めてなんだからわからないのよ」
「じゃあ、他の方法で!!」
ロアとラミちゃんがギャーギャーやっている間にも、魔法陣は催促するように輝きを繰り返す。
「もー…ロアも諦めなさい。
他の手段を探すのも面倒だし…ね?
「面倒って…」
ロアの呟きを無視するようにラミエスは話を続ける。
いい?ウリン、ロア。
今回の召喚は悪魔としての手腕を発揮できる数少ないチャンスなのよ。
疲れない程度にがんばりなさい。
最後に一つだけ悪魔としての心得を教えておくわ。
召喚主の望みを叶える時は適度に叶えてあげるのがポイントよ。
少ない労働で最大の成果、これが出来てこそ最高の悪魔と言えるわ。
その点だけは忘れないようにね」
ロアの説得に疲れたのかラミエスは話を進める。
「了解ラミちゃん!私の実力を遺憾なく発揮してくるわ!」
私の意気込みと共に方陣が蒼く鈍い光を放つ。
「じゃ行ってくるねぇ~」
私はラミちゃんに手を振る。
「お姉ちゃん絶対ロープから手を離さないでよね!!」
ロアはガクブルしながら私にしがみついた。
「ウリンとロアに破滅と狂気を統べる赤き魔神とかその他諸々の加護がありますように…」
ラミエスは静かに聞いた事もない何かに祈りを捧げた。
その祈りを待ちわびたように魔法陣が一際眩く輝きを放った。
「えーと…ところで、どうやって転送するのこれ?」
「ウリンしっかり立っていなさいね」
ラミちゃんは魔法陣を持ったまま大きく振りかぶるモーションに、
私の第六感が危険を知らせている。
「うぅおりゃぁぁー!!!」
ラミエスは私の頭に魔法陣を叩きつける。
濡れたタオルでひっぱたかれた様な衝撃とダメージを受けつつ、
強力な吸引力で私は頭から魔法陣に吸い込まれた。
当然、私の掴んだ縄がビシッと張り、ロアも同じ様に魔法陣に引き込まれてゆく。
「ヴゲッ!!!」
異層空間に吸い込まれた私の耳に何かカエルが潰れた様な声が聞こえた。
魔法陣に引き込まれた私の目に映る世界が一瞬にして変っていた。
そこはどこまでも真っ白な無限の世界。
「ここが…異層空間…まるで手抜きのような真っ白な世界…」
ここはどの世界にも属さない次元の狭間。
初めての感覚に少し戸惑う。
上も下も重さも無いまるで水面に浮いているだけの様な感覚。
どこからか何か引かれている様な、逆に押されているような不思議な圧力を体に感じる。
精神が静かに狂っていく様な息も詰まる圧迫感と、
避ける事の出来ない破滅に向かい合う様な諦めに近い開放感。
もし、ここにずっといたらきっと様々な負の感情が湧き出てくるかもしれない。
「あぁ…なんて素敵な世界」
私はうっとりと感傷に耽る。
「ゲホッ!!ゲハッ!何でお姉ちゃんいきなり引っ張んのよ?!
いきなり一話目で死ぬかと思ったでしょ!!」
湧き上がる様々な負の感情に浸っている私の耳にロアの濁声が邪魔をする。
「私が引っ張ったんじゃなくて、結果的に引っ張られただけでしょ?
なんならここで手を離してもいいけど…」
私は縄を握った手をプラプラと動かす。
「うっ…!何て卑怯な…。
いや…その非道ぶりは実に悪魔らしいと評価するべきかも…」
ロアは悪魔としての複雑な心境に言葉に詰まる。
「そんな事よりさぁ、向こうの世界に行ったらとりあえず私が口上言っていい?」
「別にいいけど…お姉ちゃん噛んだりしない?」
「大丈夫、任せて!一応私なりにアレンジした口上を考えてたのよね~」
私は胸を張った。
「不安だ…」
ロアの呟きを無視して私は話を変えた。
「そんな事よりもロア…すっごい遠いところに何か見えない?」
「ん? ん~…何だろうね…。
何かが凄い勢いで迫ってきている様にも見えるけど…」
「だよね?とりあえず嫌な予感しかしないけど…もしかしてアレって…」
そんな会話を遮るように目の前に瞬時に迫ったソレは、もう一つの蒼い魔法陣。
『バチーンッ!!!』
高い所から水面に叩きつけられる様な衝撃と共に、私達はその魔方陣に叩きつけられた。
「げぼはーッ!!」
再び魔法陣に吸い込まれた私達は外の世界に吐き出された。
そこは異層空間で無い事を証明するかの様に一転して目の前の世界に色がついた。
床に描かれた魔法陣の中央から私達は弾き出され、
勢いよく飛び出した私達の体は、宙を舞い天井にぶつかりそのまま床に落下した。
「いってー!!シリ痛ってー!」
「顔打った!!!何なのよもー!!!!!」
私とロアは硬い石畳の床に文句をつけた。
私はお尻を摩りながら周りを見回した。
そこは石壁で囲まれた薄暗い通路。
壁には等間隔で並ぶ燭台が淡い光で通路を照らしている。
そして私達を見下ろすように立つ人影。
そこに漂う魔界とは違う空気感。
それが私達の人間界の初めての光景だった。